GROUND ZERO

始業式というのは、大抵の生徒にとっては半休と同義だ。
私立の強豪校ならともかく、岩鳶高校のような一般的な公立校では始業式の日にまで朝練に勤しむ部活はない。ほとんどの生徒は朝練も放課後練習もない、更に言えば授業もない始業式の日を意識の底では休日として扱っているはずだ。
生徒たちに課されたことと言えば、新しいクラス表を見て親しい友人がどれほどクラス内にいるかを確認すること。そして、担任は面倒な教師ではないかどうかを見定めること。それから最後に、一時間弱の始業式をぼうっとやり過ごすこと。
楽な一日である。ここまで労力を割かないとなると、もはや登校することの労力の方が大きい気さえする。
そう考えた遙は、ちゃぷんと水音を響かせて浴槽の底へ沈んでいった。
面倒くさい。クラス替えの中身にも担任教師にも始業式にも興味がないのだ。惰性で学校へ行くことが苦痛だった。

「遙!まだお風呂?いい加減にしてよ!」

しかし、現実には誰も彼もが始業式の朝にのんびりしていられるわけではないことを遙は知っていた。
双子の姉弟──兄妹、かもしれない──七瀬名前。
血を分けた遙の片割れは、脱衣所の奥から憤懣やる方なし、と言わんばかりの勢いで足音を響かせている。
ガラリと乱暴に脱衣所の扉が開いた音がしたと思えば、そこから間隙なく風呂場の戸は開かれた。
ざぱん、
水飛沫を上げて水面から顔を出した遙の瞳に映ったのは、腕組みをして仁王立ちをしている名前だった。優等生らしくきちんと制服を着込み、学校へ出掛ける準備は既に整っているらしい。「はよ、」と声を掛けると名前は、「おはようじゃないのよ」とただでさえつり気味の瞳を引きつりあげた。

「昨日の晩、言ったでしょ。私、始業式の準備のために普段より一時間早く登校しなきゃいけないって。」
「……ああ、」

正直に言うと、忘れていた。
確かに昨晩、夕飯の後にそんなことを言われたのを思い出す。
生徒会役員である名前は、始業式の朝に余裕を持てない数少ない生徒の一人である。
それどころか、大半の生徒が早々に帰宅する中、おそらくは式の後片付けとかで居残りをしなくてはならないので始業式は名前にとっては半休などではない。下手をすれば、平常のスケジュールよりも忙しい可能性すらあった。
──ご苦労なことだ。
遙はもう一度ぶくぶくと水底へ沈みながら、横向きに顔を逸らした。
集団行動、興味のない義務。どちらも大嫌いな遙にとって、こういう無益な雑務に名誉欲だけで飛びついていく名前は家族でありながら時に最も理解しがたい相手になり得た。
岩鳶高校生徒会の、図書委員長という立場の何がそんなに嬉しいのかは分からない。しかし優等生という立場を強固なものにすべく、名前は生徒会メンバーの椅子を欲しがった。彼女がまだ高校一年生の頃の話だ。
それから、教師や周囲の推薦もあり楽々と生徒会役員入りを果たした名前は、今日まで朝の時間を犠牲にしてまで名誉職にしがみついている。ように遙には見える。


「遙!聞いてるの?私、早く登校しなきゃいけないからさっさと風呂から上がって朝ごはん食べて。」

浴槽のフチまでずかずかと入り込んできた名前は、無遠慮に水の中に腕を差し入れ遙を引き上げた。
思った以上に遙の身体が重かったのか、少しだけ眉を顰めて水中から腕を引きぬく。
無理やり水中から引きずり出された遙はムッと口をへの字に曲げて、名前を睨みつけた。

「……俺のことは放っておいて先に食えばいいだろ。」

至極真っ当な論である。双子とはいえ高校生の、それも男女の間柄だ。いつまでもべったり二人一緒でなければならないという決まりはない。
しかし、それに対して名前から返ってきた言葉はそれ以上に真っ当な理論を帯びていた。

「どうせあんた、真琴が来るまで水に浸かってるつもりでしょ。いい加減真琴離れしたらどうなの。真琴はあんたのお母さんじゃないのよ。」
「……。」


再び、横を向いて視線を逸らす。言い返すのは面倒だが全面的に相手に降伏するつもりはない時の遙の癖だ。名前はそんな相手にしびれを切らし、脱衣所のプラスチック籠から遙の下着を引っ掴み、差し出した。

「さっさと着替えて。水着はちゃんと洗濯機に入れておいてよ。」

渋々と浴槽から立ち上がった遙が変わらず水着を履いているのをちらりと見て、そう吐き捨てる。それから肩を怒らせて、名前はキッチンへと向かっていった。

「……。」

遠くなる名前の背を見ながら、ため息を一つ。
あんな暴君を「学年で一番の美人」だと言って崇拝している男子たちの気が知れない。
あの一分の隙も無い可愛げのない言い口を聞かせてやりたいくらいだ。
遙は不服さを隠す気もなく、じとりとした瞳のままに身体を拭きに脱衣所の敷居を跨いだ。







食パンをトーストするくらいのことはできる。
名前は上手く焼けているトースト二枚にバターの塊を垂らし、皿に置いた。遙は追加で鯖を焼くのかもしれないが、あいにくと自分にはそんな食の嗜好はない。
冷蔵庫から買い置きしているヨーグルトと昨晩の残り物のサラダを取り出して、食卓に並べた。それから、一応コンロの網に火を入れておく。どうせ、遙が鯖を焼くだろうと見越しての行動だった。

「……名前、」
「なに?」
「……飯、」
「飯がなに?あんたの分のトーストならそこに置いてるけど。」
「……ありがとう。」

言葉の足りない遙にいちいち盾突くように言い返してしまう。名前はそんな自分を内心では厭いながら何でもないフリをした。
別に、遙の言葉が足りないのもはっきり喋らないのもいつもの事だ。いちいち目くじらを立てるほどのことじゃない。
けれど返答がぎこちない時、たいてい遙は何か頼み事をする。その気配を感じ取り、名前は心がささくれ立つのを感じずにはいられなかった。

何か頼まれる前に、さっさと食事を済ませて家を出てしまおう。
そう考えた名前を敏感に察知したか、遙はぬるりと温い水のように名前の背後からその身体に纏わりついた。
突然の事に、身体の反応が遅れる。名前が後ろを振り向こうとする前に遙の腕が腰から腹に回り、そして肩には遙の顎がずしりと乗せられた。


「……なに。」
「学校、休む。」


よくよく下を見てみれば、背後からずしりとのしかかってくるように名前にもたれかかる遙は下着を履いていなかった。いや、語弊がある。下着は履いていなかったが水着は着ていた。
朝からガミガミと名前から叱られてへそを曲げ、ただでさえ学校を休みがちな遙が登校する気を失くしてしまったらしいことを察し、名前は大げさに息を吐き出した。
この男、小学生の頃から何一つ成長していない。
名前は視線だけを後ろへ向けた。

「休みたいなら勝手にすれば?真琴と学校にだけちゃんと連絡してよ。」
「……連絡。」
「そう、連絡。」
「……連絡、してほしい。」
「私が?」
「名前が。」


ぐりぐりと肩口に頭を擦りつけてくる遙をうんざりとした目で見下ろし、名前は額に手を遣った。何か言いたげだとは思ったが、案の定ロクでもないことだった。高校生男子の頼みではない。欠席連絡くらい自分でできないものか。
呆れはしたが、真琴なしでは他人との意思疎通が難しい遙だ。「休みます。」の後に続く「理由は?」「明日は登校できるか?」という尋問に耐えられないのだろう。無断欠席とサボりで生徒指導から目を付けられているから余計に。


「あのねえ、真琴はあんたのお母さんじゃないって言ったけど、私もあんたのお母さんじゃないんだけど。」
「知ってる。」


肩口にぐりぐりと頭を擦りつけながら、遙はずるずると名前に体重をかけた。
真琴に比べれば華奢な方だが、それでも遙もそれなりの体格でそれなりの重さがある。名前は支えきれなくなりそうな気配を感じ、遙の頭を掴んで後ろへ追いやった。


「ちょ……っと、自分で立って。」
「……。」
「無言の抵抗はやめてってば!」
「……連絡。」
「〜ッもう!」
「……名前は、母さんじゃないって分かってる。」
「分かってなかったら困る。」


今度は、名前の方が不貞腐れたような言い方になってしまった。
ガラスの食器棚に映る自分の顔は、ふくれ面まで遙にそっくりだった。
──どうしてこんなに似てるんだろう。
双子だからに決まっている。しかし、この母親でもない、妹でも姉でもない、双子という微妙な立場が、名前は何よりも嫌いだった。


「……名前、」
「……ッ、」

こうして遙に言われると、逆らえない。
自分の遺伝子が「本体に逆らうな」と騒ぎ立てるのを感じる。
鼓膜の近くで、ゆっくりと名前を呼ばれると途端に身体から自由が奪われるのだ。それはまるで、水の中で身動きが取れなくなったような感覚に似ている。


双子というだけで、遙と名前の間には優劣という壁が存在する。と、少なくとも名前はそう思っている。
名前がどれほど優等生であっても、男子生徒から熱い視線を受けていたとしても、生徒会役員であったとしても、学年首位を守り続けているとしても。それらは名前を「優」には位置付けてくれない。双子間における優劣というのは後天的に決まるのではない。先天的に、「本体」と「部分」に分かれているのだ。
遙と名前、どちらが優たる本体で劣たる部分か──。
名前が自分の立ち位置を把握したのは、物心がつき始めてすぐだった。


「……分かった。」

諦めにも似た気持ちで、遙の方を振り返る。
背後からじとりと視線を逸らさずに名前を見ている遙の瞳には、情けないくらいあやふやな自分の輪郭が浮かんでいた。

「……。」
「けど、せめて真琴にはハルが自分で連絡してよね。」
「ああ、」

するりと解かれた遙の腕から抜け出す。悪い夢から覚めるように、距離を取ってから名前は髪を耳元からかき上げた。
また「頼み」という名の命令を聞いてしまった、と後悔しながら。

「欠席するって言うけど、クラス替え、見なくていいの?」
「別に、興味ない。」

遙はそれだけ言うと、また風呂場へととんぼ返りしてしまった。
去ってゆく遙の背中を見つめながら、名前は頭の片隅がひどく痛むのを感じた。
本体から分かたれた部分。名前の内に眠る「遙になるはずだった遺伝子」は、いつだって本体に帰りたがっている、と。





(GROUND ZERO/七瀬遙) 
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