黒子のバスケ
このまま、眠ってしまいたい。
ピアノの綺麗な音色が聴こえる。
黄昏が暁に変わる、この放課後に。わたしの静かな足音だけが響いていた廊下に、切ないメロディーが聴こえてきた。そう言えば、とふと思う。足を止めるこの時間。いつも誰が何の目的で引いているのだろうか…。その真意を確かめようとしなかったわたしは、きっとどこかで幻想を抱いていたのかもしれない。もし、自分の空想と相反する事だったら、哀しいと感じてしまうから……。だけど、今日は、自らのその理想を崩すためにわたしは、黍しを引き返した。
ずっと音が聴こえて来ていた…この、音楽室へ――。
少しだけの緊張と張りつめた想いを胸に、静かに戸を開ける。音の遮りをしない程度にゆっくりと慎重に開けると、そこには、眩しい緋色が視界に飛び込んで来た。瞳を細めながら一歩中へ踏み入ると、わたしは次第に眼を大きく開いた。ずっと、思い描いていた理想図と……変わらない程の幻想が、そこには広がっていたから……。
美しい音色と、彫刻のように綺麗な男性。透き通るようなその指通りと奏でる強さと儚さに、わたしは呆然とする。ああ、ここは、まるで、神聖な場所のようだ。
「おい」
音が止むと、遮るような声が聴こえた。瞳を瞑って楽しんでいたわたしは邪魔をされた気分になり、少しばかり落ち込んだ。
「続き、は?」
「何だ?オマエはこの先が聞きたいのか?」
コクリ、と一度だけ頷いた。やけに上から目線と物言いに釈然としない気持ちはあったが…それすら気にならない程。彼の音色の続きが気になった。フ、と穏やかに笑った彼が眼鏡を直す。
「コチラまで来るのだよ。どうせなら、傍で聞け」
彼の誘いの言葉に、わたしは嬉しくて頷いた。一歩踏み出した足は、信じられないくらい、軽やかだった。
いつの間にか、わたしはこの音の虜になっていた。

「なまえ」
揺すられる心地よさと鬱陶しさに眉を幾分か寄せながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。何だか頭が重いと感じると、緑間くんの顔が至近距離にあったので、取りあえず驚いた。
「っ……緑間くん、近い」
「それはオマエが悪いのだよ」
現状を教えるかのように、彼が肩を動かすとわたしの頭が揺れた。ああ、そうか。わたしは覚醒していく思考の中で、気がついた。どうやら眠ってしまって、緑間くんの肩に寄り掛かってしまったのだと。
ゆっくりと退きながら「 ごめん 」と言うと「 演奏中に寝るな 」と怒られる。鋭い視線を真っ向から受けながら、少しだけ沈む気持ちだけど、それよりも心は満たされていた。
「疲れているの、か」
「え」
片付け始めていた楽譜をそのままにして、緑間くんはそう言ってわたしの髪に指先でちょんと触れてからすぐさま指を引っ込めた。その所作に驚いて眼が点になる。
「あ、あの、なんで?」
「…オマエが、眠るからだ」
自分の額を指先で押さえて、溜息を溢す。そして、こちらに視線を投げ、再び指先を伸ばしてわたしの頬にかかる髪の束を今度こそは、触れた。指先に絡ませて、そしてパラパラと梳かす。穏やかな笑みを浮かべて――。
「調子が狂ってしまうのだよ」
「……ッ」
心臓が打楽器を探している。押し寄せて来る波にわたしは、どうすればいいのかわからずに流されてしまいそうになりながらも、そのさざなみに漂う。
今が、黄昏でよかった―――。
そうでなければ、わたしは、この想いを肯定しなければならない。

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