You are my hero
『………』
遠くで、ありがとうございました。と誰かが言った。それを耳という穴は受け止めはせずに流してはそのまま私は歩きはじめる。頭の中では今日の献立が並べられていて、それに必要な材料を袋に下げて、あとは――と足先だけははっきりとしていた。信号前の交差点。立ち止まった足先は綺麗に並ぶ。車が行き交う青の道路。ぼんやりとコンクリートを見つめながらわたしは、あの人を思い出す。記憶の中と、接触した彼と―――。
あの人は何も変わらない。変わらず、カノジョに触れようとする、接しようとする。周りが悪く云う程、彼を悪くは見れない。カノジョを純粋に好きだと言う気持ちばかりが伝わって来てしまうから?好意を寄せられて言い気分だから?どれ程自分に自問自答しても答えは常に平行線で何も見えない。霞みゆく地平線の彼方を彷徨いながら歩いている気分にさせられて、わたしは溜息を吐きだした。
あの人の事を考えようとすると必ず黒子くんが邪魔をする。
邪魔をしては見えて来るような答えが逃げていってしまう。
集めた欠片を取り上げられるようなそんな感じがして、わたしの頭の中は真っ白になってしまう。
横断歩道の信号が青へ変化する。立ち止まっていた足が動き出す音が聴こえる中。袋を提げたまま、わたしはその場で立ち止まっていた。前へ進めない。これから自分はどのように進めばいいのか、見失ってしまった迷子のように、わたしはそこから一歩も動けなかった。途方に暮れる、そんな言葉が似合ってしまう。そんなわたしに、風が吹いた。夏も終わり、秋となった冷たい風なはずなのに、まだ夏の匂いをさせるそんな風が舞い吹いた。
「果杞ちゃん!」
『っ』
呼ばれたその名をわたしは疑いながら顔を上げた。また、カノジョの名を呼ばれたどうしよう、そんな感情が心の中を駆け抜けた。だけど、顔を上げて、その夏を視界に入れた途端、酷く泣きだしそうになってしまった。
「どうしたの?こんなところで」
その人は、屈託のない人懐っこい笑みを浮かべながらわたしに声をかけた。薄れた記憶がよみがえるように、変わらぬ笑みを浮かべて声をかける彼にわたしはやっと足が半歩動いた。
『たかおっ』
喉が渇いたその喉で、乾燥したその唇で、君の名を告げば。君は……微笑んでくれた。
「ん?果杞ちゃん?」
ああ、わたしはまだここにいる。わたしはわたしでここにいる。カノジョではない、わたし………。
それが酷く嬉しくて、わたしは情緒不安定の人の様に袋を地面へと落としてその場にうずくまった。膝を抱えて丸くなった身体を高尾は驚き、焦りながらもそれでも決してわたしを見捨てようとはせずに、ずっと傍にいてくれた。
再び赤になる横断歩道。青になる道路。行き交う車の騒音がわたしの安堵の叫びをかき消した。
「はい」
『ありがとう』
少しだけ赤くなった目元を隠しながら高尾から受け取ったミルクティーの缶を両手で持ち、既に開けられたプルタブに口をつけて飲む。その一口でわたしは息を吐きだし、落ちついた。そんなわたしの様子を眺めながら隣に腰かけた高尾は。
「落ち着いた?」
と、聞いてくる。それには首だけで返事を返した。それを見て、高尾は少し笑いながら「 よかった 」と答えた。この人はあの人と同じように笑うけど、けれども温かな笑みを向けてくれる。まるで安心を与えてくれるかのように………。それが酷くわたしを落ちつかせてくれるから、未だ、この人の側をわたしが離れようとはしなかった。
突然、泣きだしたわたしを彼は理由も聞かずにこの綺麗な夕日を眺める海まで連れて来てくれた。今どきリアカーだなんて、と思ったけど。案外、気持ちは弾んでいた。
潮風の冷たさが頬を掠めるけれど、心や頭は少しだけスッキリしたように思える。やはり、溜めこんで居ては駄目だと悟る。それでは何も解決しない、もっと冷静に物事を判断していかなければ、真実を知らなければならない。きっと………。
決意を固めていると高尾がわたしに声をかける。
「果杞ちゃん」
『なに?』
「俺は何があっても君の味方だから」
『……突然、どうしたの?』
「うーん?いやーべっつに?何か言いたくなっただけ!だから、俺の事もっと頼ってもいいんだかんな」
『……ありがとう?』
「なにそのっ疑いは!俺ってそんなに信用ない感じ?」
『そういう訳じゃないけど…何だか……ね?』
「いや、俺に同意を求められても」
高尾の申し出にわたしは、脈絡もないその言葉に深くは考えずにただその気持ちに感謝を述べた。この時、高尾がどんな意味でわたしにその言葉を投げかけたのかは彼にしかわからない感情の起伏だった。それから、少し電話をかけてくると言って高尾はわたしから数メートル離れたところへ行き、わたしは折角だからと海を眺めた。流石にこの時期で海に入るのには無理があるから。
憂いの瞳で海を眺めるわたしを盗み見ながら携帯を片手に高尾は相手に向かって挑発的な口調で応対していた。
「そう。今、彼女は俺が預かってるよ〜。だからそんな心配しなくても時間になったら返すよ」
電話越しの相手からは「 そうですか 」と何だか抑揚のない声で返答される。
「場所とか聞かないの?まあ、教えないけど。あったりまえっしょ?女の子を不安定にさせる男に親切にする義理なんてないだろ?」
高尾の棘のある物言いにも相手は動じずに「 別に構いません 」と言われる。それには高尾も流石に頭に来たようだ。
「あのさ黒子。お前、あの子が大事ならもっと周囲に気を配った方がいいんじゃねぇ?居たぞ、あいつ」
この男がもっとも取り乱すもう一人の相手の姿を仄めかす。その言葉に彼はやはり食い付き電話越しでも手に取るように判るほど、感情的になった語尾が聴こえて来た。言葉の端々から伝わる怒りが高尾にはとてもどうでもいいように聴こえた。ただ、仕返しが成功して喜んだだけだった。
強制的に通話を終了させた相手側に怒りなどは既に沈静。静かに通話を止めてメール文を作成する。相手はもちろん、彼の信頼する相棒へ。多分、その相棒から情報を聞きだしてくるだろう、通話相手。何を言われるか覚悟の上だ。ただ、矛先を彼女でなければいい。それだけだった。送信完了画面を確認してから携帯を閉じる。そして、海を眺める彼女の横顔を見つめた。海に見惚れる穏やかなその表情に高尾は柔和な微笑みを浮かべた。
「やっぱり変わらない」
懐かしいその響きに、高尾は瞳を閉じてから彼女の元へ向かった。
2013.10.07
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