※義妹設定
物心着いた頃の一番鮮明な記憶は、兄、糸色望の膝の上で、一緒に書物を眺めていた事から始まります。
意味も分からずに、眉を顰め文字列と睨めっこをしている私を見て、いつも頑なに表情を崩さない兄が、くつくつと喉を鳴らして笑っていたのを、今だって、覚えています。あの暖かな日差しの温度を、彼の笑う反動で、心地良く揺れる身体を。
そして、いつも決まって顔を見合わせ、私の頭をくしゃりと撫でるのです。胸がぽっ、と点火されるように暖かくなるその光景は、多分、きっと、傍から見ても本当の兄と妹だったと思います。血の繋がった、本当の。
糸色望、私の兄は家族から十分な愛情を与えられていませんでした。というか、彼は人からの愛情を受け取るのが極端に下手だったのです。目一杯の愛をなみなみと注がれたとしても、両手で全て受け止めることができない。どんなに頑張っても、頑張っても、溢れて、溢れて、零れ落ちてしまうのです。その手に伝って落ちる愛を、兄は、どこか他人事のように眺めているようでした。そして、いつしか自分から手を差し出すのを辞めてしまいました。
摂取のできる愛が乏しく息が詰まりそうな環境の中で、痺れる足を気に掛ける暇もなく、優秀な兄達の尾を自分の意思関係なく必死に追いかける、唯々繰り返しの日々。身体の節々が音を立てて今にも崩れ落ちそうな時、私が糸色家へと意図せず足を踏み入れたのでした。
糸色家にやって来てすぐに、驚く程に綺麗な装飾が施された着物を流れるように着せられました。布上で輝く模様の眩しさは、私を唯々憂鬱にさせました。
以前耳にたこが出来るほどに言われた、いつも笑顔でいなさい、という言葉を、何度も頭の中で繰り返していました。右も左も分からない未知の環境に恐ろしくて堪らなかったけれど、私はいつだって笑顔を浮かべていました。それに応えるように、糸色家の方々も暖かな雰囲気で迎えてくださりました。それは驚く事に、兄とて例外ではありませんでした。今思えば、彼のその時の心情では、私を迎え入れる余裕など無かったように思うのです。
けれど、数々の親族が居る中、ふと、目が合った瞬間、生気の失われた瞳にほんの、少しだけ光が宿ったような、そんな気がしたのです。
兄は初めはもどかしそうにこちらを眺めているだけでしたが、まだ行動が幼稚な私は、慣れない着物姿でその上走り回るので、着崩してしまった着物を器用に直してくれたり、学業の面で分からない所があって泣きべそをかいていると、倉庫から参考書を引っ張り出してきて、朝まで付きっきりで教えてくれました。
糸色家に来てからそんな兄らしい交流を試みてくれたのは彼が初めてで、毎日緊迫した日々を送っていた私はすぐに心を開き、懐いていました。兄も、常に後ろにくっついて回る私を、鬱陶しがる事もなく受け入れてくれました。そして、出会った当初こけていた頬も、すっかりと元通りになっているようでした。
私が傍にいると、いつも強ばっている彼の表情は綻んでいました。私が居ることで、彼の心のスキマを埋められているのでは無いか、と嬉しく思いました。そのスキマはとても心地よくて、ずっと埋もれていたいと思うと同時に、もう一生空洞にさせてはなるまいと思いました。
それから、私達は多くの時間を共有しました。日が沈むまで本を読みふけった事。酷い雷雨の日に、2人で怯えながらも抱き合い共に眠った事。学校の友達そっちのけで、一緒に登下校した事。
今でも数え切れない程に、兄との思い出が鮮明に蘇ってきます。私は、兄が大好きでした。
けれど、兄が高校に上がった時期から、状況が一変し始めました。お互い学生の身で忙しいせいか、接する時間が減ってしまったのです。兄は必死に勉学に励む私を、黙って眺めていました。お互いのよそよそしい態度に、息が詰まりそうでした。それを境に、兄は出会った当初に感じた陰湿さをまた身に纏っていきました。そして、ある事か、生まれてこの方一度も仲違いをしなかった私達が、初めて喧嘩をしてしまったのです。家族も、仲の良かった私達が衝突し合うのを見て、驚きを隠せない様子でした。何せ、どこへ行くのにも一緒だったのですから。私は呆然と立ち尽くす兄を尻目に、力任せに襖を閉めました。人生でこんなにも激昴したのは初めてだと思う程の喧嘩でした。私は追い詰められていた彼に、更に追い討ちを掛けてしまったのです。
彼に言いたい放題言ってしまった私は、酷く後悔して、謝らなければならないと思いました。
酷く重い足取りで帰宅した後に、やっと決心して兄の部屋の襖の前に立つと、何やら奇妙な音が聞こえました。ぎち、ぎち、とまるで何かを締め上げるような音です。
不思議に思って襖を開けると、力なく宙に揺れる生白い足が目に入ってきました。目の前で何が起こっているのか私には理解ができなくて、混乱しながら兄を探しました。けれど、兄はどこにもいません。床には無造作に参考書や本が散らばっているだけでした。震える身体で、私は頭上を見上げました。
天井の柱からぶら下がる紐のようなものが見えて、その中心に兄の項垂れる顔がありました。
兄は、首を吊っていました。窓から入ってくる風に吹かれてゆらゆらと揺れていました。血の通っていない肌は暗闇で妙に映えていて、私は叫ぶ事も泣き喚く事も出来なくて、その場で立ち尽くしてしまいました。状況を飲み込んではっとした次の瞬間、何かが千切れる音と共に兄が畳の上に叩きつけられました。どうやら、紐が耐えきれなくなり切れたようで、私は急いで兄の元へ駆け寄りました。
まだ辛うじて暖かい体温。必死に声を掛けて頬を叩くと、彼は酷く咳き込んでから、こちらを虚ろな瞳で見つめました。
生きている。生きていた。
嬉しくて、悲しくて、私は兄を力いっぱい抱きしめました。何ヶ月振りかの抱擁でした。涙が溢れて留まることを知りませんでした。
兄も、泣いていました。私の首筋に、暖かい雫が流れ落ちていましたから。
兄はおぼつかない手で私を抱き締め返しながら、自分に絶望したんだ、と、しゃくりあげながら掠れた声で戯言のように呟いていました。
途切れた思いが、抱擁でまた繋がったような気がしました。
その後、以前と同じく接する事は出来ましたが、もうお互い立派な男女なので、少しは距離を取らなければなりません。もう子供の頃のようにべったりとはいきませんでした。けれど、少しでも私から彼を遠ざけるようなことを言うと、絶望した!妹の兄離れに絶望した!などと言い始めるので堪ったものではありません。 終いにはまた縄に手を出そうとするものだから、どうしても放っておく事ができなくて、首に縄を掛けようとする兄を強く抱きしめました。睡眠薬を大量に摂取しようとする兄を優しく寝かしつけました。
私がその度にそうして彼に構ってしまったから、自殺未遂行為癖が始まり、それを助長をしてしまったのだと思います。ネガティブ思考に拍車をかけてしまったのだって元々は私が…その他にも…数え始めたらキリがありません。
それからはそのような関係がずるずると続き、くっついては、これではいけない、と離れ、くっついてはまた離れ、またくっついて…というのを繰り返しました。その惨状に両親や他の兄達、倫も呆れ返っていました。兄は存外気にした様子では無かったですが。
そうこうしている内に、そんな兄も大学で教師の免許を取り、この春私の通う高校の担任に赴任する事が決まっています。目覚ましが鳴らなかったり、近所の犬に吠えられただけでこの世に絶望する彼に、教師などという大それた事ができるのか…未だに自殺未遂行為は続いていて、生徒さんにそれを見られた暁にはどうなる事やらと、今から不安で不安で堪らないのです。ああ、私は一体どうしたら良いのでしょうか。
私も、そろそろ心を鬼にしなければならないと思っております。一刻も早く、彼は妹離れをしなくてはいけな………………………………………………………あ。
……はい、もしもし、どうしたの?……もう、また?じゃあ、お店でエビフライ買って帰るから……ほら、あとチョコレートも。ね、だから元気だして。急いで帰るから……。あ、そういえば高校の方に提出しなきゃいけない書類とか、もう書いたの?……もう、やっぱり。一緒に書いてあげるから書類机に出しておいてね……。それが終わったら、昨日言ってた映画、見ようよ。あっ、あとね、今日現代文の授業で分からない所があったんだけど………………………………………………………
(糸色望)