黒子のバスケ
あなたに、捧げたい言葉を……。
土曜日。午前中だけ全体練習があり、それが終わるとそれ以降の部活は返上として休みとなった。先週の練習試合で、圧勝という大挙を成し遂げた褒美として、だ、そうだ。
暑い大気中の空気で、既に額から汗が滴り落ちて、ハンドタオルでそれをせき止める。外でこうなのだ。室内で運動している彼はどれ程の暑さの中で行っているのだろう。考えただけで、足先を速めた。密閉というのも可哀想なので、普段しまっているドアが全て開閉されており、そこから覗くように中の様子を窺う。すると、タイミングがいいのか終わりを迎えていた。休憩してから各自自由解散のようで、一歩体育館の中へ踏み出すと同時にドアのすぐそばの壁にお目当ての彼が居た。
「なまえさん」
「――っ」
静かに自分の名前を呼ばれて隣へ視線を移せば、彼がわたしをきょとんとした顔で見つめていた。意外と近くにいて、驚いた、という感情が先にあって、肩が跳ねあがり、心拍数が一気に上昇した。飛び跳ねるように数歩後退したのち、あまりにも彼らしい登場の仕方に溜息を溢した。それと同時に心臓を落ちつけさせた。一呼吸してから、再び距離を戻してから、鞄の中に入っている彼専用のタオルを無言で差し出した。それを、彼は素直に受け取り、汗を拭う。
「ありがとうございます」
顔に覆いかぶすように、汗を拭う彼の様子を眺めながら、やっぱり中は大変だなっと感じた。再び鞄の中に手を入れて、中から彼専用のボトルを取り出して蓋を開けていると、そのタオルから顔を上げた、彼がそれを首にかける。
「いつも、ふんわりと温かな花と太陽の香りがしますね。…なまえさんと同じ香りがして、好きなんです。どんな柔軟剤を使っているんですか?教えてください……なまえさん?」
「……ッ!わ、わたしの香りがするなんて当たり前じゃない!!うちで、洗濯、してるんだから……っ」
「そうですね」
「…そう、よ……」
いつも、ストレートに想いを伝えられる。黒子の言葉に、心臓を奏でさせて、わたしは身体全身で嬉しさを表現したくなる。でも、恥ずかしくて余所を向いてやりすごす。わたしにとって、難しい、相手へ伝える言葉選びとか、想いとか、感情とか、黒子は惜しみなくわたしに伝えるけど…わたしは、本当に伝えられていないと、思う。情けないことに、彼に告白されたときから、今までずっと……。
それは、どうなのだろうか。彼は、不満ではないのだろうか。「 わたしもよ 」と素直に言われてみたいのではないだろうか。でも、わたしの口は重くて、鉛のように動かない。空くけど、次の言葉が出て来ない。本当に、情けない。こんなんで、黒子のカノジョを続けてもよいのだろうか……?
眉を少し寄せながら、無言で彼にボトルを手渡した。
空白の距離感。手を伸ばせば繋げるのに、わたしはその距離を縮めようと動かない。彼は彼の動ける範囲最大まで動いてくれていると言うのに…わたしは、何をやっているのだろう。
その距離が縮まらないことに、腹を立てないのだろうか?哀しくはならないのだろうか?寂しくはならないのだろうか?不安にはならないのだろうか?心が、離れていかないのだろうか?
鼻先が少しだけツン、としてくると。視界がじわじわと水分で溢れていく。握りしめた拳に力をこめて、堪えていると。教会の鐘の音が聴こえて来た。その音に、彼が立ち止まり、わたしも自然と立ち止まった。きっと、誰か結婚式を行っているのだろう。少しだけ視線を上げた先に、幸せそうな新郎と新婦がいた。真白なウェディングドレスに身を包み、笑顔を浮かべながら、新郎の頬へキスを贈り、お姫様抱っこをされる新婦。
惜しみない程の、喝采と祝福の言葉とライスフラワーが宙を彩る。いよいよ、ブーケトスが始まる。その時点でわたしはその幸せそうな二人から視線を逸らした。
それは、見ているとますます、自分が情けなくなっていくからだ。
恥ずかしいからと行動に出来ずに終わってしまい、何度別れを切りだされたか。決まり台詞は「 お前は俺の事好きじゃないんだろう? 」違うと言いたかった。だけど、言えなかったことに、涙を呑んで別れることを繰り返しているというのに、今度もそんな別れで終わるのだろうと思うと、泣いてはいけない分在だというのに、何故だか涙が出そうになってしまうよ。
人の幸せを羨むなら、行動すればいいだけなんだ。その一歩が出来ずに、わたしはこんなところで足を竦ませた。
「―なまえさん」
名前を呼ばれて涙を呑んでゆっくりと顔を上げるとそこには、いつの間にか真正面に立った黒子がいて、驚いたが、もっと驚いたのが、彼の手中に先程まで新婦がもっていたブーケが収まっていたのだ。ここまで飛んできたのだろうか、ぼんやりとそう思いながら、彼の続きを待つ。
すると、そのブーケを持ちかえてわたしに差し出すように掲げた。
「僕は、なまえさんの好きを沢山受け取ってますよ」
「……えっ。い、つ…?」
「毎日です」
「で、でも。わたしっ、言ってなっ」
「…確かに言葉で伝えられたことなどなかったかもしれません。けど、なまえさんはいつも、僕にタオルを渡してくれます。ボトルもくれます。お弁当も頂いてます。僕が授業中眠ってしまっても、ノートを差し出してくれます。テスト勉強も教えてくれます。…気がついていますか?」
「……」
黒子は、わたしの淵に薄らと溜まった雫を見て、眉を寄せて苦笑した。
「あなたは、いつだって僕にたくさんの愛情を惜しみなく与えてくれているんです。僕に、尽くしてくれます。それを苦だとは、一度も口にせず、いつも傍に、僕の一番傍に静かに寄りそってくれているんです、よ?それが、どれだけ嬉しいか、わかりますか?」
「…っ、わたしっ。あなたに、かえせてるのっ……?」
潤んだ視界から、彼のぼやけた輪郭が見える。震える喉元に、彼は穏やかに微笑み。そっとブーケをわたしの手に持たせながら、その手を包み込まれる。
「はい」
その答えに、わたしは涙を流して嗚咽を漏らしながら泣いた。そんなわたしにブーケを投げた新婦や新郎、祝福をしていた人達が、拍手をくれたのだ。
その喝采の中で、わたしはブーケを持ちながら、黒子の指先に慰められていた。
涙はふいても、流れ、まるで、わたしの幸せを露わしているかのよう、だった。
ブーケを受け取ったのが黒子なのが、誤算だったようだが、その代わり、新婦からベールも受け取ってしまい、泣き顔がますます恥ずかしくてブーケで顔を隠した。そんなわたしに、微笑む幸せな夫婦に、黒子も少しだけ頬を染めた。
先程まで空いていた空間が嘘のように、お互い手を繋いでの帰り道。
「そうしていると、まるで新婦さんみたいですね」
「ッ!さっきから、人が気にしていることをっ……」
片手に持っているブーケで口元を隠す。そんな仕草に黒子は「 かわいい 」と囁く。ますます顔を隠しながら歩いていると、黒子がなんでもないように呟いた。
「この先の未来がどうなっているか、わかりませんけど。僕は、僕の理想は、あなたをあの教会へ連れていくことです」
「、それって…」
ふと、立ち止まってしまうと。黒子が男性の顔をして振り返り、見つめられてしまう。その表情に、心臓が破裂しそうだった。
そっと、伸ばされた手がわたしのベールと髪を耳へとかけながら、頬に触れる。
「その時、僕をなまえの新郎として、認めてくださいますか?」
「……はい」
それは、まるで、神父さまの誓いの言葉のようで。瞳を瞑れば、誓いの契が交わされた。
(なまえさん、帰りましょうか?)
(……なまえ、よびすてが、いいかなっ)
(……なまえ、好きです)

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