CATCH UP

別れ際、凛は懐中電灯を渡してくれた。
曰く、“一人でこんな暗いとこうろついてんじゃねぇよ”とのことである。
なぜ名前が遙たちと別れて一人で探索していたか、その辺りの事情には触れなかった。
触れるとまずいと思ったのか、それとも遙とのやり取りを後ろから聞いていたのか、どちらなのかは分からない。
しかし、凛はただ一言だけ名前に残して去って行った。
──あんまり卑屈になるなよ。
それが何を意味しているのか、名前にはよく理解ができていた。
らしくもなく自分が抱えていた鬱屈を吐き出して泣いた後だ。頭のキレる凛ならば、名前を取り巻く環境を全て察してしまっただろう。
悪いことをした、と思う。オーストラリアから帰ってきたばかりの凛に、無駄な情報を悟らせてしまった。気も遣わせてしまっただろう。
あれで昔からお兄ちゃん肌というか、面倒見の良かった凛のことだ。
きっと、名前の事情を悟ってしまったことでこちらを気にかけずにはいられなくなるだろう。
そして名前は同時に、凛の雰囲気が以前とは随分と違っていたことを思い出した。
──もしかすると、凛は私に話を聞いてほしかったのかもしれない。
わざと挑発するようなことを言って名前を焚きつけたのは、自分の話を聞いて欲しかったからではないか。わざと飛び込みを辞めた名前を責めるような言葉を投げかけたのは、自分も何か問題を抱えていたからではないか。
──あそこで泣き出さない強さがあれば、凛の話を聞いてあげられたかもしれない。
今更何を思っても後の祭りではあるけれど。もう一度チャンスがあれば、そして凛にまだ話をする気があれば、今度は凛の話をきちんと聞きたいと思った。
名前は一つ息をついて、一階へ続く階段を下りきった。売店と受付だったエリアに挟まれたエントランスで立ち尽くす。
遙たちを探そうかと思ったが、一人になると途端に廃墟の不気味さが蘇る。
懐中電灯であたりを照らしてみても、誰の姿も見えない。
名前は別れ際の凛の言葉を思い出し、SCの外へ足を向けた。




「お前、早く外出たほうがいいぞ。」

名前の涙が枯れた時、ようやっと凛はそう言った。
プールを出て、三階のギャラリーと一階フロアへ通ずる階段の踊り場でのことである。

「え?」
「ここ、定期的に見回りが入ってんだよ。さっき警備員のおっさんが玄関から入ってくるのが見えた。」
「えっ、うそ、見つかったら大変なことになっちゃう!」

先ほどまでの涙も引っ込む一大事だった。廃墟に忍び込んでいたなど、学校に連絡がいけば名前がこれまで築き上げてきた立場は一瞬で水の泡だ。
名前は顔を青ざめさせ、周囲を見回した。

「……何だよ、お前そんなことで焦るようなタマだったか?」
「あ、当たり前でしょ!?学校に連絡されたら私の優等生としての立場が……!」
「はあ?優等生?小学生の時、俺と一緒に理科室で爆発起こした奴が何言ってんだ。」
「あ、あれは凛が水素爆発の実験しようって……!って、そんなことはどうでもいいわよ!とにかく、もうあの頃の私じゃないの。廃墟に侵入してるところなんて見つかるわけにはいかないのよ!」

焦りに足踏みを始めた名前を無感情な目で見下ろして、凛は首に手を回した。

「へーへー、なら優等生サンはさっさと逃げな。渡した懐中電灯、照らすなら足元だけにしとけよ。外から明かりでバレる。」
「わ、わかった……、ありがと。凛は?一緒に出ないの?」

一瞬、凛は獰猛な鮫のように瞳を瞬かせた。
小学生の頃と変わらない、ギザ歯が唇の隙間から見え隠れする。
凛はちらりと暗闇の奥を見据えて口を開いた。

「……ハルに用がある。下にいるんだろ。」

その時、やはり凛は何かが変わったのだと確信した。
低い声で囁くように言った一言が、凶暴な響きを纏っていた。
昔から遙と競い合う一面はあったが、こんなに獰猛な目つきで遙の話をしたことは一度もなかった。名前が知る限りは、の話ではあるが。
思わず、凛から距離を取る。
凛は一変して名前に眉を下げて笑った。

「名前、あんまり卑屈になるなよ。」

結局、凛の言う“ハルに用がある”というのが何なのかは訊けなかった。
軽い調子で聞いてはいけないような、遙と凛以外の人間が触れてはいけないような、そんな気がしたせいだった。
上手い返答も返せず、凛の背中を見送る。
懐中電灯が照らした先は、思ったほど明るくはならなかった。





──ここ、見回りの警備員が入ってきてるみたいだから早く出てきて。私、先に出てるからね。駅で待ってる。

遙に宛てたメールを読み返し、送信ボタンを押す。
いつまでも廃墟の前で待ちぼうけをくらうのは遠慮したい。SC外壁の少女絵に見つめられながら雑木林を通り抜ける不気味な風の音を聞くなど、想像したくもなかった。
名前はSCから徒歩五分とかからない岩鳶駅へ向かい、そこでようやく足元を照らす懐中電灯の明かりを消すことができた。
田舎の駅とはいえ、さすがに駅舎には明かりが灯っている。木製の駅舎に似合う、橙色の電灯だ。怯えた心がゆっくりと溶けていくような感覚がする。
駅舎以外に明かりの灯された施設はないが、逆にそれが心地よい。駅の明かりだけがぼうっと周囲を照らす薄暗闇は、静かに名前を迎え入れた。
名前はバス停に設置されたベンチに座り、遙からの返信を待った。
ベンチに腰を下ろすと、うつらうつらと頭の奥が鈍くなってくる。
疲れているせいだ、と名前は思った。きっと泣き疲れたのだ。
意識的に“泣く”という行為を避けて通ってきたせいで、涙を流すことに身体が慣れていない。
それも家族以外の人前で泣いたのは初めての経験で、名前は身体と心の倦怠感に目を瞑った。
寝るつもりはない。ここは屋外だ。いくら平和な田舎とはいえ、外で眠るなど危機管理がなっていない。だから、ただ目を瞑るだけ。視界を閉ざして頭の中を整理するだけ。
寝るつもりは、ない。








「ねえ、名前ちゃんって誰が好きなの?」

臨海学校の夜、予定表通りに夜十時に就寝する小学五年生などどこにもいない。
名前たちのしおりのスケジュールは、臨海学校の一週間前から書き換えられている。
夜十時“消灯”の文字は鉛筆の二重線で消され、その上から誰のものか分からない文字で“夜更かし”と記されていた。
小学五年生とはいえ女の子が五〜六人も集まれば、そして夜のお泊り会ともあれば話す内容はおのずと定まってくる。誰が好きだとか、クラスの誰々は両想いらしいとか、そんな話題である。海で泳いだり筏に乗ったりした心地よい疲労感も、恋愛の話の前では霞む。
先生の目を盗んで遅くまで起きているという高揚感も手伝って、みな目が冴えていた。
きゃあきゃあと騒ぐ少女の声が、広い和室にひっそりと響く。縦に並べられた布団は、どれも一様に同じデザインをしていた。いかにも宿泊研修用といった、飾り気のないものだ。
その端で、名前は真琴の名が何回登場したか数えていた。
もう覚えていられないくらい真琴の名を聞いた気がする。誰も彼も真琴のことが好きらしいのだ。確かに、小学生にしては背も高く優しい真琴を好きになる理由は、分からないでもない。
──明日、真琴に教えてやろう。モテモテだねって。
そう考えて、にやりと笑う。初心な真琴は顔を真っ赤にするだろう。
寝返りを打つ。もうそろそろ寝ようかと思ったのである。しかし、少女たちはそう簡単には寝かせてくれない。クラスメイトの好奇の目は、次は名前に向いてくる。

「ねえ、名前ちゃんって誰が好きなの?……もしかして、橘くん?」

誰か一人が息を潜めるように言った。まるで、そうではないことを祈るような口調だった。

「真琴?うーん……別に好きじゃないな……友達だから好きだけど、みんなが言うような好きじゃない……。」

名前の言葉に、場が安堵に満ちる。誰かが一言、“名前ちゃんに勝てるわけないもん、心配した”と呟いた。
名前と真琴の仲が良いことも幼馴染であることも、周知の事実である。いつも一緒にいる名前には勝てないと、小学生ながらに少女たちは感じ取っていたのだ。名前は苦笑いをして言った。

「真琴もたぶん、私のことは好きじゃないと思うよ。友達として好きってことはあるかもだけど。」
「だよねえ。よかった。」
「じゃあ、名前ちゃんは誰が好きなの?」

問われて、一呼吸置く。誰が好きか?好きな相手ならたくさんいる。真琴、渚、笹部コーチ、たまに水泳競技の大会で顔を合わせれば話す松岡、山崎のことも嫌いではないし、クラスメイトのことも好きだ。
けれど、みんなが言うように“胸のときめき”を感じる相手は一人しかいない。

「ハルかな。」

口に出す。やはりしっくりきた。遙のことが一番好きだ。みんなが言うように、隣にいると嬉しいと思う。ドキドキもする。ずっと一緒にいたいと思う。手を繋げば胸はうるさいのに心は落ち着いてゆく。

「ハルのことが一番好きだよ。」

もう一度口に出すと、頬が熱を持つ。枕に顎を乗せた少女たちは、一様にこちらを見ていた。
まるで暗闇の中で光る猫の目みたいに、五対の瞳が光る。
しかしそれは次第にがっかりとして閉ざされた。
名前が首を傾げると、一人が小さく笑って言う。

「七瀬くんはキョーダイだから好きなんでしょ。そういうのじゃなくって、男の子として好きな子の話だよ〜。」
「誰かいないの?名前ちゃん、飛び込みやってるなら他校の子とか?」
「名前ちゃんが誰かに恋してるって話、学校で一度も聞いたことないし、別の小学校の子かなってちょっと思ってた。」

口々に言う少女たちの話に適当に相槌を打つ。名前は違和感に胸を騒がせた。
これが恋でないというのなら、何なのだろう。みんなが真琴やその他の男子に抱いている感情と同じものを遙に向けているのに、キョーダイだというだけで自分の気持ちは恋ではなくなってしまうのだろうか。
そうだとしたら、おかしな話だ。
名前は納得できないながらも、適当に他校に好きな男の子がいることにしてその場を乗り切った。本当に遙のことが好きなのだと主張することもできた。けれど、臨海学校の夜に相応しい話題を提供することが優先されたのである。
これは一種のアミューズメント。みんなが盛り上がれる話が求められているのだから。

「佐野小ってあるじゃん、あそこの子で……、」
「やっぱり!名前ちゃん、大人っぽいから他校の子だと思った!」
「どんな子?名前は?」

思わず佐野小という名前を出してしまい、名前は適当に松岡凛の話をすることにした。
佐野小の男子で顔見知り程度に知っているのは松岡凛と山崎宗介の二人だけ。松岡の方は何度か遙に話しかけてきていたので、人となりくらいは話せる。山崎の方は口数が少ないのであまり“こういう話”向きではない。
適当に松岡凛の話をしながら、名前は小さく胸が痛むのを感じていた。
みんなに嘘をついている後ろめたさというより、この話を誰かが遙にしたら、遙に誤解されたら、と思うとこの後は眠れない気がした。



「別に、誰にどう思われたって関係ないだろ。」

翌日。スケジュールでは磯釣りをすることになっていた。さすがに港町の子供のいうこともあり、各々勝手にエサを付け海に釣り糸を垂らし、勝手に魚を釣り上げている。先生も特に教えることがないのか、生徒の様子をのんびり見ているだけだ。
名前は遙の隣に寄って行き、その隣で釣り糸を垂らした。いつも遙と一緒にいる真琴は、昨夜の話の餌食よろしく女子に囲まれている。
名前はぽつりと昨晩の話を遙にしてみた。みんなが名前は遙のことが“好き”ではないと言うこと、その場の盛り上がりに合わせて佐野小の松岡が好きだと言ってしまったこと。全て遙に話すと、少しだけすっきりした。

「周りがそう思ってるならそう思わせておけばいいだろ。別に、俺には関係ない。」
「うん……でも、私は松岡より他の男子より、ハルの方が好きだよ。」
「知ってる。」

短い一言だった。名前の方を見もせずに放たれた一言だった。けれど、名前の好意に絶対的な自信と確信を持っていることが分かる口ぶりだった。
その一言が嬉しくて、名前は頬を緩ませた。竿を岩礁に置いて、遙に抱き着く。

「ハルが知っててくれてるならいいや。ハルだいすき。」

体操服越しに触れた身体の温もりに胸が高鳴る。どきどきする。ふわふわする。苦しいくらい頬は赤いけれど、それでもこれ以上ないくらい嬉しい。
これが恋でないはずがない。
遙はこちらを抱き返してはくれなかったが、ここが家なら、竿さえ持っていなければ、同じようにこちらに腕を回してくれていたはずだ。
竿を片手で持って、空いた方の遙の右手が名前の手を握る。それが全ての答えだった。
それ以上の言葉は望まなかったし、それだけで充分だった。

「……名前、竿引いてる。」
「あ!魚かかってる!ハル手伝って!」








「ん……?」

足がつかない。空中に揺れている。それに気が付いた時、名前は重たい瞼を持ち上げた。
顔を預けていた硬い背中から顔を起こす。いやに不安定な身体に肩が跳ねる。けれどお尻の下から誰かの腕でしっかりと支えられていた。水色のパーカー、良く知っている匂いがする。
背負われていると気づいた時、この背中は真琴かと思った。しかし真琴にしては身体つきが華奢だ。
──遙だ。
そう思った時、目の前から“起きたか”と静かな声がした。

「ハル……?」
「お前、あんなとこで寝るな。危機管理がなってない。」
「うん……。」
「それから、連絡が遅い。とっくに警備員みたいなのに見つかったぞ。高校の名前だけ聞かれた。」
「うん……。」
「というか、連絡なら真琴の方にしろよ。俺がケータイ見ないって知ってるだろ。」
「ん……、」


頭がよく回らない。うるさいとか、ケータイ見ないアンタが悪いんでしょとか、浮かんでくるのにどうやって声を出せばいいか分からないみたいに言葉にできない。
遙の方も言い返して来ない名前を妙に思ったのか、首だけをこちらに向けた。

「名前?」
「……凛に会った。」
「……!」

凛に会って、飛び込みを辞めた話をして、それから他の子に凛が好きだと言ってしまって……、それでも遙に誤解をしてほしくなくて、こんな風になりたいわけじゃなくて、
この数時間で何が起こったのか、記憶が曖昧だ。
痺れるみたいに重たい瞼を擦って右手の景色に目を向ける。
真っ暗でほとんど何も見えないけれど、潮風の匂いがした。そして、ずっと遠くに漁船の灯が見える。こちら側が海で、あちら側が山、通学路のビーチ沿いの通りだった。
街灯もまばらな岩鳶の田舎町では、この時間になると人の気配はない。
遙の体温だけが世界にあるように感じて、名前は遙の首元に鼻先を摺り寄せた。

「……知ってるって、言ってよ。」
「何の話だ。」
「……ちゃんと知ってるって、他の人にどう思われても興味ないって。」
「名前?」
「……飛び込み、もうやめたから……痣もないよ。」
「……おい、名前、」
「……あの時、私の竿にかかった魚って……ちゃんと釣れたんだっけ……。」

ここから先は思い出せない。あの時の魚は釣れたんだったか、釣れなかった気もする。
瞼の重たさに抗わず受け入れれば、あの時の続きが見られるかもしれない。魚が釣れたのか、釣れなかったのか。別に、そこまで気になっているわけではなかったけれど。


「……名前、おい、」
「……。」
「……寝たか。」


背後で寝息が聞こえ始めたのを確認して、遙は名前を背負いなおした。
凛に会ったという一言が、耳元で何度も繰り返されるように鳴っている。
──勝負しようぜ、ハル。
遙も先ほど、凛に会った。勝負を挑まれたが決着をつけることはできなかった。
そこに水がなかったせいだ。廃墟のプールに水などあるはずがない。よくよくと考えれば当然のことだったが、あの時まで気が付かなかった。

「凛もお前も、何なんだ。」

呟いた声は、海岸線を抜けて海へ流れてゆく。

「二人して子供の頃とは違うって言われても、俺には分からない。」

どうすればいいか分からない。二人が何を望んでいるか分からない。
けれど、待つしかないのだ。凛と名前が何を望んでいるのか、どうしたいのか、言葉にしてくれるまで、待とうと思った。そして、自分がどうしたいのかが分かるまで、根気強く。

「……疲れた。」

名前からの連絡に気が付かず、先に帰ったものだと思い込んで渚と真琴と共に真琴の家に戻ってしまったのだ。そこで名前からの連絡に気が付き、遙だけが岩鳶駅へ引き返すことになった。既に駅と漁港を一往復している上に、帰りは名前をおぶっての道程だ。さすがに疲れてしまった。その上、SCで凛と出会ってしまい頭の中はごちゃごちゃだ。凛が何をしたかったのか、自分がどうしたいのかすらも分からない。
身体が水を欲している。SCで泳げず欲求不満なせいもあるが、一番にはごちゃごちゃと考えることが増えたせいだ。
家の浴槽の水では治まらない。もっと広くて、大きな水が必要だった。
真琴の家では、今頃は渚が蓮と蘭のゲームの相手をしている。遙もそちらへ戻るつもりではあるが、その前に名前を自宅のベッドまで送り届けなくてはならない。
背中で眠りこけている名前がどんな夢を見ていたのか、何を言っていたのかは分からない。けれど、名前の最後の問いにだけは答えることができた。

「……あの時、魚は釣れただろ。俺が手伝って、お前がちゃんと釣ったんだ。」
「……お前が覚えてないだけで、魚は釣れたんだ。」

海沿いの国道を進む。
星空がまるで深海の発光プランクトンみたいに輝いている。
辺りに街灯がないことを、遙は好ましく思った。
こうしていると、水底を歩いているように感じられる。
ぐちゃぐちゃの頭の中が落ち着いてゆく。それが一時の安寧であったとしても、とりあえず今晩はそれでよかった。明日からどうなるかは分からないけれど。


(CATCH UP/七瀬遙)
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