SALT WATER
もう少し渚と話していたいとは思ったが、名前には席を中座しなくてはならない理由があった。
昼休みが終わるまでに今年度第一回目の図書委員会のプログラムを職員室に提出しなくてはならなかったのである。
渋る渚をなだめて名前が屋上を後にした時には、既に昼休みが終わるまでに残された時間は十五分あるかないかという頃合いだった。
岩鳶高校の職員室は北校舎の一階、西の端に位置している。対して、名前たち二年一組の教室は北校舎三階の西端である。名前は教室に戻ると、自分の机の引き出しから昨晩作成しておいた図書委員会のプログラムを引っ張り出した。
「名前〜、ちょっと教えて欲しいとこがあるんだけど、」
教室に戻って早々、友人の一人が数学のワークを抱えて歩み寄ってくる。
名前は困ったように眉を下げた。
「ごめん、職員室に行ってからでいい?」
「あれ、何かあったの?」
友人は小首を傾げ、数学のワークを胸に抱え直した。
「委員会のプログラムを提出しなきゃいけなくて。」
「そっか……、じゃあ、次の休み時間に教えてくれる?」
「いいよ。」
「約束ね。絶対だからね!」
指切りを求めてくる友人に苦笑する。こういう時は、まるで自分が予約の取れない予備校の人気講師になったような気がした。
「大袈裟だなあ。そんなに念を押さなくてもちゃんと教えるって。」
「どうだか。名前、そんなこと言うけど七瀬くんに呼ばれたらすぐそっちを優先するんだもん。」
友人はむくれて頬を膨らませた。
名前は口を開いた。そんなことはないと否定をしようとしたのである。しかし、友人は続けて恨めしげに言った。
「やっぱり七瀬くんは特別なんだ〜って、分からされる。」
「そんなこと……、」
「ある。名前は自覚してないかもしれないけど、ある。」
「……。」
「あーあ、いいなあ七瀬くんは。学校でも家でも名前が課題教えてくれるんだもん。」
最後にもう一度指切りをして、友人とは別れた。職員室へ向かう道すがら、先ほどの言葉を反芻する。
──やっぱり七瀬くん特別なんだ〜って、分からされる。
別に、そういうつもりはない。遙に特別に甘い顔をしているつもりはないし、その他大勢の有象無象と同じだと、自分ではそう思っている。むしろ、遙には特別にキツく当たっている、はずだった。
「……、」
廊下の窓に映る自分の顔は、やはり遙に似ている。
気を抜くと、ガラス窓に遙の面影が映り込む気さえした。
遙によく似た顔の自分が、遙に課題を教えている様子は周囲にどのように映るのだろう。
友人の言うことが確かなら、他にも助けを求める生徒がいるにも関わらず、名前はいの一番に遙の元に向かってしまうらしい。クラスメイトたちは、そういう名前の在り方をどのように感じているのだろう。仲の良い双子だと思われているのか、世話焼きな双子だと思われているのか。
──遙に足りないものを、私が補っているように見えるんじゃないか。
時々、自分のことを遙の外付けハードディスクのようだと思う。天才の七瀬遙が、自分の身体ではこなせない事柄を保存しておくための子機のようなもの。バックアップと言い換えてもいい。
名前はため息をつき、頬をつまんだ。
気にしても仕方がない。どんなに頭を絞って思い悩んだとしても、遙にはなれないのだ。
自分が自分でいるためには仕事をしなくてはならなかった。肩書だけが自分を七瀬名前という一個人に形成してくれる。遙のまがい物ではないと、認めてくれるのだから。
「二年一組の七瀬名前です。失礼します。」
所属と名前を言って職員室に入る。どの学校でも同じで、職員室には独特の匂いが満ちている。カフェインと煙草の混ざったような匂いだ。
目的としている生徒会担当教員のデスクに辿り着くまでに多くの教員が名前の行く先を塞ぐ。
重要性の高い話を振られることもあれば、どうでもいい話題に足を止めることもある。
それでも、名前はその一つ一つに愛想良く応えた。
「お前は本当に七瀬とは似てないな。」
「そうですか?そっくりだって、よく言われるんですけど……。」
「似ているのは顔だけだ。中身はまるで違う。」
「七瀬さん、次の小テストだけど、来週にやるってクラスに告知しておいてくれる?」
「はい、わかりました。ホームルームで伝えておきます。」
「助かるわ。七瀬さんに任せておけば何も問題ないものね。」
「買い被りすぎですよ、先生。」
職員室という場所もどうでもいい教員との雑談も、名前は好きだった。
教師という人間だけが名前と遙を“似ていない”と断じてくれる。
七瀬とは似ていない、七瀬とお前とは正反対じゃないかという言葉を聞く度に、胸が満足する。遙と私は似ていないと、自分の存在価値を認められた気がする。
「次の中間テストも期待してるぞ。」
「先生ってば、プレッシャーかけないでくださいよぉ。」
教師が優しいのは、自分が優等生でいるから。
身の程は弁えているつもりだ。
頼れる学級委員長で、成績優秀で、生徒会の役員で、男女問わず人望のある人間であるが故に大人はちやほやしてくれる。どれか一つでも欠けていたら、名前は今の立場を失う。
高校を卒業したら、次は誰が自分の承認欲求を満たしてくれるのだろう。
その答えが見つからないまま、名前は職員室を後にした。
「きゃっ、」
「わっ、ごめんなさい、大丈夫?」
無事にプログラムを生徒会担当に提出した後、職員室から退室をしたところで対向からやってきた生徒とぶつかった。
ちょうど同じくらいの背丈だったらしく見事に頭と頭がぶつかり、名前は額を抑えながらぶつかった生徒に頭を下げた。
「だ、大丈夫です……あたしの方こそすみません……。」
可愛らしい声だった。少女は赤みがかったポニーテールを揺らして、名前の胸元のリボンの色を見ていた。つられて、名前も少女のリボンの色を確認する。赤色。渚と同じ一年生だ。
視線をリボンから上に移す。そこで名前は、少女の顔に見覚えがあることに気が付いた。
よくよくと考えてみれば、少女の珍しい色の髪にもどこか引っ掛かりを覚える。
確証こそないが、どこかで会ったことがある気がする。
名前が口を開こうとしたとき、少女はぱっと名前の手を握った。
「名前ちゃん!」
「え……、」
「久しぶり!私のこと覚えてる?さっき、屋上でご飯食べてた時に名前ちゃんがいるのに気づいたんだけど、声かけられなくて……。」
「えっ、と……ごめんなさい、どこかで会ったことがあるとは思うんだけど……、」
言うと、少女はしょんぼりと表情を変えて名前の手を離した。
──渚くんのことは覚えてたのに。
その言葉に、頭の裏側で小学生の頃の記憶が持ち上がる。
赤みがかった髪、瞳の色もよく見てみれば髪とそろいの紅だ。
この色彩を、名前はよく知っていた。
「……もしかして、凛の……」
凛という名前が出た途端、少女は頬を綻ばせた。
妹だ。凛には妹がいた。当時の記憶が持ち上がると、名前はほぼ無意識に口を開いた。
「コウちゃん……?」
本当のところを言うと、ゴウだったかコウだったか自信はなかった。しかし、なんとなく耳馴染みの良かった方を口に出すと、どうやら正解だったらしい。
江は嬉しそうに頬を紅潮させてにこりと微笑んだ。
「先輩だから、敬語使わなきゃですね。」
照れたように後ろ頭をかいて、江は言った。
別に、昔は敬語などなかったのだから畏まる必要はない。
そう思いはしたが、江の中にもきっと体裁や事情があるだろう。名前は特に何も言わず、曖昧に微笑んだ。
松岡凛という人のことを思い出すと、必ず笑顔が一番に思い起こされる。
小学生の頃のクラスメイトで、友人だった。名前が凛に関して踏み込めるのはそこまでだ。どうも遙のライバルだったらしいことは察しているが、名前には凛に関してそれ以上の思い出はない。何か凛に関して思うところがあるらしい遙とは違って、凛とは楽しい思い出しか残してきていない。小学校でもSCでも凛はいつも何か面白いことを思いついて、必ず名前を一番に誘ってくれた。
「名前ちゃんのこと、入学式で見ました。生徒会の人の紹介の時に。」
江は凛の妹だ。SCに通っていたわけではないが、よく凛の練習を見に来ていた。名前よりも一つ下の学年で、小学校での交流はなかったが凛たちが自主練習をしている間はよく名前が江の話し相手になったものだった。
名前ちゃん、と呼ばれると当時の思い出と共に岩鳶SCの見学室の雰囲気がそのままに蘇る気がする。ガラス張りになった三階の見学室からは階下のプールがよく見えて、江はいつだってガラスにへばりついて凛の姿を追っていた。
「名前ちゃん、随分雰囲気が変わってたからびっくりしちゃいました。」
「そうかな?」
ぎくりとした。江が知っている名前は小学生の頃の名前で、当時は凛と大騒ぎをしているような子供だったからである。現在の優等生像とはかけ離れた姿だったので、江が驚くのも無理はない。
背筋に汗が滑る。まぎれもなく、冷や汗だった。
「と、ところで、江ちゃん。何か職員室に用があったんじゃないの?」
「あ!そうでした。クラス名簿の私の名前が間違ってて……担任の先生に報告しなきゃいけなかったんでした。じゃあ名前ちゃん、また今度!」
「うん、それじゃあ。」
「あっ!待って、連絡先だけ教えてください!」
手早く連絡先を交換すると、江は職員室の中へ消えていった。
名前は江の後ろ姿を視界に入れながら、頭の奥が鈍く痛むのを感じていた。
小学生の頃の記憶は、いつだって甘くて優しくて苦い。
当時は、優等生でいなくても七瀬名前という一個人は確かに存在を許されていた。
天才の遙に競泳では敵わなくとも、名前には名前の存在価値があったのだ。
十メートルの台から見下ろしたプール。
プラットフォームから飛ぶと、一歩だけ生から遠ざかった音がして、世界が無音になる。その瞬間に身体がしなる。一回転、二回転、身体を捻るたびに水面が近づいてくる。水面を突き抜けて水の中へ飛び込むと、心地よかった。水の外の世界からぼんやりと拍手が聞こえると、その瞬間だけは遙のことを忘れられた。遙が獲った金メダルのことも、遙が記録したタイムのことも、全部水しぶきの中に消えていった。
プールの塩素の匂いがした気がして、勢いよく頭を振る。
感傷的になるなど、まるで名前らしくなかった。
「と、いうことで名前ちゃんも来るでしょ?」
「……どこに?」
放課後。
自宅に戻ると私服に着替えた渚が玄関口で名前を待ち構えていた。
生徒会の仕事で遅くなり、自宅へ続く石段を上ったのはすでに五時を回っていた。遙と真琴は当然のように名前を置いて先に帰っている。渚がここにいるということは、真琴も家の中にいるのだろう。
暮れの迫る橙色の夕日に照らされた渚の頬がほころぶ。渚は名前の手首を握って、家の中に引き入れた。
「ちょっと、渚?来るでしょって、どこに行くの?」
「岩鳶SC!」
どきりとした。江と再会して、ちょうど昼休みのあたりから名前の胸をいやに騒ぎ立てる場所を指す言葉だ。今日になって突然に再開した二人の後輩から、小学生だった頃の記憶の断片をいくつも手渡されている気になる。
──こんなものはいらない。
そう言えたら、どんなにか楽だったろう。
しかし名前は、何でもない顔をして渚に問いかけた。
「岩鳶SCに行くって、何しに行くの?あそこ、もう廃墟でしょう。」
「今度取り壊しになるんだ。だからその前に、僕たちのタイムカプセルを掘りに行くんだよ!」
玄関を左に曲がってすぐ、縁側から居間へ上がる。
透は、案の定そこでお茶を飲んでいた私服姿の真琴に視線を向けた。
真琴は眉を下げて頷く。
名前はため息をつき、真琴の隣に座った。
床間の前に、渚と真琴の制服が畳まれて置いてある。二人とも、一度私服を取りに自宅へ戻ったのだろう。
次いで、台所で作業をしている遙に視線を向ける。
料理にかかりきりで着替える暇がなかったのか、遙は制服のシャツの上にエプロンをしていた。
「ハルちゃんも行くって言ってくれたんだよ。岩鳶SC!」
渚は屈託のない顔で笑う。
遙が岩鳶SCに向かうことを承諾したと聞いて、名前は瞳を見開いた。
「……ほんと?ハル、行くの?」
「……。」
台所で鯖を焼いている遙は、何も言わなかった。
しかし、一つ首肯して鯖を網の上でひっくり返した。
「ひどいんだよ〜ハルちゃん。僕がどんなに誘っても、最初は『行かない』『嫌だ!めんどくさい!』ってそればっかり。」
遙の声音を真似して、渚が名前の腰にへばりつく。
なるほど、確かに遙の言いそうなことだった。渚の物真似が上手いこともあり、遙が全力で拒否をする様子が思い浮かぶ。
それがどうにも面白くて、名前は小さく笑った。
「で、どうやって遙を懐柔したの?」
ごろごろと名前の膝に頭を乗せてきた渚の髪を撫でる。ふわふわと指に馴染む金髪の触り心地は、小学生のころと何一つ変わっていなかった。
「まこちゃんが『プールがある』って言ったらハルちゃんも行くって言ってくれたんだよ。ハルちゃん、プール大好きだもんねえ。」
「……待って、ねえ、プールがあるって言ってもSCはもう廃墟なんだから──、」
「名前。」
隣から真琴の鋭い声が飛ぶ。
視線を向けると、真琴はにっこりと微笑んでいた。
──余計なことは言わなくていいよ。
そういうことである。
廃墟のSCのプールに水が張られているはずがない。少し冷静になってみれば誰でもたどり着く結論だ。しかし、真琴の様子を見るに、遙はすっかりSCに行けば水に浸かれると信じているらしい。
膝の上の渚に視線を下向かせると、渚はピースをしていたずらっぽく笑っていた。
「……鯖、焼けたぞ。」
「いたっ!」
皿に盛りつけた鯖を持って、遙が居間へやってきた。
まるで自然な動作で投げ出されていた渚の足を踏み、テーブルに皿を置く。真琴は苦笑いをしながら遙をたしなめた。
「ハル、さすがに足を踏むことないだろ……。」
「……。」
「ひどいよハルちゃん!」
名前の膝から起き上がって、渚が言う。
どれほど渚に詰め寄られても、遙は視線を逃がして無言を貫くばかりだった。
名前は腰を上げ、配膳の手伝いをするために台所へ向かった。
この様子では、夕飯を一緒に食べてからSCへ向かうのだろう。
普段ならば、遙の配膳の手伝いなどは絶対にしない。しかし、客人がいるとなると別だ。
客人というのが真琴と渚だったとしても、家主としてある程度はもてなす義務がある。
台所へ向かうと、既に白米の準備もできており付け合わせの副菜も完成していた。
遙が作り置きしているほうれん草のお浸しと、菜の花のツナ和えである。鍋の方に、味噌汁の用意もしてあった。名前は食器棚から小鉢を四つ取り出して副菜を盛り付け始めた。
「……客が来ると手伝うんだな。」
ぼそりと遙が呟く。
嫌味な言い方のそれに鼻を鳴らし、名前はそっぽをむいて手を動かした。
「遙と違って、他人からどう見られてるか気にしてるの。」
「……お前は渚に甘い。」
「……渚?」
「……別に、分からないならいい。」
「何よそれ。はっきり言いなさいよ。」
「……。」
遙が視線を逸らす。その態度がどうにも癇に障って、名前は瞳を吊り上げた。
──やっぱり、この男は“嫌い”だ。
普段は敢えて考えないようにしていることを負け惜しみのように考えながら、名前は完成した小鉢を盆に載せた。
一方、遙は名前が肩を怒らせ居間に配膳をするのを横目で見ていた。
口下手な自分を改善するつもりはない。双子なのに意思を汲み取ってくれない名前が悪いとでも言いたげに口をへの字に曲げる。
黙々と味噌汁を茶碗によそっていると、居間から真琴が手伝いにやってきた。
「あんまり名前を怒らせないでよ。名前、怒ると長引くでしょ。」
「……名前の物分かりが悪いせいだ。」
真琴はお手上げだとばかりにため息をついて、食器棚から箸を四膳取り出した。
「あんまり他の男とべたべたしないでほしいって、名前にはちゃんと言葉にしないと伝わらないよ。名前は俺じゃないんだから。」
「……おかしいだろ。血が繋がってない真琴には言葉がなくても伝わる。」
ということは、血の繋がりがあり遺伝子を分け合った名前にも当然伝わると言いたいらしい。
それはどだい無理な話だと真琴は思った。
中学一年生の夏、飛び込みをやめた日から、名前の心の中には遙に対して踏み越えて欲しくないラインがきっかりと引いてある。これまでは同化してしまうのではないかと思うほどに遙と隣り合っていた名前が、自分から遙に対して距離を取ったのだ。
引かれた線を越えない選択をしたのは遙だ。その気になれば縮められた距離を放置したのも遙だ。年が過ぎるごとに、名前は頑なに遙を拒む。
これでは、言葉もなしに遙の感情が伝わるはずもなかった。
「もう伝わらないよ。ハル。」
真琴は八の字眉を下げて言った。
「言葉がなくても名前に伝わったのは、昔の話だ。」
居間を振り返ると、渚が待ちきれないと飛び跳ねていた。
──ハルちゃん、まこちゃん、早く〜!
渚の首元のスカーフリボンが、振動で解ける。それを結び直してやっている名前を視界に入れて、遙は再び鍋に視線を逃がした。
(SALT WATER/七瀬遙)
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