NIGHT BEFORE
遙の捻じ曲がった性格には我慢ならない。
名前は海底のような薄暗い館内を、わざと大きな足音を立てて歩いた。
先ほど聞こえた五人目の足音がもう二度と聞こえないよう、大振りな動作で先を進む。
あの男は、遙は、妙に突っかかってくるというか、わざと名前の神経を逆撫ですることを言う時がある。なんだかんだ言っても名前が遙に対して本気では怒れないということを、たった十六年と少しの人生でよく理解しているのだ。
そして、たとえ何を言っても名前が遙のことを真の意味では“嫌い”にはなれないということも。家族だからというだけではない。もっと深い根源的なところで、名前は遙を嫌いにはなれない。あちらが“本体”なのだ。その副産物として生まれた自分が本体である遙を“嫌う”ことはできない。本体を否定することは、巡り巡って自分を否定することにも繋がるからである。
名前の思考をどこまで読んでいるかは分からない。しかし、とにもかくにも“名前は遙を絶対に嫌いになれない”という習性を利用して、遙があれこれと名前をいいように使っていることだけは確かだった。少なくとも、名前はそう思っていた。
「……。」
──ハルの方が私を嫌ってくれればいいのに。
一階から二階へ上がる階段を上り、名前は視線を下向かせた。
理由はよく分からないものの、遙の方も名前を嫌ってくれる素振りはない。けれど、好きになってくれる素振りもなかった。単純に、家族だから好きにも嫌いにもなれないのかもしれない。理由はどうあれ、遙は名前が心の中に引いた線の向こう側でただ大人しくこちら側を見ているだけだ。線を踏み越えてこようともしなければ、名前が引いたラインに関して物申すこともない。まるで、そこに触れるエネルギーがないとでも言うように。
──競泳を辞めてからだ。
名前は思った。いつ見ても生命力の迸るような、静かな生の鼓動に満ちていた遙が淀みだしたのは、競泳を辞めてからのことだ。
──昔のハルは、もう少し私に優しかった気がする。
理由はよく分からないけれど遙は競泳を辞めることになって、名前はいつまで経っても遙の副産物のまま、“特別”な人間にはなれなくて。
それでも、この微妙な関係はずるずると続いていく。名前はいつまでも遙の前では強がって、素直になれない。遙の方も正面から名前の気持ちには向き合ってくれない。
しかし互いに訣別するほどの勇気は持てず、何となく喧嘩を繰り返してずるずると一緒に暮らしていく。
「……こんな風になりたいわけじゃなかったのに。」
とは言え、どうなりたかったのかは分からなかった。
館内は変わらず静かなままで、いつしか背後に聞こえていた遙たちの声も聞こえなくなっている。
本来ならばスリッパでの移動が義務付けられていた簀子敷きのエリアに差し掛かると、いよいよプールが近くなってくる。
プールは二階、ギャラリー席は三階にある。広い二階のプールには二十五メートルの短水路と五十メートルの長水路があって、そしてシンクロ用のサブプールを挟んで一番奥のエリアには、水深五メートルのダイビングプールがあったはずだった。今もまだ残っていれば、の話だが。
二階へ上がると、一階以上に大きくガラス張りになった天井が名前を出迎えた。
アーチを描くガラス窓からは、月光が青白く降り注ぐ。
廃墟の淀んだプールに落ちる月明りのせいで、二階は一面が青緑色の色彩に沈んでいた。
「……!」
二階へ上がってすぐ、名前の目を惹いたのはプールの奥に聳え立つ真っ白いコンクリートの飛び込み台だった。
メインの競泳用プールの奥で、まっすぐに立つ飛び込み用のプラットフォーム。五メートル、七・五メートル、そして十メートルの台が三つ並んでいる様は、まるで現代アートの彫刻品に見えなくもない。
懐かしさを掻き立てる姿に、ごくりと喉が鳴った。
胸が高鳴る。喉が鳴る。名前はまるで引き寄せられるように、最奥の飛び込みプールへ向かった。
プールサイドが汚れていることも、足元をネズミが横切ったことも気にならなかった。
ただ、月明りに照らされた白い飛び込み台だけを見ていた。
「……まだ、階段も残ってる……。」
台の頂点へ向かうために設けられた階段は、見たところ老朽化している様子もなく、足を掛けても問題はないように思えた。
そっと一段目に足をのせてみる。ここで妙な音がしたり足場がぐらつくようなら上るのはやめようと思っていた。しかし、足場は金属の軋む音を立てることもなく、そして不安定にぐらつくこともなかった。
「……。」
そこからは無意識だった。
不気味な館内に怯えていた心も、いつしか凪いで静かになる。
一段、もう一段と足が先へ進んだ。
そのたびに視界は高くなり、プールサイドが徐々に遠くなってゆく。一段進むごとに、かつての記憶の断片が持ち上がる。
飛び込みを始めた日のこと、初めて五メートル台から飛んだ日のこと、初めて宙返りに成功した日のこと。そして、初めて水面に頭を叩きつけてプールで失神した時のこと。
すべてがいい思い出だったとは言わない。飛び込みなんて競技は、常に痛さと苦しさと恐怖が付きまとうスポーツだ。何度か練習をサボったこともある。
けれど、脳裏をよぎる記憶の中の自分はいつも笑っていた。
「……!」
ついに階段を上り切ったとき、視界は突然に開けた。
三年と少し前まで、毎日のように眺めていた光景が、視界に飛び込んでくる。
三階のギャラリーと全く同じ高さに合う視線。
足首をひやりとした空気が撫でる。
十メートルの飛び込み台の、その雰囲気が当時のままに名前を包み込む。
名前はせり出したプラットフォームの先端へ、躊躇いなく足を進めた。
下を覗く。十メートル下のプールには水が張られていない。しかし、上から見下ろしたときの距離感は変わらなかった。
思わず深呼吸をする。下腹部に力が入る。頭がこれから行う演技をなぞる。
──前宙返り一回半二回ひねり自由型。
無意識的にボディ・アライメントを整えている自分がいて、名前は困惑した。
「……全然こわくない。」
おかしな話だった。存在するかどうかも分からない幽霊や空耳かもしれない五人目の足音を恐ろしく思っていたくせに、十メートルの台から覗くはるか下方は少しも恐ろしくない。
ここから落ちれば、間違いなく死ぬのに。コンクリートが腐食していて飛び込み台が崩れでもしたら、間違いなく地面に打ち付けられて死んでしまうのに。
競技選手だった時ですら、十メートルの台に立つと恐ろしかった。入水角度を誤れば、水面に打ち付けた身体は大きな打撲を負うことになるからだ。水の中で自由に泳ぐ遙とは違う。水面に落ちて、そこで大きな痛みを負うまでが自分の住む世界だと思っていた。
だというのに、今となっては高所から落ちて死ぬ恐怖は一向に襲ってこない。むしろ、ここから落ちて死ぬのならそれも自分らしいと思える気がした。
ぺたりと座り込む。
薄暗い廃墟のプールで、たった一人。
十メートル台の先端で座り込む自分。
もうここから飛ぶことはできない。それだけのことなのに、こんなにも胸が苦しい。もどかしい。
──飛び込み、そんなに好きだったつもりはないのになあ。
痛くて、怖くて、苦しくて、いい思い出を探す方が難しい。飛び込みの競技人口が少ないのは、単純にこの競技が苦しいからだ。誰だって、痛い思いなんか可能な限りしたくない。
目の奥が熱くなってきて、瞳を閉じる。じわりと沸いてきた涙が頬を濡らした時、まるでそれを咎めるような灯りが名前の頬を照らした。
「……!」
渚たちだ。懐中電灯を持っていた人物に心当たりがあった名前は真っ先にそう思ったが、そのわりには話し声が聞こえてこない。渚はおろか、真琴の声も、遙の声も聞こえてこない。
おかしい。懐中電灯の明かりの方へ視線を向ける。
十メートル下方、プールの入り口を注視する。
そこでこちらを見ていた人物は、たった一人だった。
目深に黒いキャップを被っている。
渚でも真琴でも遙でもない。
あの時に聞こえた、五人目の足音が耳元で蘇る。
名前は身体を強張らせ、息を潜めた。
「……名前?」
「……?」
男の声だ。しかし、心当たりはない。名前は台の上で立ち上がり、男を凝視した。
近づいてくるたび、男の耳にあるイヤフォンから洋楽が漏れ聞こえてくる。ごくりと息を吞む。男はプールの真下まで来ると、名前の方を見上げてキャップを脱いだ。
「覚えてねえって顔だな。お前、江のことも忘れてたらしいじゃねえか。薄情な奴だな。」
「……えっ、」
キャップの下から現れた赤みがかった髪色には、見覚えがあった。そして男が発した“江”という名前にも。
驚きに腰が引ける。一も二もなくプラットフォームを引き返し、名前は急いで階段を駆け下りた。
「り、凛……!?」
「よお、久しぶりだな。」
プールサイドに降り立ち、急いで男──凛の前に立つ。
対面した感覚は、遙と同じくらいの背丈だった。名前の視線はちょうど、凛の首元にぶつかる。遙と身長は大きく変わらなさそうだったが、威圧感はまるで違った。肩回りと胸の筋肉の発達が服の上からも見て取れる。三年間、競泳から遠ざかっていた遙とは、身体の出来上がり方が違っていた。
「び、びっくりした……オーストラリアから帰ってきてたの?ちょうど今日、江ちゃんとも会ったから余計にびっくりしたっていうか……。あの、とりあえずお帰り。」
「……。」
「ほんと、びっくりしたんだけど……。っていうか!一階で足音聞いたんだけど、あれもしかして凛の足音だったの?驚かさないでよ。」
「……お前、」
「ん?」
凛は面白くなさそうな顔でこちらを見下ろしていた。耳につけていたイヤフォンを外し、一つ息をつく。
記憶の中にある松岡凛とはまるで雰囲気が違っていることに、ようやく気がつく。
凛の瞳の奥がぎらりと獰猛に瞬いたのを見て、名前は息を吞んだ。
「どうでもいいことばっかりぺらぺら喋りやがって。」
「え……、」
困惑する名前に構うことなく、凛は名前の肩を掴んだ。
「……そうだろうなとは思ってたが、お前、飛び込み辞めただろ。」
「……!」
ぴたりと言い当てられ、口をつぐむ。
競技を辞めたことは、凛には言っていない。遙や真琴が凛と連絡を取っていたという話も聞いたことがない。名前は身体を硬直させ、曖昧に笑った。
「……なんで分かるのって顔だな。身体見りゃ分かる。お前、ちょっと太ったろ。」
「なっ……!」
飛び込み競技において、入水時のスプラッシュは少ない方が良いとされている。理想はノー・スプラッシュ──水しぶきが上がらない状態で入水することである。そのため、たいていの飛び込み選手は太らないよう体形の管理を怠らない。太ればその分、入水面積が大きくなり、スプラッシュが上がりやすいからである。
そういう意味では、名前の体形は選手のものではなかった。特段太っているわけではない。むしろ痩せ型ではある。しかし、厳格に身体を絞っている飛び込み選手と比べれば、なるほど確かに太っていると言われても仕方がなかった。
「普通の女になりやがって。」
吐き捨てるように凛が言う。
普通、という言葉が耳に痛かった。
月光を背に纏った凛が、鋭い目で名前を見据える。
その強い視線に耐え切れず、名前は睫毛を下向かせた。
そうだ、遙と比べれば自分は普通だ。凡人だ。競泳を辞めてもなお“特別”で“天才”の風格を失わない遙とは違い、自分は凡人に成り下がってしまった。
視線を俯かせた名前を見下ろして、凛は自嘲気味に笑った。
「ネットで探したが、お前の大会記録は中学選手権、中一の夏の記録が最後だ。入賞しておいてのこのこ辞めてんじゃねえよ。」
「……。」
「飛び込みは競技人口が少ないわりにオリンピックの種目には枠がある。お前は順調に行けばオリンピック選手になれただろ。強化選手指定まで受けておいて何やってんだ、お前。」
凛の言うことは最もだった。
飛び込みは競技人口が少ない。華やかな競泳と違って、地味で練習できる施設も限られているせいだ。実際、強化選手指定を受けていた名前にも凛の言うような理想はあった。
オリンピックの選手になる、日本代表になる、そうすれば、遙の隣に並べる。遙の副産物ではなくなる。副産物でなくなれば、そうすれば胸を張って──、
「……ッ、なんにもしらないくせに!」
「!」
目尻の奥が熱くなったと思った途端、言葉が飛び出していた。
驚いたように瞳を見開く凛は、名前から手を離す。
名前は溢れてくる涙にも気が付かないフリをして、ぐちゃぐちゃの頭の中の内容を全て凛にぶつけるように叫んだ。
「勝手なこと言わないでよ……!十メートルの台から飛び込んで、水面にぶつかって、どれだけ痛いか知らないでしょ!あんな競技、まともな精神じゃ続けてられないわよ!」
「……。」
入水角度を誤れば、水面に打ち付けた身体は文字通り痣だらけになる。
十メートルの台から飛べば、時速六十kmで水面に突っ込むことになるのだ。
人間がそういう高さからそういう速度で落ちて、無事でいられる方が珍しい。
新しい技の練習などをしていれば、当然のごとく身体はどこを見ても痣に覆われることになる。それが中学一年生の女子にとってどれほど苦痛だったか、たぶん凛には分からない。
「……どれだけやったって……、入賞しても強化選手になっても、代表合宿に呼ばれても、仮にオリンピック選手になったって……、」
「……名前、」
「遙がこっちを向いてくれなきゃ意味なかったの!!」
「……お前、」
察しのいい凛は気が付いたようだった。ぼろぼろと大粒の涙を流す名前の頭に黒いキャップをのせて、凛は額に手をやった。
「……泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ。」
「……凛のせいでしょ。」
「……ハルのせいだろ。」
凛は静かにそう言った。
俯く名前の手に小さな盾のようなものを持たせ、口を開く。
「持っとけ。お前のだ。」
「……これ、」
あの時埋めたトロフィーだった。
凛の手にある競泳のトロフィーよりもいくらか小さく、誰が見たって安っぽく見える。
競泳のものが流線を描くようにらせん状にうねる凝ったデザインなのに対し、飛び込みのものはただの六角柱。無骨なクリスタルをそのまま飾り台に載せたようなデザインだった。
華やかな競泳に隠れがちな、競技人口も少ない、地味な飛び込みのトロフィー。
それでも、これだけが遙の隣に並べる自分の武器だった。
幼い頃に勝ち取ったトロフィーを胸に抱きしめて、名前はもう少しだけ泣いた。
遙がこっちを向いてくれなければ、あんな苦しい競技はやらなかった。
あの日、あの夏の日、遙に言われた言葉が頭の中を巡る。
──名前、どこも痣だらけだし。
──そういうの、俺は好きになれない。
あの言葉がなければ。
今頃は、何か変わっていたかもしれない。
非凡な七瀬名前でいられたかもしれない。天才の隣で胸を張っていられたかもしれない。
遙のことが好きだと、言えたかもしれない。
凛はただ静かに、名前の泣き声を聞いていた。
この女が泣くのを見るのは、初めてだと思いながら。
(NIGHT BEFORE/七瀬遙)
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