黒子のバスケ


時々、弱気になるほどわたしは……わたしの地盤は、緩かった。脆くて、すぐにでも崩れてしまいそうな程、グラついていた。



「きゃあー黄瀬君っ!!」
「こっち向いてー!!」



女子生徒たちの歓声やら悲鳴やら、笠松先輩がいくら怒鳴っても消えやしない集団から、わたしは身を顰めながら体育館内を壇上のカーテンの隙間から覗いた。部活の最中は、彼が終わるまで、ここに匿われていた。夏だというのに、わたしだけはカーデガンを着ていた。腕に色濃く残ってしまった赤紫色の腫れを隠そうとした結果。彼に問い詰められて、見られてしまった。そしたら、ここに入れられた。自分の部活が終わるまで待ってて。きっと、自分の眼の届く所に置いて、わたしを護ろうとしてくれている事が態度からも気持ちからも伝わって、凄く嬉しいけど……面倒だと思われたらどうしよう。傷つけて同情を買っているように思われてしまったら、どうしよう。不安が次々と襲って来て、わたしは頭を抱えてその場で蹲って、終わりを待っていた。



「(あまり眠れなかったな……)」



ぼんやりとしながら古びた倉庫に連れて来られて、バケツに張った水を掛けられる。それでも眼は覚めなかった。昨日も送ってくれた黄瀬くん。わたしに気を遣う彼のあの表情を見るたびに不安は拭いきれなくなる。もうすぐ、捨てられるのかな?それは、心の底で嫌だなって我儘を言うわたしが居た。でも、わたしなんかを好きになってくれたって今までが全部夢だったのかもしれない。そうだ、夢だ。幸せな夢だ……。



「バカだな…」
「はあ?何言ってんだよ、こいつ」
「なまえちゃんは昔から変な子だから気にしないで」



綺麗な笑顔で、かつての友人が指示を出す。その度に、わたしの身体には痕が残って行く。消えるか消えないか、それすらもギリギリな深い痕。ぼんやりと彼女を見つめた。
綺麗な女の子。誰にでも慕われて、誰もが羨む、学校中の人気者な彼女。そんな彼女が同じく、モデルやバスケで有名な黄瀬くんを好きになるのに、時間も問題も生じなかった。自分に釣り合うのは彼しかいないと言って、わたしに協力を仰いできた彼女に、わたしも協力した。でも、その結果。黄瀬くんは有り得ない選択をしたんだ。



「 黄瀬くん、あたしと付き合ってください 」
「 ごめんっス。俺、君とは付き合えない。俺は……みょうじさんが好きなんス」
「 え…… 」



驚いた。本当に、わたしは一度も彼に好意を持ったことがないというのに、そんな相手を選ぶなんて……そう思ったけど、黄瀬くんはわたしに言った。



「 違うよ。俺は君のそんな、俺に関しない所が好きなんス。君は絶対、俺の肩書きなんて興味ないでしょ? 」



だけど、彼の言葉はその場凌ぎの一時だけだと思ってたから…まさか、本当に付き合うなんて思ってなかった。だけど、彼女はそれを許さなかった。



「あたしより可愛くもないあんたにこのあたしが負けたとか、本当、許せない」



そう言って、彼女はわたしの襟首を引き寄せて友人にわたしの腕を押さえこませる。そして、折りたたみ式簡易ナイフを取り出し頬にピタリとくっつける。
いきなり現実に引き戻された感覚を感じて、わたしは狂気にまみれた彼女の瞳を覗きこむ。綺麗な顔がだんだん歪んできている様な気がして、わたしは、全てに対して瞳を閉じたくなった。
首を切られるのかな、それとも頬を切りつけられるのかな、眼を抉られるのかな……。
友達でいたかった、ずっと。彼女は自分主義な性格だけど、でも、優しい所だってある。自分を出せないわたしのために、彼女がしてくれたことが沢山あった。
もう、元に戻れない悲しみと、これから来るであろう痛みに恐怖しながら、涙が出て来る。



「あんたと友達なんかならなきゃよかった」
「……」



そう言って、振り上げたナイフがわたしの首筋目掛けて降りて来た瞬間。何かに食いこむ音が聴こえた。それが自分の首筋ではないことがわかったのは、視界があったからだ。色とりどりに映るこの世界の情景が見える。そして、わたしを包む大きな腕がわたしを片手で抱きしめて温かみをくれた。視線を上げる前から何故か彼だとわかったのは、あの眩しい程の黄色い髪の所為だった。



「き、っせ、くん……!!」



彼のもう片方の手に視線を投げた瞬間、その手はナイフを掴み血が重力に従って地面に流れて行く光景が目に焼きつく。傷つけたくない人を傷つけてしまった。恐怖に色づいたわたしの蒼白な顔に、黄瀬くんは、頬笑みをわたしに見せてくれる。



「これは、なまえっちの所為じゃないよ?だから、心配しないで、思ったより、痛くないんス」
「あ、ああ。でも……っ、血が……」



血の香りが息を吸う度に香って来る。それがわたしをますます恐怖追い立てた。そんなわたしの肩を抱く力を強めて、黄瀬くんはわたしにナイフをつきつけた彼女へ鋭い視線を投げた。



「本当、アンタってつくづく不細工っスね」
「なっ……!!こんな女より、あたしが劣ってるって、あんたの眼の方が可笑しいんじゃないの?!」



そう言った瞬間。黄瀬くんは見た事もないような怒りの表情を見せて、ナイフを更に握りしめて彼女の腕から剥がし、そのナイフを彼女の首元に付きつけた。



「二度となまえに近づくな…次近づいたら、どうなるかわかってるよな?」
「……ッ、ヒィ!」



少しだけ力を入れて、彼女の首に傷をつけた黄瀬くんは、脅えて逃げ去る彼女とその取り巻き達を見送ってから、地面に尻持ちをついた。驚いて、わたしは真白な自分の手で黄瀬くんの血だらけの手に触れた。



「黄瀬くんッ!!」
「うぅ〜痛いっス……マジで、痛すぎて声が出ないスよ」
「ナイフを握るからだよ!馬鹿!大会近いのに利き手を傷つけてどうするの!!わたしなんて大丈夫だったのに、あんなのいつものことだから……っ!?」



言葉を遮るように、黄瀬くんはわたしを力強く抱きしめて来た。そして、震えるようなくぐもった声がわたしの耳を刺激した。



「いつもって何んスか?まさか、昨日のあれもアイツの所為なの?ねぇ、大丈夫って?何が大丈夫なの?…なまえはさ…どうしていつもそうなんスか?」
「どうしてって…」
「何で、自分を卑下するのさ。何で自分は傷ついていいなんて言えんだよ。……頼むから、自分を蔑ろにするなよ……!俺を、頼ってよ」
「……黄瀬くん」
「なまえがあの子の事大切にしていた気持ちくらい知ってるんスよ。だけど、いくらなまえがあの子の事大切にしていたとしても、傷つけるようなら俺は迷わず君を護る。何が何でも。君が大切にしている物でさえも、厭わない。……なまえ。もし辛いなら、俺と半分っこしよう」
「半分っこ?」
「そう、半分っこ。辛い気持も哀しい気持ちも、俺も背負うから…。君の痛みを俺にもわけてよ。そうして、俺の傍に居てくださいっス……」



傷口からポタリと落ちた血液は、わたしの制服に付着して、離れない。殴られた痛みも、心を抉られた痛みも、嘘のように消え去って、まっさらに成って、わたしは……。



「……はいっ……」



そう、呟いた。彼の背中に余所余所しく回した手を、黄瀬くんは嬉しさを表現するかのように、わたしの耳に唇を近づけて囁いた。



「ありがとう……」



短く吐きだした息に、わたしは涙が留まらなくて。安心したみたいに、泣きじゃくった。そんなわたしに合わせて、黄瀬くんも瞳の端に雫を溜めてわたしの髪に頬を張り付けていたね。
実感したんだ。あなたが傍にいることを…わたしみたいな存在が傍にいてもいいってことを。あなたがわたしを好きな事を―――。だから、わたしも、あなたに伝えたい。「 ありがとう 」の言葉を……。

もし、願うが叶うのならひとつだけ、我儘を言いたい。彼女とも仲直りが出来るといいな……。



(真面目な黄瀬を書いてみた。)

2012.09.13

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