AMNESIA
季節外れのバレンタイン。私のチョコは誰の手にも渡らずに冷蔵庫に仕舞われたまま。
「なまえちゃん。ありがとう」
彼女の心からの感謝の言葉に、私は視線を落としながら悟られないように手を振った。
無知は時に人の心を傷つける。幸せそうに笑う彼女の様子に私の心は傷む。まるで、腐りかけの林檎のように………。
「はあ」
息を吐きかけたその白い息は、宙を漂う。まるで霧のようにもやもやと視界を浮上するのだ。
何がしたいのか、自分がどうしたいのか、私にはまるで自分の行動がわからなかった。理解さえも出来なかった。
旅人はどこへ向かうかはわからない。道が続く限り進むように、私もまた、道を歩くだけ。適わない未来を進むだけ。
「……寒い」
積もった積雪が未だ、道端に積まれている様を見つめる。あの雪は私に似ている。重そうに、でも実際触れたら軽そうな積雪は想いだけはそこに存在し続ける。惨めに、未練たらしく、永遠に……。だらしなく、みっともない。
買い物袋のかすれる音が歩くたびに鳴いた。
「遅かったな、なまえ」
「……なんでここに居るの」
呆れ半分、苛立ち半分で聞くと。邪魔そうにエントランスの扉の前で背を預けていたトーマは私へ近づき手にぶら下げていた袋を取り上げた。自然な動作で。
「何でって、吝かだな。ここは俺の家でもあるのに」
「っ……」
何も言い返せない。眉を寄せて不機嫌そうに私はつかつかと奥へと進んだ。玄関のドアを開けて鍵をサイドテーブルに置いて、靴を脱ぎ捨てる。そんな私のぞんざいな靴をトーマは何も言わずに直してから室内に足を踏み入れる。お邪魔しますではなく、ただいまと言って。この男は………。
バックやコートを置きに自室へと行き、脱ぎ捨ててから再びリビングに戻ると。トーマは買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、ポットに火をかけていた。当たり前のように用意された二つ分のマグカップ。当然のように片方だけに紅茶のパックが入っていた。
テレビの前に腰掛けてくつろぎながらお茶の用意を待っていると、ガラステーブルに置かれたカップの音と共に、見覚えのある赤いラッピングに身を包んだ包みが置かれた。
マグカップに手を伸ばし、スプーンでくるくると回しながらミルクをかき混ぜて、ずるずるとゆっくりと飲む私に。トーマはため息をついた。
「コレ、視界に入ってんでしょ?誰の」
「……ああ、それねぇ。誰だったかな?」
「なまえ」
「……」
「はあ…、これって浮気に入るのかな?それだったら俺って寛大」
「大好きな女の子を大型ケージ用の中に詰め込むような男を世間様は寛大な男だとは言わないんだよ?トーマさん」
「そこだけはヤケに饒舌だね」
「あれを目撃した日には君の人間性を疑ったよ。あははは」
「ちゃんと笑って、怖いから」
視線を合わせずに私はカップを口元で軽く傾ける。チクタクチクタク、時計の針の音が秒針を刻む。
トーマは……別に私が好きなわけじゃない。それは、私も同じ―――。
お互い特別な人が居て、でも交わらない未来だから、そんな未来を共有するみたいに一緒に居るものだと思ってた。
最近のトーマの行動は目に余る。まるで私を彼女扱い。そんなの頼んでないし、望んでない。だから、このチョコだって見つけて欲しくなんてなかった。面倒になること間違いなしだから。
「まあ、誰宛のチョコかは分かるけど」
「じゃあ別にわざわざ出さなくてもいいでしょ。トーマ、最近変だよ?」
「変?どこが?」
「私たちは恋人同士じゃないんだから、ベタベタするのも可笑しい」
「ベタベタって?例えば…こういうコト?」
「っ」
急に腕を掴まれて後ろから抱きしめられる。ふたまわりも体格差があるトーマの体に簡単に包み込まれてしまい私は気が動転する。
「トーマ!!」
「なに?おまえがリクエストしたんでしょ?」
「違う!」
「じゃあ―――」
カップを指から離されテーブルの上にことりと置かれる。その行先を眺めていると顎を指先で持ち上げられトーマの瞳が視界に広がる。
唇に温かなものが辺りすぐに離される。瞬きも忘れて呆然とする私にトーマは、眉を寄せて笑った。
「目、閉じなきゃ駄目でしょ」
「……やめて」
「怒った?」
「私は、カノジョの代わりになんてなれない」
それは勿論、私にだって言えること。トーマはあの人の代わりになんてなれない。したくないし、してはいけない。そんな恋、悲しいだけ。
すると、トーマは私の肩を押して床に押し付けられた身体。馬乗りになるトーマの手によって私の腕は拘束される。
見つめた先にあったトーマの顔には、悲しそうな笑顔が貼り付けられていた。
「俺はなまえのあの人にされてもよかったのに」
「えっ?」
トーマが私の首元に顔を埋めて隠れてしまう。首筋に感じる僅かな火傷のような痛みに襲われて顔をしかめるとトーマは次に顔を上げた時には、いつも通りのポーカーフェイスが浮かばれていた。
「あのチョコ。俺に頂戴?」
トーマの行動についていけない思考回路。前髪で隠した表情で私は静かに押し黙った。それを肯定と解釈したトーマは「 ありがとう 」と言って身体をどかしてテーブルの上に乗った赤いラッピングを大事そうに指先で撫でた。
トーマ……。
私の喉は掠れたように貴方の名前さえも呼ぶことが出来なかった。空気を吸うだけで痛みが走り、私の頬を冷たい旋律が走った。
70%のカカオを君は「 甘い 」と言って食べていた。
(20140226)
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