黒子のバスケ
冷えた頬に、指先が触れた。
いつものポーカーフェイスで様々な人を騙して、誤魔化して、自身さえも偽り、混同させる人。この眼鏡をかけた今吉先輩をわたしは、いつも、不安を抱えていた。
「ほな、桃井。青峰の事頼むわ」
「わかりました!」
「……」
移動教室の最中、たまたま階段の端で見つけた先輩の姿を、盗み見ながら、心臓がドクリ、と奏でた。
今日は、顔色が悪そうだな―――。
「あ、次移動教室?」
「…そうだよ」
「急いで準備してくるから席とっといてくれる?」
「いいよ」
「ありがとう!」
可愛らしい仕草をして、桃井は教室へと駆けだす。廊下を駆けだした彼女を少しだけで見つめてから視線を先輩へ戻した。先輩はゆらりと歩きだして、再びバスケ部の後輩である若松先輩に捕まっていた。とても大きなその若松先輩の声に、眉を少しだけ動かして、しかと対応していた。三年の余裕、大人の余裕?とでも言うのだろうか。
そんな世渡り上手な先輩の何をそんなに、わたしは、心配なのだろうか……。
自分の感情にも疑問詞のままわたしは、背を向けて歩き出した。
「席、ありがとう!」
「うん……顔色悪いけど大丈夫なのかな……」
「ん?誰のこと?」
科学の実験中。試験管を揺らしていると無意識に口に出ていたようだ。隣でフラスコに別の作業をしていた桃井が質問してきた。驚きながらも、素直に答えた。
「今吉先輩のこと」
「え?部長?…うーん。特にいつもと変わりなかったと思うけどな〜」
「……そっか」
ユラユラ、と手元の試験管を揺らしても尚、わたしはあの胡散臭い先輩を頭の中に思い出していた。
「それじゃ、またね!」
「頑張ってね」
「うん!」
元気よく、青峰君を引きずりながら桃井は手を振って教室を出て行った。帰宅準備は既に出来上がっていたけれど、少しばかり頭を支配するあの人を気にしてか、少しだけ遠回りするように、西の階段へ向かった。一段ずつ降りていると、昇って来る人物がいて、避けるために壁際に寄ると、顔を少しだけ上げた時にその人物が誰なのかわかり、わたしは、拳を握りしめて、唾を呑みこんだ。一段一段、降りて行く足がまるで、スローモーションで再生されているかのように、遅く感じる。時間が、とてもゆっくりと刻んでいる気がする。わたしは、少しばかりの汗をかきながら、すれ違う。だけど、次の瞬間、視界の端に映った先輩の身体が傾き、よろける。わたしは、咄嗟に手を伸ばして先輩を支えた。
「っ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、……ああ。すまんな……大したことあらへんから、大丈夫や」
そう言って、自分の身体を再び支え直す今吉先輩に、わたしは彼の背中に触れていた手を強く、強く力を込めて、触れた。
「か、顔色っが……その、よくないです」
「大丈夫やて。君、心配症やな」
「あっあ、さも…具合がすぐれなかったのではないでしょう、か……」
俯きながらつらつらと口だけが動いて行く。もっと、もっと、何か別の事。いや、そうじゃない。この場からどかなきゃ。いくら同じ学校でも初対面なんだ。少なくとも先輩の方は…。
離れようと、思えば想う程わたしの身体は鉛のように重くなる。すると、髪に何か温かなもので撫でられる感触を覚える。ゆっくりと顔をあげると、先輩は細めた瞳を更に細めて優しいその眼差しでわたしにこう言った。
「大丈夫や」
「……」
そう言って、一歩上がろうとした先輩はやっぱり倒れてしまった。それを支えるために腕を伸ばして受け止めた。瞳を閉じている先輩は、もう、眠っているのだろう。そっと、触れた先輩の頬は、触れなくては解らない程、冷たかった。
「…冷たい」
そう呟いてから、わたしは指先を頬から離して、先輩の身体を持ち上げてそのままゆっくりと階段を降りた。降りた先には、保健室があった。

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