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視界は暗い。ここはきっと人間が簡単に踏み込んではいけない場所だ。真っ暗で何も見えない。私は見えない相手に引っ張られるがままに、道なのか、いや、そもそも地面があるのかもわからないところを歩いていた。
私の腕をつかんでいる相手はおおよそ分かっている。というより、思い当たる節が一人しかいない。

「メフィストさん…これは一体…?」
「おや、おやおや、やはり気づいていましたか」
「うわっ」

突然現れた世界に足はすくんだ。私は今、宙に立っていた。大して明るくはなかったけれどさっきまでがさっきまでだったのでまぶしさに目を少し覆う。やはり私を連れだした犯人はメフィストさんだった。彼はニヤリと笑いながらポンと空にソファーを出し、そこへ私を座らせた。当然のように本人も私の隣に座った。

「…鼻水、でてますよ」
「おっと失礼」

アレルギーでしてね、と鼻をかむメフィストさん。いつものことながら何を考えているのかさっぱりだ。迷彩ポンチョに私の分はなかった。もともと私は奥村くんを助けに行かすつもりはなかったのだろう。ではなぜ、私をここまで連れてきたのか。
メフィストさんには謎が多すぎる。彼は何も伝えないくせに、平気で私を巻き込んでくる。理不尽だ。

「で、私に何か用ですか」
「いやあ、この舞台を一人で見るのは少々寂しいと思いまして」
「嘘ならもう少しマシな嘘をどうぞ」
「…いやねえ、私も、あなたという存在を失うのは避けたいのですよ」
「嘘ですね」

そんなわけがない。だからもう少しマシな嘘を言えと言ったのに。多分きっと、私をここに連れてきた理由を彼は言わない。わかりきっている。
ギロリとメフィストさんを睨むと彼はおかしそうに、いやしかし、苦い笑みを浮かべた。
いつになったらこの私に素直になってくれることやら。
そう彼が零した言葉。そんな日は一体訪れるのだろうか。私ですら疑問であるというのに。先はきっとものすごく長いでしょうね、と嫌味たらしく返せば彼は静かに笑った。

「見てください。アレを」
「…!あれが…」
「そうです。不浄王。まだ成長途中ですがね」

指をさされた先には山の一部が、気持ちの悪い胞子のようなもので覆われていた。一部といっても、結構なものだ。
あれが、不浄王。
どくりと心臓が大きく脈打ち、ぶるりと体が震えた。怖い。今からみんな、あれを倒しにいくのか。怖い。あれは、化け物だ。今まで見たどんな悪魔よりも、ずっと、ずっと怖い。汗ばんだ手で、スカートの裾をぎゅっと握った。

「怖いんですか?」
「…当たり前、です」
「ふふふ、実に愛らしいですね」

嫌な視線を送ってくるメフィストさんは無視だ。
この私が、平凡な一般人のこの私が、まさかこんな化け物と戦うことになるとは。半年前では考えることも、想像することすらできなかった。でも今の私は一般人とは遠く、とは言えないかもしれないけどかけ離れていて、あの化け物と戦うくらいの非凡さは手に入れてしまった。まあ、このままメフィストさんに捕まっていれば、戦うことはないだろうけれど。
それは安全だ。メフィストさんの意図は到底私には分からないが、とにかくここは安全だ。なんせここはメフィストさんのための観客席だから。舞台を楽しむメフィストさんには無害な場所。アレルギーを除いては。
そう、あの化け物を遠巻きで見ているだけ。なんて平和な場所。でも、でもそんなのは

「私も下に行きます」

ごめんだ。みんな戦ってる。きっとみんなだって怖いはずだ。もちろんそれだけが理由じゃない。ここで私が逃げればネイガウスさんに呆れられるだろうし、何より私は自分のことが大嫌いになってしまう。嫌。そんなの嫌。

「危険だとしても?」
「そんなの怖がってぶるぶる震えてちゃ、この仕事やってられないでしょう」
「…どうしても?」
「どうしても、です」

まあ元々あなたをここで置くわけじゃありませんでしたし、いいんですけどね!
にこやかにメフィストさん。ちょっと、私今すごく真面目だったのだけれど。殴りてえこの道化師。
はいはいどーもと半ば自棄になって下に降りようとするとガシリと腕を掴まれた。今度は何なんだ。ギィと歯を噛んで眉間に皺を寄せながら振り返るとス、と差し出されたのは一枚の紙切れ。

「な、んですか、これ」
「迷彩ポンチョは彼らへのプレゼントでしたが、これはあなたへのプレゼントです」
「はあ」
「名はハウレスといいます。どうぞ大事に使ってください」

ハウレス。その名前は、聞いたことがあった。
折りたたまれた紙を開くと思った通りのものが記されている。なんだか感動してしまった。あのメフィストさんがだ。

「あ、ありがとうございます…」
「私もあなたを至極気に入っていましてね。ついつい、甘やかしたくなる」
「…ちょっと気持ち悪いですけど、感謝します。私にできるかわかりませんが、いや、やってみせます。どうぞそこから、高見の見物、しててくださいね」

一言余計ですねえ。という声を聞き流しながら、私は宙に浮いたソファーから飛び降りた。空気の抵抗を感じる。ぶるるると頬が揺れているのがちょっと不愉快だ。

「魍魎!私を受け止めて!!」

さあ、ボーロの時間がやってまいりました。