WATER FRONT

水は死んでいる。ひとたび飛び込めば、それはヒトという物質が落ちてくるまで、慰みも憐憫もなくただそこに在るだけ。そしてヒトという生き物の処刑台は、水面から十メートルの高さにある。コンクリートのプラットフォームから足を離した時、ヒトは同時に生からも一歩、足を踏み外すのだ。水は、さながら処刑具のように下方で一面に不気味な色を湛えてヒトの落下を待っている。
けれど、恐れることはない。
抗わず、受け入れず、水面に打ち付けられるその瞬間まで息を殺していればいい。
互いの存在が同じく死へと一歩近づく、その時まで。




──なんて、あの頃は小恥ずかしいことを考えていたものだ。
代り映えのしない通学路を、海を右手にして歩みながら七瀬名前はため息まじりに瞳を閉ざした。
潮香が鼻先を掠めていく朝八時、岩鳶港に停泊する漁船は数少ない。とうに漁へ出ているのだろう、沖合に白い陽炎のようにゆらめく数隻の漁船を流し見て、名前は海風になびく髪へ指先を通した。

死んだ祖母がよく口にしていたことわざ。
「十で神童、十五で天才、ハタチ過ぎればただの人」。
ただの人まであと三年とちょっと──、自身に残された時間はそう長くはなかった。
それまでに特別な人間にならなくてはならない。あと三年、この年月の間に特別な人間になれなければ、一生をただの人として過ごすことになる。
それだけは、御免だった。ただの人として一生を終えるくらいならば、自宅近くの高台にある展望台から日本海に身投げをして死のうと思う。冗談など挟む隙もなく、名前はそう考えていた。
しかし、何にもない町、何もない生活、退屈に殺されてしまいそうな港町の高校生にできることなど、限られている。
それは例えば定期テストで学年首位を取ること、生徒会の役員になること、学年で一番と謳われる美少女であり続けること、それから他には──何があるだろう。
力は尽くした。努力も続けてきた。けれど、可能な限りの「特別」を探して片っ端から手に入れてみても、胸に残るのは漠然とした焦燥感だけだった。
昨日、始業式の準備や後片付けで酷使した腕を空へ伸ばす。眩しい春の陽光に目を細めた。
新学期が始まって二日目。今年度は、新しい「特別」が手に入るだろうか。
遙に負けない、自分だけの「特別」が──。

RRRRR……、
RRRRR……、

遠くから聞こえる漁船の汽笛に紛れてやけに大きく鳴り響いたのは、何の変哲もない携帯電話の着信音だった。やたらと大きく鳴り響く無粋な着信音に、眉を顰める。それは春先の登校風景には似つかわぬひどく下世話な響きすら伴っているように思えた。
友人やクラスメイト、先輩からの着信には彼女の好きな洋楽の着うたを設定している。この面白みのない呼び出し音が鳴った時点で、相手が誰だか、名前には見当がついていた。着信音をノーマルの呼び出し音のままにしている相手は、この世に二人しかいない。

「……もしもし、」

きっかりコンマ一秒。微妙に繋がりが悪かったのか、名前の言葉から少しだけ遅れて聞こえてきたのは、推測通り幼馴染の慌てた声音だった。

「あっ、名前!?今どこ!?」
「通学路。港のあたりだけど。」
「ほんと!?なら俺たちが追いつくまでそこで待っててくれない!?」
「いや。」
「そんなハルみたいなこと言わないでよ〜……っていうか!ハルもなに呑気に鯖食べてるんだよ!」

一つ、大きな声が聞こえて名前は携帯電話から耳を離した。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ声が聞こえる向こうでは、いやに落ち着き払ったテノールが「別に俺は遅刻してもいい。」と拗ねたように呟いたのが聞こえた。
もう通話を切ってやろうか。そう名前が考えた時、お人よしの幼馴染はもう一度電話口に戻ってきて早口にまくしたてた。それは、いつもおっとりとしている彼にしては珍しいくらいの早口だった。

「もう状況は理解してると思うけど、遅刻しそうなんだ!」
「だろうね。」
「名前と一緒だと生指の先生、閉門時間過ぎても入れてくれるだろ!?頼むから待ってて!」

なるほど、確かに生徒会役員であり優等生の名前が一緒であれば生徒指導の教員はある程度の事柄を大目に見てくれる。
遅刻のもみ消しのために彼女を利用しようとは、真琴は柔和な顔つきのわりにはしたたかである。しかし、名前の方もいいように使われることを承諾できるほど人間としての器は大きくない。

「……遅刻しそうな原因って遙でしょ。もう放っておいて真琴だけ先に出てくれば?」
「そういう訳には行かないよ!新学期が始まってまだ二日なのに早々に遅刻なんて!ハル、昨日も休んでたんだから!」
「そこで鯖食ってる馬鹿が悪いんだよ。遅刻しようが欠席しようが私の知ったことじゃないし。真琴もそろそろ遙に見切りつけなきゃあんたまで出席日数足りなくなるよ。」
「そんなことできないよ〜……俺たち、物心ついた時から三人仲良くやってきたじゃないか。ハルだけ出席日数が足りなくて留年なんて嫌だろ!?」
「遙がどうなろうが、私はどうだっていいんだってば!っていうか、なんで私があんた達につき合って閉門時間ギリギリに校門に滑り込まなきゃいけないのよ!周りから『うわあ……七瀬さん遅刻ギリギリに学校に滑り込んできてる……。』とか思われたら、もうあの学校で生きていけないんだけど!」
「大丈夫だよ名前は!俺たちは大丈夫じゃないかもだけど、名前なら遅刻ギリギリで駆け込む姿も麗しいって男子がみんなうっとりするよ。」
「適当なこと言って機嫌取ろうとしてんじゃないわよ!」
「違う違う!本心だって!名前は何してたって美人だよ。今日も綺麗だね!」
「今日は一度も会ってないでしょ!」


橘真琴という男は、仮に本心であっても慌てて口をついて出たばかりにどうにも胡散臭く聞こえる世辞を言ってしまう一面があった。
名前のことを「綺麗だ」と思っているのは紛れもない事実である。双子の兄弟・遙によく似てすらりと眦へ切れ込んでゆく涼やかな瞳と、その深海を思わせる瞳の蒼、そして潮風に煽られてなお滑らかに揺蕩う髪は、学年で一番という謳い文句に相応しい美少女の条件だった。
中学生頃まで飛び込み選手だった遺産か、柔軟性の高さが見て取れるしなやかな肢体も彼女を魅力的に見せている。

「名前〜……頼むからそんな意地悪言わないで。」

恋情を抱いているわけではない。
物心がつく前から遙と名前が側に在ったせいで、どうにも名前だけをピンポイントで「女の子」だとは思えない。
けれど、真琴はこの先も永遠に名前を恋愛の対象内に入れないとは、断言できなかった。
その程度には、名前は「可愛い」女の子だったのだ。
性格の方は、手放しで褒められたものではなかったけれど。

「意地悪じゃないってば。真琴がてきとうなこと言うのが悪いんでしょ。」

手放しでは褒められない性格の冷酷さは、こういう返答の端々ににじみ出てくる。
ぴしゃりと言いはねた言葉には一切の言い訳を許さない厳格さすら聞き取れた。

「なんでだよ〜……俺、本当に名前のこと綺麗だと思ってるのに……今朝はまだ会ってないけど絶対綺麗だって確信してるから。」

大人しくすごすごと引き下がらないのが真琴である。未練たらしく己の失言の弁明をする姿は、垂れ下がった八の字眉毛からは想像もつかないほどタフだ。

「そういうのはさっさと学校に来て教室で他の女の子に言ってやりなさいよ。放課後には彼女ができてるんじゃない。」
「名前〜……。」

色の良い返事は貰えない。適当な世辞を言ったことに対する許しはおろか、共に閉門ダッシュをキメるという作戦に対する了承すらも貰えていない。
ダイニングから真琴の弁解を聞いていた遙は、鯖を口に運びながら真琴の姿を横目に見ていた。特に、興味もなさそうな無表情で。
真琴の大きな手に握られていやに小さく見える携帯電話。そこから微かに聞こえてくるのは、紛れもなく自身の姉──妹──、いや、明確にどちらが「上」かということは決まっていないので妹とも姉とも形容しがたい。
ともかく、電波の向こう側から聞こえてくる家族の声に、遙は箸を置いた。


「真琴。」
「ハル?えっ?ケータイ?」

人差し指で携帯電話を指すと、真琴は遙の言わんとしていることを瞬時に理解したらしい。
握っていたそれを遙に渡す。受け取った方の遙は、耳元に当ててぼそりと一言だけ電話口で呟いた。

「待ってろ。」

見事なまでの一言。まるで意思の疎通を目的としていない言い草の後、遙は通話を切った。電波の向こう側で名前が「ハル!?は?何様のつもり!?」と大声で威嚇をしていたのも気にかけずに。
プツン、ツー、ツー。
電子音が響く。遙は画面を待ち受けに戻すと、言葉もなくそれを真琴に放り投げた。


「うわっ……っと、ハル!名前は何て!?」
「何も。」
「返事も聞かずに電話切ったの!?」
「待ってろって言った。」
「そんなので待ってるワケないだろ〜!」

放り投げられた携帯電話を危機一髪のところで掌に迎え入れ、真琴が叫ぶ。
その頃には遙は既に食事を終えた皿を流しへ運び、制服に着替えるべく階上の自室を目指していた。

「ねえ!早く仕度してきてね!?」
「大丈夫だろ。」

名前と一緒に閉門ダッシュを諦めたらしい真琴は、その場で足踏みをしながらまくしたてる。
しかし遙は、普段と変わらぬ無表情で階段から真琴の方を振り返った。

「待ってろって言った。名前は絶対待ってる。」

そんなことであの名前が自分たちを待っているとは思えない。
真琴は「ええ〜……。」と不服げな声を上げたが、遙は普段のペースを崩さないまま、とくに急ぐ様子も見せずに自室へ上がっていった。




(WATER FRONT/七瀬遙)


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