黒子のバスケ

距離はいつだって遠かった。君との距離感覚がわからない。どのぐらい離れていて、どのぐらい近いのか、わたしにはよく、わからなかったよ。


屋上の片隅で、夕涼みをしながら息を吹きかけたそれは空へ飛んでいく。
危ういようで頑丈な泡は、空へと昇って行く。その様をぼんやり、当て度も無く眺めながら無造作に製造して行く手を休めたのは、背後からやってきた彼の所為だった。



「こんなところに居たんですね、なまえさん」
「……黒子」
「もう、帰りますよ?」
「もうそんな時間か」



腕時計を確認すると時刻盤は半分に割れていた。調度中身が空になったそれをいいことに傍にくたびれている鞄を取ろうと腰を折る。



「シャボン玉、飛ばしてたんですね」
「……間違えて買っちゃったから。あ。黒子」



胸を焦がしながら、平然を装ってポケットに入っていた携帯を黒子へ差し出した。
「 撮って 」と言えば呆れたのかわからない息を吐きだして、黒子はわたしから携帯を受け取りカメラを起動させた。
手すりに寄り掛かり、カメラに向かってピースサインを作る。それを撮り、保存すると黒子はわたしに携帯を返した。それを受け取り「 あんがとー 」とだけ伝えるとカチカチと簡単に操作したのち、送信完了画面になった携帯を閉じてポケットの中に突っ込んだ。



「まだ、続いていたんですね。……彼と」
「、駄目だった?」
「構いません。あなたがボクを選んだ以上、何も望みません」



そう言って、黒子はわたしに向かって不敵に微笑み。手の甲を取られればその甲に忠誠の口づけを施される。わたしは、思う。これは一種の呪いなんじゃないか、と……。
そう仕向けたのも、施したのも、彼だけど。責められないのは、最終決定をしたのは自分自身だから…。

手は拘束の様に絡め取られ引っ張られる。わたしの鞄を彼は持ち、屋上から背を向けた。



「……」
「どうした、敦?買わないのか、まいう棒?」



帰り際に寄ったコンビニ店内で、携帯のバイブ音に気がつき確認した途端。動かなくなった紫原に、氷室は不思議に思い、声をかけるとその携帯画面を閉じた。



「室ちん、さぁ。いくらある?オレ、1万くらいしか入ってないや」
「なんだ、突然。1万も入っていれば大抵の物は買えると思うが…」



一応、財布の中身を確認する氷室の真上から覗くように紫原も確認する。



「札束いっぱいだねー」
「他人の財布事情を見るなよ、敦」
「秋田(ここ)から東京ってどのくらいかかる?」
「夜行バスとか使えば格安で行けると思うけど…って敦?!どこ行くんだっ」
「ごめーん、室ちん。明日部活休むのつたえといてー」



紫原はそれだけ告げると買い物籠をその場に落として、いつも面倒くさそうに歩く姿からは想像も出来ないくらい俊敏な動きでコンビニのドアから走って行ってしまった。
その突風の様に忙しなく居なくなってしまった紫原に、取り残された氷室はくすくすと笑った。



「あんなにも必死になれるもの、あるんじゃないか」



紫原の携帯から少しだけ見えた添付画像は、こちらにピースサインで微笑む一人の少女が夕日は背に漂うシャボン玉がまるで幻想的な雰囲気を醸し出していた。芸術のようなそんな写真だった。あの、焦ったような表情を思い出すだけで氷室は一人笑いを堪えていた。
あの後、黒子は礼儀正しくわたしを家まで送り届けてくれた。ついでに仕事帰りの母親にも遭遇してしっかりと役目を果たしたのだ。
部屋の窓を全開にして、お風呂上がりで上気した熱を逃がす様に夜風に吹かれていた。



「あんまり夜風にあたると風邪ひくわよ」
「はいはい」



ドアの隙間からお母さんが一気にドアを開閉して喋りかけて来る。多分洗濯物でも届けに来たのだろうと予想して振り返らずに未だ、窓を全開にしていた。



「あんたも報告ぐらいしなさいよね」
「なにがー?」
「彼氏の事よ」
「……そうだっけ?」
「そうよ。前の彼氏と別れて新しい彼氏見つけたんならそう言ってもらわないと、母さん余計な詮索しちゃうわよ?」
「どんなだよ」
「まあ、色々よ。遠距離恋愛なんて、あんたには無理なんだから」
「……そうだね」
「ちゃんと髪乾かしなさいよ」
「わかってるー」



そう言い終えれば、ドアは完全に閉められ一人きりの空間になる。そうすれば、風が頬を横切った。濡れた髪から水滴がポタポタと冷たい雨を降らせ、壁に寄り掛かった。



「新しい彼氏ね…」



まあ、間違いではないけど…別に。別れてもないけど……まあ、自然消滅なのかな?
というか、彼氏とか彼女とか言えるような関係だったのかな?よく、わからない。
ただ、いつも一緒に居ただけで、それは恋愛なのかな?恋人に見えるのかな?
傍からそう見えたかもしれないけど、わたし達は、いや、少なからずわたしはそんな甘っちょろい関係ではないと断言できる。

わたしと、彼は…何と言えばよいのだろうか、うーん。そうだな……ハンバーガーのパン?サンドイッチのパン?まあ、そんな感じなのかな、譬えは。

お互い背中合わせの関係かな。寄り掛かっては、空を見上げて、決して振り返らない、不思議な関係。好意とか嫌悪とかそんなことはなくて、そんなシンプルな感情はなくて、難しいな。日本語にするのは。説明とは人間にとって最も難しい語源と言語なのかもしれない。言葉にしなければ伝わらないとか、言うけど。言葉にするのも難しい時点では、相手には云わんとすることは伝わらないのかな?
ぼんやりと月を眺めていると、窓の下から呼び声が聴こえた。

「 おーい 」と。なんて間の抜けた声だろうかと思ったけど。どうせこの住宅地のことだから、どっかのカップルが夜のランデブーでもしてる最中なのだろうと思い、気にせず再び夜空の観賞へと眺め始めようとすれば。



「なまえ」



下から、わたしの名前が聴こえた。そういないわたしの名前だから、思わず驚いて下を見るとそこには、驚いた。



「っ、紫原っ?!」
「あ。やっと気づいたしー。何度も呼びかけても気がつかないってどんだけトロいのなまえちん」



独特な呼び方とのんびりな声に、彼が紫原だと確信する。だが、秋田に居るはずの彼が何故こんなところに居るのか疑問の方が上回ってしまう。



「なんで、あんたがここにいるのよ?!」
「夜行バス使ってきた」
「誰もどうやってきたとか聞いてねぇよ!」
「取りあえず聞きとりにくいからそっち行くけどいい?」
「……ダメ」



驚いていたけど、その言葉には同意出来なかった。首をフリ、彼を拒否する。すると、彼は無断で柵に乗り上げた。2メートルもある男。ここは2階のある新築一戸建て。距離は縮まった。ベランダなどここにはないから、ロミオとジュリエットのような逢瀬は出来ないけど。溜息をついた紫原は、先程の質問に取りあえず答えることにしたようだ。



「見たよー。あれ」
「…そう」
「うん。きれいだったよぉ〜、そんで、気に入ったから待ち受けにしてみたぁ」
「せんでええ」
「まあ、そんなことはどーでもよくて」



見せられる彼の携帯画面にツッコむとそれを適当に終い、次に彼が顔をあげるとき。無表情なその瞳を真っ向から受け止めることになる。



「あれ、誰が撮ったの?まさかさー黒ちん、じゃないよね?」
「黒子だよ」
「ああ、そーなんだぁ。ふ〜ん、ねぇ、つきあっちゃった?」
「まあ、それが男女の間でしか成立しないのなら、そうかもね」



肘を立て、掌に顎を乗せて紫原を見つめる。別に、わたしと紫原は付き合っていた訳じゃない。だから、嫉妬して欲しいから言ったわけでもない。ただの近状報告じゃないか。

なのに……何でこんなに焦ってるんだろう、わたし……。

突然、沈黙はやってきた。未だに彼がどうしてわたしの目の前に現れたのかは知らない。試合でもあるわけではないはずなのに、秋田から東京まで来るなんて。昔から天然だったから彼の考えなどわたしにわかるわけがない。雲隠れしていた月が再び顔を出す。明るさが足りないこの住宅街の裏道に、光がやってくる。そうすると、はっきりと彼の表情を窺う事が出来た。そう、久しぶりに見た彼の顔は、どこか不機嫌な顔つきだった。



「なまえちんが黒ちんとつきあっちゃったのなら、それはオレが手放した所為だから、黒ちんを責められないし、逆になまえちんのことも悪く言えない。けど、オレがどうしてここにいるのか、なまえちんわかる?」



尋ねられたことに驚いた。いや、所為とか責められないとか、なんでそんな言葉が出て来るのか不思議でしょうがなかった。なんだろうか、このわき上がるような恥ずかしさ。顔が熱くなりそうだ。



「何でそんな言い方するのっ!それじゃまるで…っ、恋人同士だったみたいに、言わないでよっ!!」
「恋人どーしだよぉ?ナニ言ってるの、なまえちん。オレとなまえちんはコイビト、だよ?」



小首を傾げて指を差して、わたしに説明してくるこの男に、脳内が沸騰しそうだった。ありえない……なんでよぉ。なんで…あんたも恋人とか言うのよ。そんなことないんだからっ!



「そんなっ、恋人じゃない!そんなこと、あんたまでも言わないでよっ!!」



子供みたいに叫んだわたしの喉は最後には、震えていた。過去を振り返るように脳内では再生される中学時代のわたしと紫原。本心というのに、触れた気がした。
そんな時、紫原は壁を一瞬のうちによじ登って窓枠に腕を乗せると、あの時と同じ顔して告ってきた。



「オレがなまえちんに会いたくなっちゃったから。これが、今日来た理由だけど、だめだった?」



なんでよ…なんで、わたし……。こいつの事助けようとするのさ。

身体は彼の言葉の終わりと共に、手を伸ばして彼の腕を引っ張っていた。窓枠から上手に室内へ入ると靴を脱いでいつの間にか、泣いているわたしを抱きしめてきた。懐かしい匂いに包まれて、なんだかもう、考えるのさえ馬鹿らしくなって意味わかんない。



「オレは、なまえちんのこと、ずーっとスキだったけど。なまえちんは?」
「わかんないよ!わかんない!!」
「逆ギレーうける〜」
「笑うな、デカシ原!」
「まあ、ぶっちゃけオレも今日気づいたんだけどね〜スキなこと」
「……そっ」



小さくなって彼の腕の中に落ち着いた。涙が出る理由も、こいつを助ける理由も、写真を送りつける理由も、メール交換する理由も今までなにもわからなかったけど、今はっきりしていることは、紫原に抱きしめられていることは嫌ではなかった。
そのまま眠ってしまったなまえ。彼女に腕枕を施してタオルケットを二人にかけてシングルベットをよりよく利用して彼女とくっつく。
甘い香りに思わず、彼女の首にうずめてしまいたくなって、首筋に唇をつけて軽くリップ音を響かせた。
暫く彼女で遊んでいると、彼女の携帯が突然鳴りだした。マナーモードが解かれているようだ。手を伸ばせば届くその携帯を取り、悪びれもなく画面を覗く。



「へぇ〜」



呑気にこの状況を楽しむ。何故かと問われればそれは、この電話の主にだ。ディスプレイに表示された昔の知人の名に、やる気のない顔をしながらもどこか楽しげな雰囲気で通話を始めた。



『 …お久しぶりですね、紫原君 』
「あれ?黒ちん、なんでオレだってわかったの?エスパーじゃん、すげぇ」
『 わかりますよ。彼女はボクの電話に出ませんから 』
「あらら、嫌われてんの?じゃあ、付きまとわない方がいいんじゃない?」
『 それを言うなら、紫原君の方が世間一般的には邪魔者ですよ 』
「あ。そうだねぇ〜、ごめんね〜黒ちん。添い寝までしてるけど、いいよね?」
『 いいわけないじゃないですか。…今日は権勢するために電話しただけです 』
「そうなの?なになに、黒ちん」
『 ボクの彼女に手を出すなよ 』
「あー、そ。うん、いやだ。だって、なまえちんは元々オレのモノだし〜だから、横取りしてんじゃねぇよ、黒ちんの分際で」



切れた通話の先で、互いに爆弾を投下して戦は幕を空けた。


2012.07.21

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