君と僕。


「なまえ…あの〜」
「……」



わたしの背後でワタワタと慌てている大人に、内心溜息を溢した。もっと、ガツガツ言えばいいのに……。でも、こんな小娘に本気で慌てて、悩んで考えてくれる。そんな大人なのに、あまり頼りなく見えるこうちゃんも好きなんだよね……。しみじみ思いながら、それでもわたしは、無視をやめられない。これは、こうちゃんが悪い。



「ごめんって、なまえ。大人の付き合いとかあるし、それで、あれで…」
「…じゃあ、大人の付き合いって言えば女の人に抱きついてもいいんだ。へぇー、大人の言い訳って案外便利なんだね。それじゃ、浮気してもいいわけだ」
「ご……ごめん」
「……謝るだけなら、出てって」
「だけど?!」



ドン、とわたしが床を思い切り叩いたことにより、こうちゃんは驚いて口を閉じた。優しそうな瞳、綺麗な顔だちが振り返るとそこにあって。こんな時でさえ、カッコイイと見惚れてしまうわたしは、相当、莫迦の一つ覚えみたいだ。だけど、無性に、哀しくなって、虚しくなって、涙が零れてしまう。



「わたしが、何に怒ってるかもしらないくせに……!謝らないで!!」



そう叫ぶとこうちゃんは、暫く呆然として。それから、静かに背を向けて扉を閉めた。その音を確認してから、わたしは手放しに泣きだした。
大人の付き合いはわかる。それは仕方のないことだし。それについて、憤りは感じない。こうちゃんは、わたしより12歳も年上なんだから…でも、でも―――。酔ってしまったとしても、どうして、他の女の人に抱きついてしまうの?やっぱり、わたしは子供だからなんだろうか。子供だから、どこか遠慮されてしまうのかな?そう考えると、涙が溢れて止まらない。この壁があまりにも高すぎて、厚すぎて……心が折れてしまいそうになる。

嗚咽が鳴り響く。頭がガンガン痛い。眼も痛いけど、やっぱり……心の方が何倍も痛いよ―――。



暫くして、わたしは泣きつかれて眠ってしまったらしい。ぼんやりとするまどろみの中で電気が光室内に眩しいと感じた。むくりと起きると、呆れる。泣きつかれて眠ってしまったとか、子供じゃないか。まるっきり。ぼっとしていると、台所からこうちゃんが顔を出してわたしの目の前にロシアンティーが差し出される。香ってくる紅茶の茶葉の香りと甘いジャムの香りに誘われるように、手を伸ばして受け取る。すると、こうちゃんは嬉しそうな顔をして、隣に腰を下ろした。ちらりと見れば、こうちゃんはブラックコーヒーを傾けていた。



「……大人差別だ」
「え?」



ふい、と顔を背けてそれっきり口を閉ざした。そんなわたしにこうちゃんは息を吐き出した。



「今日ね、前からなまえが見たいって言ってたDVDが借りれたから一緒に観ない?」
「……3カ月前のね」
「うっ」



リモコンを操作して本編が始まる。美しくも儚い男女の恋物語。その鮮明な映像が流れる室内は、静寂に包まれていた。こうちゃんの横顔を盗み見ると、釘付けだった。わたしは密かに溜息を吐いた。その映画は一緒に見に行こうと約束していたのに、こうちゃんの仕事の関係で破綻したデート。わたしは一人でその映画を映画館で観ていたのだから、内容も知っている。今更って……想ったけど。でも、知らずのうちに頬が高揚する。



「……なんで、覚えてるのよ」



呟いた一言に、こうちゃんが何気なく答えた。



「それは、なまえが好きだって言ってたからだよ」
「っ……」
「なまえの好きな物は、忘れたくないから」



ああ、こうちゃんはズルイ。すごく、すごく、ずるいよ。涙が再び縁にたまって視界がぼやける。そんなわたしの涙を今度は優しいその手に救われる。



「なまえは、いつも我慢してくれるから。嫌な顔せずに、笑って見送ってくれるから…そんななまえの優しさに、胡坐をかいていたんだ。だから……本当にごめんね」
「……こうちゃん」
「ん?」



そっと涙を拭ってくれるその手に手を重ねて、わたしは怒りを鎮圧させた。そして、やっぱり、泣き顔よりも笑顔を見せたいと思った。



「おかわり」



そう言えば、こうちゃんは首を傾げてわたしが指を差すカップに気がついてから、笑った。



「やっぱりなまえは、いちごジャムが好きなんだね」
「違うよ……ラズベリーが好きなんだよ」



立ち上がるこうちゃんの手がわたしの髪を撫でる。そして、頭皮にキスを贈られる。それから再び台所へ行ってしまった。



「ウソ、本当は……こうちゃんが作ってくれるから」



そう呟いて秘かに笑った。これだけは、内緒にしておこう。きっと、こうちゃんは瞳をまん丸にして、わたしをジャムに浸してしまうから……。


2012.11.20

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