26

「腕、出してください」

渋るかと思っていたネイガウスさんは案外素直に左腕を出してくれた。
血に塗れた腕を、傷に障らないように出来るだけ優しく拭っていく。
目を背けてはいけない。
腰にあるその大きなコンパスで付けたであろうその傷は、痛々しいなんてものじゃなかった。
さっきやっと止まった涙がまた流れてくるのを必死で抑えて、私は腕を綺麗に拭っていった。

「痛いですか」
「このくらい、なんともない」

嘘つき。そうは言わずに私は思い切りネイガウスさんの腕に消毒液をかける。
悲痛で声も出ないのか、ネイガウスさんは小さく呻き顔を歪め、体を硬直させた。
いい気味だ。そんな視線を送ると、ネイガウスさんは悟ったのか苦虫をかみつぶしたような顔して、大きく息をはいた。
その顔に、自業自得のくせにチクリと胸が痛む。

「奥さん、亡くなってたんだね」
「……ああ」

包帯を巻きはじめた手を止めることなく、私は口を閉じた。
奥さんがいるとは聞いていたけど、死んだとは聞いていなかった。
全然知らなかった。だってそんな顔、してなかったから。
ううん、違うかもしれない。その頃まだ私は、ネイガウスさんを知らなすぎて、気が付かなかった。それだけ、なのかもしれない。
だったら、私の存在は、ネイガウスさんにとってどう映っていたんだろう。

「迷惑、でしたか…?」
「…なに?」
「私は、ネイガウスさんにとって、ただのお荷物でしたか…?」
「……そんなわけないだろう」
「だったら!」

大声を出して、思い切り、ネイガウスさんに包帯を投げ付けた。
八つ当たり?そんなの分かってる。

「だったら何でこんな事したの!?」

でも、理性なんて、そんなの言うこと聞かなかった。
気持ちが強すぎて、大きすぎて、いっぱいいっぱいで、私は思わず、ネイガウスさんに怒鳴ってしまった。
だけどネイガウスさんの表情は私と反比例するようにひどく落ち着いていて、それでまた私は、傷付いたような、そんな気持ちになる。

「お前も、言うのか。他人を巻き込むな、と…」
「ッ違う!私は奥村くんみたいにいい人間じゃない!!」

私はあんなに綺麗な心なんて持ってない。お前もって、その言葉がすごく嫌だった。
私は違う。関係ない人間を巻き込むななんて、すごいこと言えない。
私は、自分のことしか、考えてない。

「他人なんか、どうでもいい…。どうでもいいの…」
「……、」
「だから…、そんな他人のために、死ぬようなことしないでよ…」

一番怖いのは、ネイガウスさんがいなくなっちゃうことだ。
ネイガウスさんは関係のない人達を巻き込んだ。全ては仇討ちのために。
でも、そしたら私はどうなるの?
ネイガウスさんは、私を、一人にしちゃうの?
今回みたいなことは、死んじゃわなくてもネイガウスさんは捕まっちゃうかもしれない。

きっと、そうだ。私は嫉妬してた。
私のためじゃなく、もういない人のためにネイガウスさんが自分自身を傷つけることに。

「だから他人のために、私を一人になんかしないでください…」

顔を手で覆ったのは、涙を拭うためか、顔を隠すためか、それとも、ネイガウスさんを見ないようにするためか。
私でも、わからなかった。
ただ暗い視界の中で、ネイガウスさんがどんな顔をしているのか、どんなことを言うのか、どんな反応をするのか。それが怖くて、私はギュッと、目をつむる。
我が儘だって、わかってる。
わかってる。だから、怖いの。
しばらく、沈黙が続いた気がする。
何分経ったかは分からない。
私は吃逆をしながら、ずっと俯いていた。
そしたら、大きくて、暖かいものが私の頭にふわりと乗ってきて、私はゆっくり目を開く。
私はそれがなにかを知っている。
大きくてごつごつしてるけど、あったかくて、優しくて、安心するもの。
ネイガウスさんの、手だった。
不安がどんどん取り除かれていく、魔法の手みたいだ。
頭をあげると、ネイガウスさんの微笑んでいる顔が見えた。
我に返った私は急いでネイガウスさんの手当てを再開し、また包帯を巻きはじめる。
血も、大分止まってきたみたいで、今更、胸を撫で下ろした。

「ネイガウスさん」
「何だ」
「…報復なら、サタンにだけでいい」
「…ちとこ、」
「私が、武器になる。私はネイガウスさんの、使い魔だから…私がネイガウスさんの武器になる。私がサタンを、倒すよ」

図々しい?身の程知らず?
でもそれでいい。
ネイガウスさんが苦しいなら、私も苦しいし、ネイガウスさんが嬉しいなら、私も嬉しい。
だから私は役に立ちたい。
誰よりも、何よりも大切なネイガウスさんのために。

「ネイガウスさんは、私の"家族"でもあるんだから」
「…そうだったな」

ありがとう。
そう、ネイガウスさんは私の髪の毛をくしゃりと軽く掴んだ。
もうこの人がいるなら、元の世界に帰れなくたって全然いい。
そんなことを思うくらい、私はネイガウスさんに依存してる。

言葉にしたことはないけど、
大好き
多分、十分すぎるくらい、届いてる、はず。