マギ


あの人はいつも、誰かが残した残り香をつけてやってくる。だから、いつも思う。ああ、雨が降ればいいのにと…。



「なまえ!」



廊下で呼び止められて振り返ると同時に正面から抱きしめられる。29歳の国王様。もうおじさんとか言われても仕様が無い年齢の国王様。そんな立派な大人の彼は、この10歳も離れている小娘のご機嫌取りをするのだ。思わず滑稽でしょ?



「暑苦しい、前が見えない、邪魔」
「他に言う事はないのか、なまえ。愛しい王さまだぞ」
「誰の?誰が?」
「お前の、俺が」
「……クタバレ糞王」



舌打ち込みで唾さえ吐きかける勢いでそう言うとシンは再びあわあわとし始めた。そんな彼の姿に、私はどこか冷めた見方をする。きっとこれも彼の計画のうちなのだろう。私は所詮、彼の駒にすぎない。使えなくなったらきっとさようならって捨てられるのかな……。まあ、今のところそれはないだろう。ないから、こうやって私に構うのだ。ああ、なんてわかりやすいんだ、この国の王さまは……。



「シン。そろそろ仕事してください」



いつもシンの傍にいる側近ジャーファルが助け船を出すとシンは追い立てられるように仕事へ戻っていく。去り際に耳元で囁かれる。



「 今晩、部屋に行く 」



その言葉一つで、その笑み一つで、私は気が狂いそうになるほど頭が沸騰してしまう。思わず顔を上げて彼を見つめると彼の背中だけしか見れなかった。茫然と立っていると隣にジャーファルさんが並ぶ。



「過度な期待はしないほうがあなたのためですよ」
「存じてます。それでは、失礼します」



淡々と言い放ち、私はこの場から大股で離れて行った。あの人の言葉はいつも私に冷水をかける。だから、クリアになる頭。だけど、その後、凄く虚しくなる。息が吸えない魚みたいに……。溺れてる。



真白なワンピースの寝巻に着替えて、ベットの中に潜る。深夜の刻。私はただ一つの足音を待っていた。ただ、只管。恋焦がれるように……。
すると、足音が聴こえてきてこちらにやってくる音がする。私は心臓が押しつぶされそうな想いを抱えながら、胸の前で祈った。


何を…祈ったのだろう。私は……。


扉の前まで来ると足音は止み、ドアノブが回される。それを見ていられなくなって、私はベットの中に頭さえも覆いかぶさり瞳を閉じた。その扉は空虚にも似た切ない音をたてた。そう、その扉には鍵がかけられていたから……。
扉のノック音が聴こえて来る。だけど私は肩を揺らしながら息を止めるために口元を手で覆う。



「 なまえ 」
「 なまえ。俺だ 」



ドンドン、ドンドン、とリズミカルになる扉のノック音。だけど、私はその扉を開けようとは思わなかった。いや、身体動かなかった。それは、さようならを告げるお別れの言葉だったんだ。瞳の淵に涙が溜まり、視界がぼやける。声を出して泣きだしたい口元を必死に覆って、私は涙を流し続けた。大粒の涙を。
暫くして、音は止み。代わりに彼の額がドアにぶつかる音がする。



「 これが、君の答えなのか 」



肯定も否定もしないけれど、答えないことは肯定だった。私は静かに膝を抱えて自分を抱きしめる。早く、帰って。そして―――。


強く、祈った。ああ、多分。これを祈っていたんだ……。


彼がドアから離れる気配がする。去る足音がする。引きとめる自分を強く強く抱きしめる。これでいい。これでいいんだ。傷つく毎日を過ごすくらいなら、止めよう。そんな恋なんて、幸せじゃない。私の心はもう、ボロボロだ。
いつの間にか窓の鍵を壊して入って来たジュダルが壁に寄り掛かって腕を組む。そして、いつもの彼らしからない口数の少ない言葉が降って来た。



「こいよ」



不思議に思って顔をあげると柄にもなく、彼は私に片手を差し伸ばして黙って見つめて来た。何も言わない彼の口は静かに鎮座している。涙で泣き腫らした私はその見られたものじゃない顔のまま導かれるように彼の手に手を伸ばす。躊躇しながらも伸ばす私に彼は、少々イラついたように自分から一歩近づいて来て私はその反動で彼の手に手を重ねた。すると、身体から力が抜けたように崩れ落ちるとジュダルが受け止めてくれた。強く抱きすくめられる。



「お前はもう俺の物だ」



それだけ言うと、骨が悲鳴をあげるまで強く強く抱きしめられる。彼の肩に落ちる雫はきっと行き場をなくしたお魚さんだね。

2013.01.26

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