マギ

渇望してしまう。ああ、何と浅ましきことなのか……。



「……」



窓辺に映る君の姿を視線はついつい追ってしまう。今日も朗らかな笑みを浮かべながら黒秤塔に向かう彼女に、胸の奥が息を吹き返す。



「何だ、ジャーファル。外に好い人でもいたのか?」
「その無駄口が惜しいのならとっとと手だけ動かしていてください」



いつでも常備している愛用品をちらつかせると私のどうしようもない主人が押し黙る。そして再び机の上の書面と対面しながらも静かにペンだけが紙を滑る音が室内を更に静寂へと導いた。再び視線を窓の外へ移せば、重そうな本を手に危ない足取りで歩く彼女が思考を埋める。危ないですね…前が視えていないのでしょう。彼女の行方が気になってついついシンを放って私は彼女に釘付けになる。



「あ」
「…ん?どうしたジャーファル。まさか、俺、またミスをしたのか?!」



シンのどうでもいい戯言など聞こえずに私は窓に手をあてて額を擦りつけるように外を見つめた。彼女がバランスを崩してこけそうになっている。そこへタイミングよく、彼女を抱きとめたのはマスルールだった。いつもこの不出来な王に振りまわされる同僚だ。ファナリスの彼にとって彼女の体重など石ころ同然に違いない。一応、彼女が怪我をしなかったことに息を吐き出す。



「何でもありません、続けて下さい」
「あ、ああ…」



何事もなかったかのように答えて、シンは腑に落ちない顔つきのままそれでも再び書面と向き合う。視界の端には、マスルールにお礼を言って微笑む彼女がいて、それをどこか優しそうな色合いを放つマスルールがいた。彼女はとても魅力的な女性だ。誰にでも優しくて、世話好きで、笑顔の素敵な女性。私が暗殺者と知っても、彼女は笑顔を浮かべて私に手を差し伸ばしてくれた唯一の女性だった。太陽のような人。そんな彼女に私はとてもじゃないが釣り合わない。血に染まってしまっている自身の手で彼女を触れることなど自分が許さない。譬え、もう、血の匂いがしなくても、この手で何十人もの人間をこの手にかけて生きていた。それは事実で決して変えることのできない過去。それでも、私はそれを背負って生きて行くと決めた。今では良い主を持ち、良い同僚を持ち、そして友人も得た。それだけ充分だ。何も望まない。そうだ、望めない。こんな……汚れた私が、あまつさえ彼女を望む事など決して許される事ではない。それでも……―――。



「っ」
「はあ」



まだまだ小規模な国、シンドリア。だが、一代でここまで作り上げたシンの実力を恐れて暗殺者を送りこんでくるのは多い。今日は、雇われ盗賊といった所だった。あっさりと致命傷を与えて悲鳴をあげることもなく静かに倒れこむ。首を狙ったために血潮を浴びることとなってしまった。生憎、今は宵闇の刻限。闇の中に乗じて何かを為そうとする者にとっては絶好な時間帯と言うべき時。誰もが寝静まり、無防備に成るその瞬間なのだから…。
頬に飛び散った血を拭きとり、息を吐き出すと血の匂いが鼻を駆け抜ける。ああ、あの頃と自分は何ら変わらない。血の匂いを嗅ぎすぎて麻痺している。赤い斑点模様を眺めながら、ますます自分が汚れていることを見せつけられている気分にさせられる。苛立ちと遣る瀬無さが覆いかぶさってきて、何だか無気力になってしまう。早い所死体を処理しなければならないと言うのに…。
ぼんやりと見上げた月明り、遠くの方から彼女の声が聴こえた。



「ジャーファル?」
「っ!なまえ……?」



聞き間違えるはずがない、だが、今だけは聞き間違っていて欲しいと願う。だが、月明りに照らされた人物の影は紛れもなく彼女で戦慄が駆け抜けた。肩から震えが止まらない。動揺する視点が定まらないのと同じように、何か言わなければと思う反面、私はどこかで諦めていた。この状況、現場を見られてしまってはもう、どう取りつくろうとも、遅すぎる。視界から色が褪せていく。



「ジャーファル」



もう一度彼女が私の名を呼ぶ。私は無意識に月の影に隠れるように後退して短く息を吐き出した。



「引き返しなさい。どうか、何も言わずにこのまま立ち去ってください」



極めていつも通りの声色で告げる。拒絶される前に、私は彼女を拒絶した。血の香りが思考を奪って行く。喉が渇く、酷く、掻き毟りたくなるほどに……短い呼吸を繰り返しながら、その場で自身の赤く染まった手を見つめれば、突然彼女の髪が視界を覆い尽くした。そして、冷たくなっていった身体に温かみが宿る。私の背に腕を回して、心拍数が同調する。鼻先をかすめた、彼女の白百合の香りに私は、深呼吸を一度だけした。



「キレイだよ」



彼女の言葉に私の視界に色が戻ってくる。手に染まった血がいつの間にか消えていた。身体に染みついた血の香りが全てを白百合で埋めつくす。一面百合畑にでもいるかのような、立ち込める香りに私は、何故だか酷く、泣きたくなった。
そっと彼女の腰に手を添えると彼女は、もう一度繰り返す。魔法の言葉。



「キレイだよ、ジャーファル」
「薄汚れた血なまぐさいというのに…可笑しなことを言いますね」
「そうかもしれない。幻想を見ているのかも」
「幻想、ですか。でも実際に貴方の目の前に死体はありますし、私の服からは血の香りがしますでしょう?」
「…寂しそうな顔をするから、道に迷った彼の事を照らしてあげる月みたいに視えた」
「……っ、なまえ」
「うん」
「なまえ……ッ」



彼女の存在を確かめるように、抱きしめた。髪に顔を埋めて頬に伝う雫を誤魔化す。ぎゅっと、強く私の背中に手を這わせて彼女は私に微笑んだ。


2013.01.30

ALICE+