黒子のバスケ
あんなことするつもりなんて、なかったんだけど……。
「……」
まだ暑い残暑の日差しに、溶けてしまいたい気持ちになった。アイスのように溶けてしまえたら、どんなにいいか。それにしても、練習とかダルい。疲れたー、もう、いやだー。
文句を並べながら、喉に呑みこむ。そうしなければ、室ちんの報復が怖い。水浴びでもしようと外の水道へ向かえば、そこには、マネージャーの末端とかがするような、所謂、雑用。誰もやりたがらない水洗いを一人で、部員分全部洗っていた。額からは汗が薄らどころではない。蛇口から流れる水みたいに、その子からも同じ分だけ流れてた。
確か……。
地味な子だった。決して、目立つような子ではない。マネージャーと言っても、室ちんに群がる子の方が多いから、ちゃんと仕事してる人少ないんだよね。その少数派の一人だろう。そんな、影が薄い地味子のことをオレが覚えているかは、単に室ちんと喋っているところを最近目撃したからだ。最近の記憶はだいたい覚えてる。
隣まで来ると、オレの腰辺りしかない身長の彼女をオレの影が覆った。突然の暗がりに、彼女は首をこちらへ傾けた。一瞬、首を傾げて、次は頭を上へ上げる。すると、視線はオレと重なった。
「……、えっと、あの……」
「んーっと、確か……みょうじさん?だっけ?」
「はい、そうですけど……えっと……?」
「……紫原敦」
「ご、ごめんなさい」
申し訳なさそうに頭を下げて、気まずそうに視線を落として蛇口を締めて、ボトルの水を切って、乾燥させるために日干ししていた。
いそいそと動く彼女を見降ろしながら、少しだけ、興味を覚えた。だって、オレの名前知らないとか、ウケる。バスケ部のマネージャーの癖に、レギュラーの名前ぐらい覚えてよね。そう言いたげな視線を送り続けると、肩をビクリとさせて恐る恐ると言った感じで振り返り、再び謝罪。
「すみません。その、わたしは、マネージャーの分在なので……というか、レギュラーより平部員専門なので…その…すみません、ごめんなさい」
「ふーん、そうなんだ?マネージャにも階級ってあったんだね?」
「自然の法則、ですかね?そうやって区切らないと部内が成り立たないので……」
「オトナだね」
「いえいえ。同い年ですよ?」
どこから取り出したのか、たらいを流しに置き蛇口を捻った。そこには、てんこ盛りの洗濯物があって、傍には、洗濯板とせっけんが常備されていた。
まだ、仕事するんだ……。
なんとなく、そう思ったら読み取ったのか、苦笑していた。
「洗濯機が壊れてしまって…」
「誰かに頼めばいいじゃん」
「うーん、そう出来ればいいんですけどね……」
ああ。そういえば、今、試合形式だっけ?やってるんだった。オレは抜け出してきたんだけど。
納得すれば話は早かった。暫く、ぼんやりと彼女の仕事ぶりを見つめていた。洗濯板にゴシゴシと擦りつけて泡立てる。その小さな手で何十枚もあるタオルを洗っていくさまを。
汗が流れていく。彼女の額から大粒の汗が…それは、コート上で運動をするオレと同じくらい……。なんとなく、彼女の仕事を尊敬した。世話して、雑用して、嫌な事嫌なんて言わないでやってるなんて……オレだったら無理。
「紫原くんは、何しにきたんですか?」
「あーうんと、水遊び?」
突然、声をかけられて吃驚した。曖昧に答えたその返答に、彼女は真面目な顔をして濡れないように用意しておいたタオルをオレに差し出した。
「これ、使って下さい」
「あー、うん、ありがとう」
蛇口を捻って勢いよく頭からその水に流しこむ。なんだろう、なんか、くすぐったい。
邪念を振り払うように、無理矢理水を浴びまくって、そのタオルに顔から突っ込めば、柔軟剤の香りがした。さっきから香っていた、彼女の香りだった。
「行かなくていいんですか?」
「…んー、いいや。オレの出番終わったし?」
そう言って、はぐらかして、彼女の隣に居続けることにした。なんだろう、うんと、そうだな。これは……――。
穏やかな風が吹き抜ける。心の中に広がる確かな感情に、頬を緩ませた。そんな時、室ちんの声が聴こえた。
「敦?」
「っ!」
「……、室ちん」
室ちんに返事をしようとしたら、隣の彼女は肩を揺らした。キョトンとして彼女の表情を窺うと、頬が赤くなっていた。
ああ、……そっか。この子も、そうなんだ。
無料奉仕する奴なんていないんだ。彼女が頑張って仕事している意図を知って、ガッカリした。室ちんが傍まで来ると、オレの影に隠れていた彼女に気が付き、室ちんの態度が変わる。そりゃ、もう。ガラリと。
「なまえさん?」
「あ、えっと……お疲れさまです」
俯きながらも期待の眼をした視線を上げて室ちんの表情を窺う彼女に、室ちんは微笑んだ。
「ここに居たんだね。また、洗い物かな?」
「いえ、それは終わりました。今は洗濯物を洗っている最中です」
泡立てている板にこれでもかってくらい力入れて洗い物していた。そんな彼女の挙動不審な態度を見れば一目瞭然。だけど、室ちんは、知ったかをする。
「そうなんだ、ありがとう。洗い終わった奴干すの手伝うよ」
「あ、いえっ!だ、大丈夫ですっ!!もう、干すだけですし、後はドリンク作ればいいだけですから……」
まだ仕事あったんだ。
げんなりする、オレなど眼中にないのか、室ちんも彼女も二人の世界だった。
「手伝うよ。なまえさんは少し休憩しててよ」
そう言って、室ちんは洗い終えた洗濯ものを持って干しに行ってしまった。そんな室ちんの背中を愛おしそうに眺めているみょうじさん。
「…室ちんの事、好きなの?」
そう言うと、大げさに両手を振って意味もなく慌てる彼女の顔を見れば分かった。真っ赤にして、タコみたいに間抜けな表情で、ほんとっ、カワイイと思っちゃった。
「……」
「そーなんだ、……ねぇ」
「?」
コクリ、と頷いた彼女にオレは衝動のように彼女に呼びかけたら、彼女の無防備な唇に触れていた。重なっただけの幼い口付けに彼女の焦点は、定まらない。そっと離れると放心状態の彼女をただ、見つめた。
「な、なんで……」
「……したかった、から?」
「……ッ!!」
次の瞬間、頬を叩かれていた。乾いた音が響き渡る。かなりの身長差があったにも関わらず彼女の手はオレの頬に届いた。赤く腫れ出した頬。彼女に視線を合わせると、泣いていた。案の定、なのかな……。なんとなく、想定していたからあまり驚きはしなかったけど、でも……泣き顔がカワイイのは、誤算だったかも。
「サイテイ!」
そう言って、彼女は走り去った。ボトルもドリンクもたらいも放棄して……。
仕事どうするのかな?そう思いながら、淡々と彼女のくれたタオルを鼻に押し当てて想いを募らせた。

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