[05]

「……あー…あぁ…」


 あーあーと唸りながら俺は目の前のプリントをひらひらと振る。しかし振ったところで内容が変わる筈もなく、ぺらぺらと虚しい音が辺りに響くだけだった。

 今俺の手には一枚の健康診断の紙、そしてその紙の備考欄に「呼吸器官:無・有」の欄の「有」に丸が付けられていた。これは別に呼吸器官がありますとかそういうものではなく、呼吸器官に異常があるので病院で検査した方がいいぞというお達しだ。俺にとっては赤紙も同然の内容が書かれた紙なのである。
 そもそも自分の呼吸器官に異常があるのなんて子供のころから分かり切っていることだ。それを今更病院行けとか言われてもお断りしますのAAを貼って突き返したくなる。…ただ、この結果が出たのが久々なのだ。年に一回ある健康診断は小学生の時から行っていて、低学年の時は毎回この欄には有の部分に丸が付けられていた。しかし学年があがるにつれそれも少なくなっていき、中学に入ってからはなくなっていたのだが。高校に入ってまさかのぶり返し。悲しみに暮れるしかない。

 というのも、俺が特別病院が嫌いという訳ではなく(いやまあ好きでもないが)、この結果を兄さんたちが見るのが問題なのだ。十四松兄さんやトド松兄さんなんかは絶対にへにょん、と眉を下げるに違いない。兄弟のそんな姿を見たくない俺はがんばってこのボールペンで書かれた丸を何とか隠蔽できないかと文房具を並べて紙と睨み合う。あともっと言うならば、この結果で外出時間が減ってしまう恐れが大いにある。いい加減高校生男子の門限が五時とか五時半とかなのはやめて頂きたい。いくら自分の部屋大好き人間の俺でも流石に限度というものがある。


「おー名松、どうしたんだよ。そんなピーマンを醤油で煮詰めたみたいな顔して」

「お前の表現力って本当底辺の下を行くよな。 いや、診断の結果がさぁ…」

「んー?……あー、ここ丸ついてんの久々じゃね?」

「そうなんだよなぁ…」



 小学校から事情を知る友人は俺の診断結果を見て苦笑しながらその欄をとんとん、と突いた。かく言うこいつも過保護な姉持ちなのだが、こいつの場合身体は健康体そのものなので羨ましいことこの上ない。


「でもこれってさ、絶対行かなきゃって訳じゃないんっしょ?」

「うぇ、そうなの?」

「確か親に見せるだけで良くて、病院行くかどうかは家庭に任せるって感じじゃなかったっけ?そんな誰もかれもがホイホイすぐ病院に行けるわけじゃねえじゃん」

「それもそうか…」


 と、いうことはだ。この診断結果を持ち帰り兄さんたちにばれないように母さんか父さんからハンコを貰い、そしてまた学校に持って来れば良いという訳だ。よし、突破口が見えてきた。
 俺は紙を折りたたんでお気に入りのファイルに挟んでから友人に顔を向ける。



「帰り百均寄っていい?」

「おいおーいハンコくらい親からもらえー」



 松野なんてどこにでもありそうな苗字、絶対百均で売ってるのにと言えば、そういう問題ではないと返された。
 高校生にでもなれば自分用の印鑑くらい持っておくものだと思うんだが。



***






「ただいまー」

「名松ー!おかえりー!!」



 百均へ寄った後CDショップへ立ち寄り、その後友人と別れて真っすぐ家に帰ってきた。時刻は五時の少し手前ほどだ。
 出迎えてくれたのは十四松兄さんで、珍しく黄色のつなぎのジッパーを上まで閉めずに胸元までゆったりと開けていた。珍しいこともあるもんだ、と思いながら兄さんの手元を見るとレンチが握られていた。


「どしたのそれ」

「これ?大改造!!」

「? 何を?」

「マイカー!」

「車…?」



 どうやら車の修理をしているらしい。だからつなぎな上にジッパー閉めてないのか。そういえば父さんが最近車の調子が悪いと言ってカラ松兄さんやおそ松兄さんと一緒に何かの分厚い雑誌を読んでいたな。



「兄さん車のメンテとかできたんだね」

「んーん!カラ松兄さんの指導ですぜ!」

「あーカラ松兄さんほんと車弄るの好きだよねえ」



 ああ見えてカラ松兄さんは機械系が大の得意だ。テレビやパソコン、レンジにラジオに目覚まし時計にetc. 機械系の何かが壊れたら皆一度は必ずカラ松兄さんに相談して直せるものは直してもらい、そこで無理だと言われたら諦めるか専門店に持っていく。
 きっと十四松兄さんの意外と器用な手先と力仕事が必要なのでカラ松兄さんが頼んだのだろう。



「ねえ、俺も見に行っていい?」

「ええでええで〜一緒にいこ!!」



 パッといつもの笑顔をより一層深めて十四松兄さんは俺の鞄を引っ手繰り俺の部屋へ駆けて行った。荷物運んでくれるのは嬉しいけど一言言って欲しいな。めちゃくちゃびっくりした今。

 苦笑いを零して俺はゆっくり靴を脱いで廊下に上がる。学ランを脱ぎながらポケットに入っている携帯の電源を入れると、クラスのグループから通知が来ていた。誰かが話しているのだろう。一応通知が気になるので既読だけ付けておこうとクラスグループに飛べば、とあるクラスメイトの「じゃあ別に家で捨ててもいいの?」という発言で止まっていた。なんのこっちゃと遡ると、数人から吹き出しが出ていて「健康診断の結果っていつ締め切り?」「あれ締め切りとかなくない?」「べつにいつでもええやろ」「てか、持って来ても来なくてもいいやつじゃねあれ」と続いていた。


「…ハンコ買わなくてよかったんじゃん…」


 学級委員長の「提出絶対の奴じゃないから別にいいと思うよ」という一言にそれでいいのか委員長…と思いながら俺は心の中でガッツポーズをした。ハンコと朱肉付きケースは無駄な出費だったが、たかが二百十数円。それで心の平穏が買えるのならば安いものだ。俺は先ほどよりも少しだけ上がった機嫌を纏いながら自分の部屋の障子を開けた。瞬間、オレンジ色のつなぎが顔面に投げつけられる。


「おし!出発!」

「十四松車掌、まだ一時停車中です。あと二分お待ちください」

「あいあい!!」



 上機嫌な十四松兄さんを部屋の隅に座らせてから俺もつなぎに着替える。その間兄さんはレンチを投げて遊んでいた。危ないな。



「今どこまで行ってるの?」

「えっとねー、前っかわのやつ開けてー、そんで中カラ松兄さんがいじってる!」

「ふうん。十四松兄さんは何してたの?」

「すわるとこの掃除!」

「…レンチ、いるの?」



 全く分からない説明を受けながら袖を通し、ポケットに携帯を突っ込んで十四松兄さんに手を差し出す。兄さんはそれをパッと取って行きよりもずっとゆっくりとしたスピードで部屋を出た。
 車庫に着くまでにくだらない話をしながら(主に兄さんが話してるだけだが)ぱたぱたと足を動かしていたのだが、ふと十四松兄さんがこちらに振り返りぱかっと口を開けた。



「そういやさー名松、けんこーしんだんどうだった?」

「…さぁ、まだ結果来てないから…」

「そっかー」


 心臓が止まるかと思った。え、何で把握して…あ、そうだ兄さんも元生徒だもんねそりゃ分かるよね。ばれないようになんとか普段通りを装う。これがおそ松兄さんやチョロ松兄さん辺りなら一発でばれそうだが。


 十四松兄さん相手に嘘を吐いたことに少しだけ心を痛めながら俺はきゅっと手を少しだけ強く握り返した。




***







「名松」

「はい」



 結論から言おう。バレた。



 あれから車庫に入り浸っているカラ松兄さんと十四松兄さんの目を盗み、隙をついて部屋に戻りゴミ箱に診断結果を丸めて捨てた。だが、そのくしゃくしゃになった紙がなぜか今目の前に広げられている。その向こう側には十四松兄さんが腕を組んで仁王立ちしていた。
 いつもの笑顔は成りを潜め――いや口が開いているのはデフォなのだが、目が物凄く俺を非難している。


「僕怒ってる」

「はい」

「名松、結果まだきてないって言った」

「はい」

「これなに」

「…健康診断の結果です」



 底冷えするような声色で言う兄さん。ソファで成り行きを見守っていたカラ松兄さんと、いつの間にか帰って来ていた一松兄さんとトド松兄さんは苦笑いしながらもこちらを助けるつもりはないようだ。そりゃそうか。


「…てか、なんで…」

「にゃんこが咥えてもってきた」

「にゃんこぇ…」


 一松の膝の上で寛いでいるエスパーニャンコを横目で見ると、どこ吹く風で悠々と尻尾を揺らしている。お前…俺の味方じゃなかったのか…や、あいつは一松兄さんの味方か…。


「ひひ、してやられてやんの」

「…うっさい一松兄さん」

「名松」

「スミマセン」



 すぐに十四松兄さんが俺の名前を呼ぶ。…怒られていてこう思うのもアレなんだが、ここまで切れてる十四松兄さんを見るのも中々に久しぶりだ。最後に見たのは確か、俺が小学生の頃にごたごたがあって一日帰れなかった時だったか。アレは兄弟全員阿修羅の如く切れてたが。
 そんな兄さんが珍しく、俺は気付かれないように、だがまじまじと十四松兄さんを眺めた。
 …口閉じて真面目な顔してたら兄さん結構モテると思うんだけど…なんでこう、うちの兄弟は絶対にどこか残念賞が貰えそうなほど絶妙に残念なところがあるのだろうか。…人の事言えない辺り松野家の辛い宿命だ。


「十四松兄さん、名松多分反省してないよ」

「え、ちょ」

「今めっちゃ十四松のこと見てた。多分お前切れてんの珍しいから」

「いやあの」

「"真面目な顔してたらもっとモテるのに"…とでも考えていたんだろう」


 カラ松兄さんはエスパーかな?突然の裏切り行為(そもそも仲間でもない)に俺は驚きを隠せずわたわたと手を動かす。
 目の前の十四松兄さんの雰囲気が変わったところでぴたりと止めた。

 あ、これはちょっともう無理なやつだ。


 俯いていた十四松兄さんがぱっといつもの笑顔を張り付けて俺に顔を近づける。



「名松」

「ハイ」

「おそ松兄さんとチョロ松兄さん、そして母さんのスペシャルコースです」

「!! ま、待って…!母さんだけは勘弁して…!!」

「ダメです」



 くしゃくしゃの紙を持って十四松兄さんは部屋を出ようとする。その足にがしっとしがみ付くが、普段の行いから見てどちらに理があるかは一目瞭然だろう。俺を引き摺りながらも十四松兄さんは足を止めない。


「母さんにバレたら確実に魔王が降臨する…!」

「じごうじとくです」

「お願い!母さんだけは!!」

「ダメです」

「そこをなんとか!」

「ならないです」


 うわああああ…!とずるずる引き摺られていく俺を部屋から首を出して見ていたトド松兄さんが笑いながら言った。


「おそ松兄さんたち今すぐ帰ってくるってー」

「ファ――――――」



 どうやら今晩は俺の最期の晩餐になりそうです。



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