[06]
「もうすぐ夏じゃん?」
「この前新学期始まったばっかなんだけど」
「夏と言えば海じゃん?」
「話聞いて」
「海と言えば美女と水着じゃん!?」
「聞けってば」
友人が目を厭らしく光らせながら言い放った。付近に居た女子はまるで汚物を見る目で友人をみており、俺はそれに申し訳なさそうに頭を下げることしかできなかった。ほんとうちのアホがすみません。
「ってなわけで名松、海行くぞ海!」
「ヤだ」
「なんでだよぉー!お前赤塚町から全くでないつもりか!?」
友人がこんなアウトドアに誘うのは何もこれが初めてではない。山に行こうだの大型ショッピングモールに行こうだの地底湖に行こうだの宇宙に行こうだの、何だかんだと執拗に俺を誘ってくる。それは俺が奴にとって一番近しい友人だからなのだが、何回も言っている通りバイトと学校とイベント以外で俺は極力外に出たくない。余計な体力を使いたくもないし日の光を浴びるのも嫌なのだ。出来ることなら一生家の中で暮らしたい。ニートの癖して毎日外に出かけたりしているうちのクソ兄貴共はどこかおかしいのではないかと思う。
「兄貴たちとは一緒に行ったりすんだろ?何で俺はダメなんだよー!」
「アレは俺が行きたくて行ってるんじゃない。連れてかれるんだよ」
「最終的には自分で着いてってんじゃん!」
「分かるか?夜自分の部屋で寝たはずなのに起きたら車の中で、しかもその車は浜辺に近い道路に駐車してあるんだよ。この絶望がお前にわかるか?」
どうせ口で言っても来ないだろうと分かっている兄さんたちは何も言わずに強行突破を選ぶ。せめて予定を確認してからしにしてくれと言っても、俺は「明日何か予定ある?」と聞かれれば何もなくても「忙しい」と答えるだろうが。それをわかっているから奴らは俺に何も言わずに行動に移してくるのだ。くそ。
そもそも海に行ったって俺は特に何もすることはない。日に焼けたくないが故に水着の上から上着を羽織るし帽子とサングラスも装備しまるで女子のような恰好をする。そしてパラソルの下で熱気と潮風と砂埃に塗れながら、海でバカ騒ぎする兄たちをひたすらに眺めるのだ。
友人はぱちくりと瞬きをし、可哀想なものを見る目で俺を見る。
「…え、それ…楽しい…のか…?」
「……まあ、それなりには…」
携帯ゲームやアプリなどで時間は潰せるから暇ではない。どうしても暇になれば砂浜や近くの小道などを散策しているし、兄たちも一定の周期でパラソルまで戻ってくるから。…一人遊びに慣れてる多兄弟の末っ子ってどうなんだろうと真剣に考えたりもするけど。
そこまで聞いて友人は何かを言いかけようとして口を閉じ、少しだけ考えるような仕草の後パッと俺に顔を向けた。
「…そういや、お前って小中ってプールの授業やってなかったよな」
「まあ、持病もあるし」
「あと誘っても絶対室内にも屋外にも水場には着いてこなかったっけ」
「外に出たくないから」
「…もひとついい?お前って泳げたっけ」
「………勘の良いガキは嫌いだよ」
友人の目にヤクルトを二本突っ込む。因みに持病とプールはおそらく何の因果関係もない。ギャアアアアと断末魔を上げる友人を眺めていると今まで成り行きを苦笑して眺めていたクラスメイトが話しかけてきた。
「何か意外。松野ってマット系とか球技系がダメなんだと思ってた」
「むしろ逆。マット運動得意だよ、逆立ちできるから俺。球技も野球結構やるし」
「マジか」
「まあ今時カナヅチでも珍しくないって!」
フォローのつもりで言ったのだろうがその一言は俺の胸に深く突き刺さった。
そう、何を隠そう俺はカナヅチ。泳げない。お風呂以外で水に浸かることは極力したくない。足がつくプールでさえも干上がればいいと思っている。
水関連のものを見るのは好きだ。涼しい気分になれるし何よりとても綺麗で幻想的な光景が好きだから。しかしながら少しでも俺の肌に触れようものなら容赦はしない。滅するのみ。
「しかしまあなんだ、いくらカナヅチだからって浮き輪装備してりゃ問題無モーマンタイだろ?」
やっと復活したらしい友人がヤクルトを飲みながら俺の前の席に座りなおした。
「甘いな。たとえ浮き輪だろうとボートだろうと、空気とビニールだけの隔てで俺が満足するとでも?」
「駄々っ子かよ」
「末っ子です」
浮き輪なんて普通に水に浸かるだろふざけんな。
「そこまでの水嫌いも珍しいもんだな〜」
「浮き輪アリでも嫌ってのもあんま聞かねーしな」
「んー…まあ、昔色々あって…」
フッと遠い目をして窓の外を見る。そのモーションだけで友人だけは悟ってくれたのか彼も黙って教室のあまりきれいとは言い難い床へ視線を落とした。しかし他のクラスメイトは何も分からないからか若干興味ありげに食いついてくる。
「え、何々?少年漫画的な展開があったとか?」
「いやそういうわけじゃ…」
「いいから言えって!話したら楽になるぜ松野〜」
缶のジュースを頬に押し付けてくるクラスメイトを押しのけながら俺は重たい口を開く。
そう、アレは確か俺が喘息になる少し前の話。
***
「お」
気怠そうにリモコンでテレビのチャンネルを回していたおそ松は、とある番組を放送しているチャンネルで手を止めた。その声を聴いて居間に居た名松と十四松とトド松はテレビの方を見る。
その画面の右上には『水中の生物たち』とポップなフォントで飾られていた。名松はきょとんとして、十四松は読んでいた参考書の手を止め、トド松はメールをいったん中断して画面とおそ松を交互に見る。
「おそ松兄さんこういうの興味あったっけ?」
「いや?でもほかに目ぼしいのないからさ。グロい深海魚とか映してくれたらいいんだけど」
「やめてよー絶対名松泣いちゃうんだから」
「あれなあに?」
「アオミドロだよ。水の中にいるんだ」
十四松が名松を膝にのせて視聴の態勢を取ったので、トド松も仕方なしにちゃぶ台に頬杖をついて画面を眺める。
しかしながら小学生の自由研究用の教材のような内容と解説の声におそ松は早くも欠伸を漏らし始めた。ちらりと名松を見ると、十四松の膝の上で瞳を輝かせながら画面に食い入るようにそれを見つめているので「まあいっか」と思いながら目線を戻す。どうせ夕方になれば自分の見たい番組が始まるのだから、今は末っ子に権限を譲ってやろう、と。
しばらく様々な小さい生物が映っていたが、次第にそれは不穏な方向へと向き出した。CMを挟んだ後まず出てきたのが、水中の雑菌。拡大された映像の中でうごうごとグロテスクな動きで這いずり回るそれらを見てトド松とおそ松は同時に「うわ」と嫌悪の声を上げた。
流石にこれは自分たちでもキモイと思いながらおそ松がそれを眺めていると、急に静かになった名松が気になってそちらに視線をずらした。
十四松の膝の上には顔を真っ青にしてマナーモードよろしく震え、冷や汗を流している名松がいた。しかし目は画面に釘付けだ。おそ松はあちゃあと対して焦ってない声で小さくつぶやく。名松はおそ松たちの弟ながら、昆虫などの類があまり得意ではなかった。遠目からなら大丈夫だが近づけるとチョロ松顔負けのスピードで逃げ出す。しかも襲って来ない相手にまでビビる。この前はパンにびっしりと生えた青かびを見て悲鳴を上げていた。そう思えば名松はグロテスクな物が全体的にダメなのだろう。集合体恐怖症と似たようなものなのかもしれない。
おそ松はぼーっと考えながら急にぴこん、と思いついたように目を開き、次いでニヤァと玩具を見つけたいたずらっ子のような顔をした。
起き上がったおそ松が十四松の元まで行き名松をひょいと抱き上げる。面白いぐらいにビクゥ!と震えた名松。十四松とトド松も何事だ?と言った風におそ松を見ていた。
「お、おそまつにいちゃん…?」
「なぁ名松〜アレ、怖い?」
「ちょっと、おそ松兄さん」
トド松が嗜める様におそ松に声を掛けるが長男様にはそんなことは関係ないらしい。目の前のおもちゃが顔面蒼白で壊れたおもちゃのようにこくこくと頷くのを見て、また意地の悪い笑みを見せた。
「ほれ」
「っ!!」
急に画面に身体を近づけられた名松は、先ほどより格段に近くなった謎の気持ち悪い物体との距離に瞳に涙を浮かべる。必死に仰け反るが身体はおそ松に固定されているので大した抗いにはならない。
「やめ、やめてよぅ…っ」
「ただの雑菌だぜ〜?お前よりも全然ちっさいし噛んだりしないって」
「もう、おそ松兄さんやめなよ!」
「そうだよ。名松泣かせたらカラ松兄さんとチョロ松兄さんがうるさいよ?」
「だーいじょうぶだって!」
ほれほれ、とじりじり名松と画面の距離を縮めていくおそ松。名松は既に半泣きだった。それを見かねた十四松はトド松が静止の声を掛けるがおそ松は全く聴かない。もう名松は半泣きだった。ばたばたと手足を動かしても兄との力の差は歴然であり、まともな抵抗になるわけない。その間も着実に近づいてくる画面に名松の頭は混乱状態になる。
「ちょっとおそ松兄さん!いい加減にして名松を離したげてよ!」
「何だよ、名松だってそろそろ耐性つけといた方がいいっつったのお前だろトド松」
「そんな荒治療でどうにかなる訳ないでしょ?」
トド松の言葉にこくこくと頷く十四松。その顔は珍しく焦りを表していた。おそらく名松が本気で泣き叫べば核弾頭でも落ちたのではと思うほどの声量だからだろう。それに十四松はどうしても家族内のいざこざ、特に末弟である名松が悲しむ姿だけは何年経っても慣れない。その小さな身体からどうやって出ているのだと言うほどの涙と可哀想になるくらい悲痛な泣き声は、十四松の良心をぎちぎちに締め上げて引きちぎるには十分なものだった。
ほら、とトド松が手を伸ばして名松を受け取ろうとした。しかしおそ松はむっと眉を潜めてそれを拒否する。我儘長男の癇に障ったらしい。
しかしそれがいけなかった。
トド松から遠ざけた名松は自動的にテレビとの距離が殆どゼロになる。突然視界いっぱいにあのグロテスクな画像が入り、名松の思考は急停止した。
十四松があ、と声を漏らした時には時すでに遅し。先ほどよりも明らかにぶるぶると震え出した名松、おそ松も少しだけ異様な様子の名松を見て初めてほんの少しだけ焦りを表に出した。
「っびゃあああああああああああ」
『っあ゛あぁ―――――!!!!!!!』
あろうことか、名松は泣き叫びながらテレビに頭突きをした。その衝撃でブラウン管のテレビは嫌な音を立てて拉ひしゃげ、煙を上げた。
思わず緩んだおそ松の手から逃げ出した名松は一目散に十四松の元まで行き泣きつく。額が痛いのと気持ちが悪いのとで混乱を超えた何かの状態に陥っている名松は泣く以外の選択肢はなかった。
「あああ゛――!!うああぁぁ―――!!!」
「あ、あああ…こ、怖かったよね、大丈夫だよ名松…!」
「ほらもうおそ松兄さん!どうすんのこれ!」
「はぁ!?お前だって悪いだろ!」
「百パーおそ松兄さんが原因だからね!?」
「ああ゛ぅあぁ゛―――!!!」
「な、泣かないで名松〜…」
まさに地獄絵図だった。ぎゃんぎゃん泣き続ける名松とそれを必死にあやす十四松、そして口論を始めるおそ松とトド松。
そしてさらに最悪のタイミングでカラ松とチョロ松、そして一松が帰宅したのも運が悪かった。
「…ねえ、何してんの?」
***
「…で、長男は次男と三男にぼこぼこにされて、額が大破した俺は見事病院行き。あの視界いっぱいの雑菌だらけの画面がトラウマで水場は大の苦手と、そう言う訳だ」
「……なんつーか、絵にかいたようなテンポだな…」
「だからお前生物の点数平均ぎりぎりなのか」
「マジで生物だけは勘弁してくれ…」
黙って聞いていたクラスメイトは俺の壮絶(?)な過去に納得したようなしてないような顔をする。まあ、風呂だって雑菌だらけなわけだしな。でもあれはシャワーで流せばまだ何とか精神を保てるから。
「でも潔癖症って訳じゃないんだろ?」
「そこはもう本人の匙加減っしょ〜拘りみたいなもんじゃん」
「ま、名松がカナヅチなことには変わりないしな」
「もう二本くらいヤクルトいっとく?」
「遠慮しとく」
その時、キーンコーンとチャイムが鳴り響いた。時刻は五時前を指している。七時間目終了、もっと言えば頭の良い居残り勉強組の下校の時刻だ。
このチャイムが鳴ったら本当に学校は部活以外の場所は静けさしか残らない。クラスメイトも友人ものろのろと鞄を持って帰る準備をし始めた。
「名松、今日帰りどうすんの」
「時間ないから大人しく帰る」
「そっか。俺今日商店街抜けて帰るから」
「うす。また明日」
教室から出ていく友人とクラスメイトを見送り、俺もさっさと帰ろうと鞄を持ち立ち上がった。
ケータイを見るとメッセージが一件入っている。タップしてそれを開くと、おそ松兄さんから「醤油切れたらしい」とだけのメッセージが。買って来いってか。
ため息を吐いて俺は商店街に向かった友人の背中を渋々追った。