昔々のお話

乾いた音が頬を強打した。



それはある日の正午の出来事だった。子供たちに教養の手ほどきを仕事として行う日々の一環だった。彼らの教室と称する紫獅塔へ向かう最中、突然目の前に優雅に現れたソミリさんによって私は視角になった薄暗い場所へと連れて来られて、突然彼女の平手打ちにあったというところだ。叩かれた頬に私は、暫くの間悩んでいた。何かしたっけ?相手を見つめると何故だかとてつもない面倒くさい薫りがする。これは、多分、男関係だ。般若の形相とかそんな感じ。叩かれた頬を一番心配したのも、反論したのもユニだった。



《 何するのさ、いきなり!! 》

「何って…そこのおばさんが私の恋人に色目使ったからよ!」
『恋人って……誰?』
「シンドバットよ!言葉の文脈から察しなさいよ!アンタ、バカ!!?」



とてもつなく、罵られた。そして、とてつもなく、面倒くさい。ひっそりと溜息を吐くと掌を両手とも上げて左右に振った。



『言っておきますけど、私。この国の王様にセクハラされただけで決して私の意思ではないですし。しかも、私の辞書に色気なんてない!!』

《 そこは豪語するところじゃないでしょ!! 》

『いや、ここ重要だから』



人差し指を立てて真剣な面持ちで言うと、ユニは頭を抱えていた。



《 何だよ、泣き虫ユニファーじゃねぇか。久しぶりだな、お前の主は本当にどうしようもなく不細工だな 》



ソミリさんの後ろから音もなく現れた青年は、彼女の肩に顎を乗せてべったりと甘えている。そんな彼に私はユニを重ねてしまう。もしかして……。その疑念はソミリさんの次の言葉で明らかとなった。



「アル。可哀想じゃない。言葉を慎んで」

《 そうかな?だってあいつ何とも感じてないみたいだよ?ってか、それってユニファーとの契約でそうなってるだけか…よくそんなつまんない願いごとしたね、あんた 》
《 アルノー。僕の大切な女性に対してその口の聴き方は許せない。君だって君の契約者の契約は彼女よりも劣るようなチンケな願いじゃないか 》
《 んだと、クソガキ……! 》
《 口だけな君に言われたくないな 》



ユニとアルノーという青年が互いに睨みあい臨戦態勢に入っていた。そんな彼らを余所に私はソミリさんを視界に留める。これは一体……、と考えるまでもない。つまりは、そういうことなのだ。



『あなたあのバス事故にいたの?』
「そうよ。同時期に死んだけど、私の方が先にこちらの世界にやってきただけで。私はアンタと同じ世界の住人だった」
『そう……で、いくつなの?』
「16歳だけど?」
『へぇー奇遇ね。私は21歳なの』
「どこが奇遇なのよ。それより、シンともう二度関わらないでよ、目障りな女。胸も顔も私に負けてるおばさんのくせに」



ああー、何て言うかな、コレ。久しぶりに毛細血管が破裂しそうな程血液が沸騰してる。死んでるはずの表情筋が神経を鳴らす。多分、今、鬼の形相だわ。
無言でソミリに近づくと彼女の胸倉を掴んで引き寄せた。



『生意気な小娘が…目の上の人には敬語だろうが、ああ゛』
「っう……!」
『言っとくけどいくら若いからって、使わない胸部はただの駄肉も同然だから』
「だ、ニクって…」



傷ついた顔をしているこの美少女の顔を私は心底反吐が出そうになって、何より、シンがこんな顔だけ女にいいようにされているかと思うと……、心底腹が立つ。奥歯を噛みしめてギリギリと歯ぎしりがなる。隣で騒いでいたユニもアルノーも私の雰囲気に押し黙り大人しくなる。

だいたい、私の容姿は一切変わってないのに何で気がつかないのよ。いや、彼はシンドバット王であって、シンじゃないから文句を言う対象じゃないかもしれないけど、何て言うか、凄くムカツク。何で、こんな糞みたいな小娘が良くて、私は駄目なの?ああ、こういう考えする自分もムカツクし心底腹が立つ。ああ、未練たらしい!うっざ!自分、ものすっごうっざ!!胸倉を離して、彼女は距離を取るために数歩後退する。少しだけ怯えを見せている彼女に向かって、私は、大人げない言葉を言い放った。



『気をつけた方いい。あなたが愛するシンは、女誑しでたかが一回ヤッたくらいで彼の女気どってたらこの先持たないよ?』
「なァ……ッ!!!」



真っ赤に染まった彼女の初々しい表情に私は不敵な笑みをこぼす。そんな私に逆上した彼女は懐から取り出した小刀で私の瞼を切り裂いた。逃げもせず瞳を瞑って受け入れたため、瞼が裂かれただけで外傷はそれだけ。でも、血液が執着するそこからは意思に反して片面を血で濡らす。流れる滝のような血に手で傷口を押さえると彼女へ視線を仰いだ。肩を揺らして彼女は捨て台詞のように吐き出した。



「私はこの国に、シンドバットに必要とされてる。彼の力にもならないあなたなんて相手にもされない家畜も同然じゃない!……忘れられた女の癖に」
『……』

《 ソミリ戻ろう。人の気配がしてきた 》



アルノーが彼女の傍に寄りそうと彼女は、睨みを一層強化してからその場を素早く去って行った。そんな彼女の後姿を呆然と眺めていると周囲でユニが真っ青になりながら慌てていた。



《 また怪我させ……あああ!血が止まらないよ!どうしよう!アレ、どうすればっ、ええっと、あれをああすればいいんだっけ?それともそれをあれしてこうするんだっけ?? 》

『ユニ、落ち着きなさいって』

《 君は落ち着きすぎ!…痛く、ない? 》



瞳の端に涙を溜めながら泣くのを我慢しているユニの頭を私はよしよしする。壊れかけた今なら笑えるだろうと笑みを久しぶりに携えた。



《 君はいっつも誰かの事ばかり…、もっと僕に甘えてよ。僕はそのために君の傍にいるんだから 》



それを黙って静かに受け止めるだけにする私にユニは少しだけ不満げな顔をしていた。それにしても先程の彼女の言葉に私の心は持っていかれる。【忘れられた女】ってどういうこと?ここは別の世界ではないの?もし、この考えが正解なら……。考えはそこで止まってしまう。それは、悲鳴だった。



「キャアアアアアアア!!!」
『っ、メイリン?』



片目が視えないため人物のシルエットと耳に頼るしかない。聞き覚えのある声に名前を呼び掛けるとそうだったらしく、メイリンは私の方へ駆けより血に濡れてしまった私の服を掴んで足にしがみついてきた。



「死なないで、死なないでリノン……!」
『致命傷じゃないから大丈夫だよ』
「死なないで、死なないで、シナナイデ……ッわたしを置いて逝かないでッッ!!」



泣き叫びながら一心不乱に「 死なないで 」と繰り返しうわ言のように呟く彼女の恐怖と虚空に染まった瞳に私はしゃがみ込み彼女の涙を拭った。そのまま頬に触れると私の手に小さな手が触れて頬に押し当てて離さない。体温で確かめているのか。そう思っているとメイリンの悲鳴でかけつけてきたルシアとマスルール君も、血相を変えていた。それ程までに酷かったのだろう。苦笑するとユニに怒られてしまう。



《 君、この時代は失血死なんてざらにあるんだから!それに、一回死んだら… 》

『ユニ?――ッ!』



引っかかる言葉に問いかけようとしたら身体が軽々しく持ち上げられて、横抱きされる。逞しい腕に囲われてしまい、身動きが取れない。焦った面持ちでマスルール君を見つめると彼は断固として離す気はないらしく、彼の足元ではメイリンがルシアによって無理矢理剥がされて泣きじゃくっていた。



「ヤダッ!やだやだやだやだやだ!!ルシア離して!わたしもリノンといく!傍にいたい!」
「メイリン、大丈夫だから。お願いだから、僕と一緒にいよう……ね?」



メイリンを抱きしめるルシアに、メイリンはルシアにしがみ付き泣いていた。マスルール君は静かに歩みを始める。死に直結するような傷じゃないけれど、もしかするとメイリンの踏みこんで欲しくない過去に触れてしまったのかもしれない。自分の軽率な行動が小さな少女を傷つけたかもしれない……、傷の痛みより罪悪感に苛まれた。



「痛みますか?」
『ううん、ただ……自己嫌悪』



私よりも一個だけ下なマスルール君の腕の中で私は静かに両の眼を閉じた。暗闇は転生する瞬間を奮闘させる。あのまま死んでいた私とソマリ。でも、ユニファーという精霊によって私も彼女も蘇り新たな人生を歩む。私はユニが望んだからだが、ソマリは望んだのだろうか、自分から、生きることを―――。そう思うと、忘れられて当然なのかもしれないと思った。ああ、やっぱり自己嫌悪。



「リノン!どうしたんですかそんな血だらけになって!」



ガタン、と椅子を倒す音が聴こえてゆっくりと瞳を開けると見た事のない室内に通されていた。声の主はジャーファルさんだったけれど、ここは一体……。いや、ちょっと待て。止まりそうな脳内を再起動させて私は急に慌てだした。当たり前だ。ジャーファルさんの部屋に来てはいけない。だって、リーザさんは……。別の事で焦る私になど気にすることもなく、マスルール君に指示を出すジャーファルさんによって、私は椅子に座らせられジャーファルさんが正面に立ち、消毒をしようと頬に手を添えられた。思わずその手を振り払う。



「っ」
『あ……』



乾いた音が響く。重なってしまった訳じゃない。わかってる、大丈夫。ジャーファルさんはジルじゃない。だから、大丈夫だ。大丈夫……わかってる。わかってるのに……身体の震えが止まらない。どうしよう、どうしよう……。視線を彷徨わせては結局俯くだけ。気まずい空気の中ジャーファルさんの声が響き渡った。



「マスルール。タオルを取ってきてください、後お湯をはった桶も。リーザがその辺りを掃除していると思うので」
「わかりました」



マスルール君が去っていく。ドアが閉まって行く。私は咄嗟にユニを心の中で呼んだ。けど、ユニは見当たらなかった。え?どうして……?こんな事は初めてで戸惑ってしまう。もう一度呼んでみても、彼は姿を現さず、私は実質ジャーファルさんと二人きりとなってしまった。これは非常にまずい。焦る所為か血が沸騰してアドレナリンが暴発してる。やばい、血が。再び溢れて来てしまいこのままでは本当に失血死するかもしれない。そんな危惧さえ今はどうでもよかったのだけど。



「リノン」
『っ、』



名前を呼ばれて肩が跳ねる。私の上がる呼吸音だけが響き渡る静寂仕切った室内で、ジャーファルさんは私に近づき垂れたままの手を掴み持ち上げられる。思わず驚いて顔を見上げると視線が重なり合い唾を呑みこむ。掴まれた手首を翻され、掌を彼が自身の口元へ引き寄せて、口づけた。



『ッ、な、なにを……』



くすぐったさと気恥かしさで私はいつも以上に多彩な表情をしていることだろう。頬は出血の所為で白くなっていると言うのに、上気している。視線が逸らせずに見上げているとジャーファルさんの閉じられた瞳が開眼して私を見降ろす。そしてそっと離した唇が動く。



「私に、あなたに触れることをお許し願えますか?」



まるで、御伽話に出て来る騎士のような所作に私は、柄にもなく心臓が高鳴ってしまった。覆っていた手を外して両眼を閉じるとそれを了承と取った彼が囁くように呟いた。



「ありがとうございます」



耳の裏に指を這わされて首を上へと上げさせられ、固定される。前髪を退かす様に触れられ、流される。彼の吐息が瞼に掛るたびに、無性に泣きたくなってきた。淵に溜まった雫をどうか痛みに耐えていると勘違いしてください。



( アルノー。シンドバットを元に戻して )
( 何故?俺の主がそれを望んだ。俺は珠洲音が望むままに答えただけだ )
( 君の気持は僕もわかる。だから、僕も栞那のために動くだけ )
( そうかよ……、消したわけじゃない。曖昧な存在のあいつから奪えるわけがないからな )
( 第一級特異点、だから? )
( それもあるが…多分あいつ気がついてる。お前の所の女の事 )
( ……やっぱり消したままにしておいて )
( 何だよ。主が望んでんじゃねぇの? )
( 僕は、彼女が望むなら何でもしてあげたいけど。彼女を傷つけた奴、傷つけるであろう存在を手放しに許せる程寛大じゃないから )
( お前が一番恐ろしいよ )
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