THAT NIGHT

「お前のトロフィーも一緒に入れようぜ。」

岩鳶SCの裏庭。春の日差しが穏やかに降り注ぐ春休みのこと。
菜の花の黄色に包まれて、凛は屈託なく笑ってそう言った。まるでそうすることが正しいと信じて疑わないようだった。

「なんでよ。あんた達のトロフィーと違って、私は私だけの力で獲ったんだから、家に持って帰ったっていいでしょ。」

名前は口を尖らせた。別に、どうしてもトロフィーを持って帰りたかったわけではない。もしかしたら、喜んだ母親が遙の個人フリー100mのトロフィーの隣に名前のトロフィーを飾るのではないかとは考えたが、どうしても遙のものと一緒に飾ってほしかったわけでもない。
ただ、まるで当然のように名前も自分たちに倣うだろうという凛の言い草が気に入らなかっただけだ。
そっぽを向いた名前に無理やり肩を組んで凛は笑った。

「お前、ほんとにハルそっくりだな。」
「当然でしょ。双子なんだから。」

隣にいた遙に擦り寄るように並ぶ。身長はちょうど同じ。頭の形も、腕の長さも、全て均等に作られたかのように同じ形で、同じ長さをしていた。
隣にいた遙の腰元に抱きつく。同じくらいの細さだと思っていたが、実際には少しだけ遙の手足の方が太く、身体が硬い。筋肉の付き方が違うのだ。
この頃になると、わずかながらも男女の性差が見えるようになっていた。

「ねえ名前ちゃん、一緒にトロフィー埋めようよ。ぼく、名前ちゃんも一緒がいい。」

渚が瞳を潤ませながら言う。
年下の渚には強くは出られない。
名前は言葉を詰まらせ、遙の方を見た。

「……一緒に埋めてやれば。」

ぶっきらぼうに遙が言う。けれど、この言葉には“一緒に埋めて欲しい”という遙の気持ちが含まれていることに、名前は気づいていた。

「ね、渚もハルもこう言ってるし、名前のトロフィーも一緒に埋めよう。僕もそれがいいと思う。」

真琴が続けて言うので、名前には反論する余地がなくなってしまった。手にしたトロフィーは、子供の手でも片手で足りる小振りなものだ。それを握りしめて、名前は無言で凛に手渡した。

「そうこなくちゃ。」

凛はトロフィーを埋めるために持ってきていたクッキー缶に、名前から受け取ったそれを入れた。競泳のトロフィーの隣に、飛び込みのトロフィーが並ぶ。それを見て、凛は満足そうに笑った。

「お前は『自分の力で獲った』って言うけど、俺たちだってめちゃくちゃお前の応援しただろ。だからこれも、俺たち五人で獲ったトロフィーだ。」
「そんなこと言ったら、私だってめちゃくちゃあんた達の応援したわよ。」
「だからだよ。メド継のトロフィーも、高飛び込みのトロフィーも、どっちも俺たち五人で獲ったものだ。」

──これを埋めたら、俺たち、ずっと友達でいられるんだ。大人になったら掘り起こそう。ロマンチックだろ?

日だまりに菜の花が揺れる三月。
落ち椿が地面を彩る、そんな日のことだった。







夜の岩鳶町には灯りが少ない。田舎の漁港町ということもあり、海の方にはイカ釣り漁船の灯がちらほらと見えるが、駅前へ向かえば漁火はどんどんと遠くなる。
海岸線から離れて駅前に建つ岩鳶SCに辿り着いたときには、既に辺りは暗闇に包まれていた。
廃墟ということもあり、辺りには人っ子一人見当たらない。
一応、SCと道路を挟んだ向かい側には民家がいくつかあるはずなのだが、車道が広いせいで民家の明かりもどこか遠くに感じる。
問題のスイミングクラブは、当時は鮮やかなブルーグリーンで塗られていた外壁が経年劣化で所々の塗装が剥げ落ち、下手な遊園地のお化け屋敷よりもおどろおどろしい外観をしていた。
ITSC──岩鳶スイミングクラブの頭文字──の上に描かれた水泳をしている少女のイラストは、にこりと笑った目と口のペンキが雨風に溶けて滲んでいる。それが口の色を塗っていたであろう赤い塗料と混ざって、血の涙を流しているようにすら見えた。
過去には少女のイラストのあたりに夜間用の照明があった気がしたが、当然のごとく現在は姿を消している。


「けっこう……荒れてるね……。」

震えた声を隠しきれていない。
真琴は遙の自宅から持ってきた大きなショベルを握りしめて身震いを一つした。
無理もない。真琴はホラーや心霊系の事柄が苦手だ。

「真琴、大丈夫?」
「ひっ!?あ、ああ……大丈夫。ただの廃墟だし……。」

名前の声にすら驚いた人間の言う“大丈夫”には説得力がない。
再度ショベルをきつく握りしめた真琴を見て、名前は“ホラーゲームの主人公みたいだ”と思った。

真琴の言う通り、既にこの建物は廃墟だ。
正門のど真ん中には、立ち入り禁止の立て看板が置いてある。
看板には、“岩鳶スイミングクラブ管理者”の文字が記されていた。

「……ここ、業績不振で閉館したって聞いたけど、まだ管理団体は残ってるんだね……。」

看板をこんこんと小指で叩いて、ぽつりと呟く。
SCの裏庭を自分の趣味のガーデニング領域にしていた館長やお世話になったコーチたちはまだどこかで水泳に携わっているのだろうか。
もしかすると、別のSCを経営しているのかもしれない。
そんなことを考えていると遙がするりと名前の隣に寄ってきた。

「……去年、市内に新しくできたダイビングクラブがあるだろ。」
「え?そうなの?」
「……あそこ、岩鳶SCと経営母体が同じだって聞いたことがある。」
「ふーん……。」

遙は名前を睨んだ。気の抜けた返答が気に入らなかったらしい。
遙は名前から目を逸らし、話を続けた。

「……名前は知ってると思ってた。」
「何が?」
「新しくできたダイビングクラブのこと。市内ならここから通えなくはないだろ。」

その言葉が示す意味が分からないほど、名前は鈍感ではなかった。
ここから通えなくはない。名前がダイビングクラブに通う可能性の話をしているのだ。


「飛び込みはもう辞めたんだって。」

遙の方を見ることなく、名前が言葉を返す。

「もう身体がついていかないし、私はもう二度と飛び込みはやらない。」
「……。」
「……あの時、遙がそう望んだんでしょ。」
「……別に、……った、」
「え?」
「……なんでもない。」

遙が何かを言ったことは分かった。
しかし、はっきりとは言葉の意味を聞き取れなかった。
聞き返しても、遙はもう言葉を紡ぐつもりはないらしい。
“なんでもない”という言葉すらも次第にSCの裏の雑木林に吸い込まれ、風の音と共に消えてしまった。


「ちょっとハルちゃん!名前ちゃん!早くこっち来て!お清めの塩振るから!。」
「塩……?」

SCの玄関口のあたりで、渚が叫ぶ。
先に渚と真琴の元へ戻り始めた遙の背を追って、名前も渚の手元に視線を向けた。

「実はここ、“出る”らしいんだ……。」
「脅かすなよ……。」

真琴の震え声が空気を伝う。
“出る”などと聞いてしまえば、先ほどの“ただの廃墟“という強がりが意味を成さなくなってしまう。真琴は大きな体を縮こませた。
山の方から、犬の遠吠えが聞こえてくる。風が林を揺らす音が大きく耳につく。
渚はいたって真剣な顔で真琴の方を見つめた。

「ほんとだよ?」
「ええっ!?」

真琴の大袈裟な声が夜にこだまする。
SCの周辺は鬱蒼とした雑木林に囲まれているが、そのせいでこの周辺だけ妙に暗い。
いかにもな雰囲気に包まれ始めた一行は、固唾を吞んで渚の言葉の続きを待った。

「こないだも、影が動くのを見たとか、すすり泣く声が聞こえたとか……。」
「へ、へえ……。」

真琴の目元がぴくりと痙攣する。
建物を見上げた真琴は、はっきりと分かるくらいに表情を強張らせていた。

「おとなしくっ、しててね!」

語り終えた渚は、何故だか楽しそうに真琴に塩を振っていく。
左肩、右肩、と塩を撒かれる間、真琴は大きなショベルを抱きしめるように握って大人しく震えていた。

「はい、名前ちゃんもしっかり塩でお清めしようね。」

渚は名前にも塩を撒いた。名前よりもやや身長の高い渚が撒くと、塩はちょうど名前の後頭部にぶつかる。髪を滑って塩はほとんど地面に落ちてしまったが、渚は特に気にしなかった。

「はい、次ハルちゃん。」

名前が微妙な顔で足元にほとんど落ちてしまった塩を見ている間に、渚は遙の方へ移動しておなじように肩に塩を振りかける。
遙は何も考えていなさそうな顔で甘んじてお清めの塩を受け入れていた。

「……っ、!」

しかし、遙は突然に何かに気が付いたように瞳を見開いた。
名前と揃いのシアンブルーの瞳が、暗い夜に瞬く。
遙はゆっくりと視線を肩に落とし、口を開いた。


「……おい、」
「……ッ!ど、どうしたの……っ!」

遙の低い声が辺りに響いた途端、真琴は肩を震わせた。
渚と名前も、声こそ上げなかったものの表情を険しくして遙を注視する。
名前も、真琴ほどではないがホラーの類は得意ではない。
妙に浮世離れしていて勘の鋭い遙のことだ。窓にゆらめく人影を見たとしても、遙ならばおかしくはない気がした。


「……っ、遙……?」

喉の奥を締めるようにして名前が呟く。
遙は、水色のフードパーカーの上に指を滑らせ、付着していた塩を舐めた。

「これ……塩じゃなくて、砂糖。」
「……。」
「……。」
「……。」








「……まあ、こういうのって気持ちの問題だし、塩でも砂糖でもどっちでもいいよね。」
「ベタすぎ……。」
「ボケとしては古典的すぎるよね……。」

廃スイミングクラブの中は、思ったほどには荒れていない。
廊下はかつての姿そのままで、いくつか掲示物の類も残されていた。閉館後、土地の引き渡し先が決まらなかったので館内の整頓を行わなかったのだろう。色褪せたITSCの入会案内や県内の水泳大会の告知文が壁に貼られているのを、名前は微妙な気持ちで眺めていた。
日付はどれも三年以上前のものばかり。
たかが三年、されど三年。たった三年と少しで、SCは廃墟と化し自分たちを取り巻く環境も変わってしまった。
そして、あと三年と少しで自分も遙も真琴も大人になる。
──十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人。
あと三年とちょっとで、ただの人になってしまう。
それまでに何とかしなくてはいけないと焦る気持ちがぶり返す。
三年で環境が変わるなら、ここから自分はどうなるのだろう。
名前にはまだ、実感が持てなかった。遙に負けない、誇りを持てる自分の姿は未だに影も形もない。

「砂糖、ハルちゃんのお家から借りてきたから勝手が分からなくて。白かったからすぐ塩だって思っちゃった。」

渚は未だに塩と砂糖問題の弁解をしている。
家から砂糖を持ってきたらしいと聞いて、名前は呆れて口を開いた。

「渚、ちゃんと入れ物に“SUGAR”って書いてあったの見なかったの……?」
「あはは……僕、英語って苦手で……。」
「……名前がかっこつけて調味料のボトルに英語なんか書くからだ。塩も砂糖もSから始まるから紛らわしい……。」

隣を歩いていた遙がぼそりと文句を言う。
名前は隣を睨みつけ、嫌味たらしく口角をひん曲げた。

「別にかっこつけてなんかないわよ。それとも、SALTとSUGARを見分けるのは万年英語赤点ギリギリのハルちゃんには難しかったかしら〜?」
「うるさい。いつかお前の本性を校内にバラしてやるからな。」
「やれるもんならやってみなさいよ!」
「お前の本性に全校生徒がドン引きする日が楽しみだ。」
「ちょっと、ハルも名前もこんなとこで喧嘩しな──、」

その時、館内に大きく鳴り響いた音が四人の鼓膜を突き刺した。

「──ウヒエエエッ!っ!なに!?」

突然に響いた乾いた音──というよりは、真琴の声に驚いて名前は思わず悲鳴の出どころにしがみついた。
本能的な動作だった。隣にいたのは遙だが、遙よりは真琴の方が背中が広くて防御壁には適していたのである。
しかし、同時に青ざめた真琴も遙の背後にしがみつく。
名前以上に怖がりの真琴は、大きな身体を揺らして遙の後ろへ隠れてしまった。
真琴の身体の動きに揺さぶられるようにして、名前は遙・真琴の並びの最後列に収まる。心臓の鼓動がうるさい。思わず、手を胸に当てる。音が響いてからの数秒間、息を止めていた自分に気が付いた。


「ああ……、空き缶、蹴飛ばしちゃった……。」

振り返った渚は、わざとらしく懐中電灯で下から自分の顔を照らしていた。
まるで、お化け屋敷の幽霊みたいに。
真琴は青ざめた表情もそのままに、渚をじとりと睨んだ。


「お前……、わざとやってるだろっ!」
「まこちゃん、ほんと昔から怖いのダメだよね。」
「知ってるならやるなよおっ!」
「ごめんね?」

真琴が誰かを“お前”と呼ぶのは珍しい。あまりの恐怖に焦ったせいだろう。真琴の余裕がないと、こちらまで怖くなってくる。名前はこっそりと安堵の息をついて渚の前方をちらりと見た。なるほど、確かに空き缶だった。水色の缶には見覚えがある。SCの自動販売機で売られていたスポーツドリンクの空き缶だ。


「……そういえば、英語はお得意でもお前もお化けは苦手だったな。」

前方で、遙が小声で嫌味を言う。
名前は真琴の背中から顔を出し、口を尖らせた。

「うるさい!真琴の声が大きくてびっくりしただけよ。」
「……じゃあ手、離せよ。」
「……言われなくても。」

名前は真琴のカーディガンから手を離した。いつまでも遙にこのネタでゆすられるのは御免だったのである。いつの間にか渚の隣に並んでいた真琴は、名前が手を離すと名残り惜しそうに後ろを振り返った。

「名前?いいの?怖いなら無理しなくていいんだよ。」
「あんたにだけは言われたくないわよ。」

未だに大きな身体を縮こませている真琴の肩を掴み、前を向かせる。
さすがに真琴にまで心配をされる筋合いはない。というか、真琴は自分の心配をした方が良さそうだった。この先、渚が面白半分に真琴を脅かすであろうことが容易に予測できたからである。

「あ!まこちゃん見てみて!向こうって、男子更衣室だったよね!」
「あっ、こら渚!走るなって!」

窓が大きくとられているおかげで、SC一階の廊下は月明りが明るく差し込んでくる。
エントランスが真っ暗だったので、これは嬉しい誤算だった。
窓が大きいせいで、外からは未だに犬の遠吠えが聞こえてくるくらいだ。
静かな廊下には、渚のはしゃぐ声と四人分の足音しか聞こえない。
──ここで、足音が五人分聞こえたりしたら、よほど怖いだろう。
そんなことを考えて、名前はふと笑った。
ありえないことだ。自分らしくもない。幽霊なんて非科学的なものは存在しないのだから。

──コツ、コツ、コツ、コツ。
聞こえる足跡はきっかり四人分。遙と、真琴、渚、そして名前。

──コツ。

「!」
「名前?」

立ち止まる。
背中から冷や水をぶっかけられたような気がして、先ほどまでの余裕が頭から消えてゆく。
咄嗟に横にいた遙のパーカーの裾を握り、名前はおそるおそる背後を振り返った。
曲がり角の方から、確かに今、この四人の中の誰でもない足音が聞こえたのである。
前方を歩いている渚と真琴は気が付いていない。そして、この様子を見るに遙も気が付いていないらしい。
──幽霊なんて非科学的なものは存在しない。
ほんの先ほどまで考えていたことが、妙に現実から薄らいでいく。
じわじわと、後ろから何かが近づいてきている、気がする。
遙のパーカーの裾を強く握り直して、無意識的にその背にしがみつこうとした。
その時である。

「名前は怖くないんだろ。くっつくなよ。」
「……!」

この男は時に、わざと名前に意地悪を言って楽しんでいるのではないかと思う時がある。
無表情ながらも淡々と告げるその姿に無性に腹が立ち、名前は握っていた遙のパーカーから手を離した。わざとらしく遙のスニーカーを踏みつけ、鼻息も荒く頭一つ分高い位置にある遙を睨みつける。

「言われなくても!離しますけど!?別に、怖くて掴んだわけじゃないから!」
「……じゃあ何で掴んだんだよ。」
「足場が悪かったから!」

 
頬を膨らませた名前は、遙から距離を取って真琴と渚に並んだ。
あれこれと昔話をしていた二人は、きょとんとして名前の方を見る。
名前は唇を尖らせて、二人に向き直った。

「私、一人で先に見て来る!」
「えっ、なんで……。」
「遙の隣にいたくないから!」

遙の方をもう一度睨みつけて、名前は背を向けた。
困惑した真琴は、それを聞いて呆れたようにため息をつく。

「もう〜ちょっと目を離した隙に喧嘩するんだから……って、名前!一人じゃ危ないよ!」
「ほっとけ、一人で行かせてやれよ。」

一人で走り出した名前に声をかけた真琴を、遙が制する。
いつも通りの仏頂面で横向きに視線を逸らす遙の顔を、懐中電灯が照らした。

「ハルちゃん……、」

渚である。渚は懐中電灯を次いで名前の背中へ向けたが、名前はとうに廊下の先へと曲がって行ってしまっていた。

「どうせ怖くなってそのうち泣いて戻ってくる。」
「泣きはしないだろ……俺、名前が泣いてるとこなんて一度も見たことないよ。」
「だよねえ。」

真琴と渚の声が薄暗い館内にこだまする。
確かに名前は滅多なことでは泣かない。
しかし、遙は名前が泣いているところを見たことがあった。
約十六年と少しの人生の中でたった三回だけではあるけれど。
小学三年生の時に一度。そして小学六年生の時に一度。これは遙たちがリレーで優勝した時のことである。
そして最後に見たのは中学一年生の夏──、名前が飛び込みを辞めた日だった。





(THAT NIGHT/七瀬遙)
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