[よゐこわるいこくさったこ]


 蛇口からだばだばと流れる冷たい水を手で掬い顔に掛ける。痛いくらいに冷たい水はまだ寝起きだった自分の思考をすっきりと目覚めさせてくれた。しかし、この夢のようで夢ではない現実から逃してはくれない。


 顔を上げて鏡を見ると、ぽたぽた滴を落としながら自分自身を覗き込むもう一人の自分が見える。ただ、それは三次元ではなくすべて二次元で構成されており、髪や産毛、細かな場所は簡略化されていた。鏡の中の自分は昔の自分とは似ても似つかない、ハイライトの入らない瞳孔の開ききった瞳で加えて真顔なものだから個人的にあまり好きではない。力を抜けばすぐにふにゃんと顔が緩んでしまうので、俺はいつもぐっと力を入れている。ぶっちゃけいらない力が入っている感が否めない。

 しかし、それを維持し続けなければいけない理由がある。


「あ、名松兄さんおはよ〜」

「名松にいさんおっはー!!!」


「おはよう。トド松、十四松」


 はい来た。はい可愛い。うちの弟マジ天使。





 寝起きのトド松はまだ眠いのか目を擦っており、元気よく返事をした十四松は満面の笑みだ。本当、大天使かな?


 俺は所謂“異物”である。別に厨二とかじゃなくて、本当に。俺はこのアニメ作品を知っているのだから。用語で言えばトリップとかいうものになるのだろう。
 前記した夢のようで夢ではない現実とはこのことだ。目が覚めたら松野家の丁度真ん中っ子だった。チョロ松と一松の間、という訳だ。兄松にも弟松にも属せない、何だか異物の俺にぴったりな位置だと思った(ヤケクソ)。

 「え、は?何?名松って何?俺の名前違う…」とか思ったのも遠い昔だ。まだ中学校くらいの時だな。しかもあの時は自分の家(つまりこの家)が分からず三日三晩ふらふら町をさまよい、挙句松の彼らが現れたもんだから真顔しかできなかった。家が分かりませんでしたとか言うのは恥ずかしすぎてずっと俯いてたな。懐かしい。最初は違和感しかない我が家と名前だったが、次第にそれも薄れ今では元の名前はもう思い出せない。しかしまあ、まさかこの歳になって義務教育を受けなおす羽目になるとは思わなかった。
 しかもこの名松という松野家四男、かなりの鉄仮面だったようで正直力を入れなくても真顔を保たせることはできる。が、しかしだ。元松ラーだった俺からしてみれば、目の前で生で松野家の絡みを見れるんだぞ?破顔しますね確実に。
 そんなわけで俺はいつもいつも真顔に気を使いながら生きてきた。段々慣れたが、怠いのに変わりはない。

 だがまあ努力が功を成し、今や俺は真顔キャラとなっている。天使の戯れを見て必死に般若心経を唱える毎日なのだが。それでも油断はできない。なぜならば、俺にはとても重大な秘密がある。


「おそ松兄さんたちはまだ寝てる?」

「みたい。まあ昨日パチンコで負けてヤケ酒したっぽいし。カラ松兄さんとチョロ松兄さんがつき合わされてた」

「一松兄さんは夜更かししてた!」

「揃いも揃って…」


 はい兄組三人は次の新刊のネタ決定。


 俺は腐男子だ。男同士の恋愛を見るのが生きがいだ。それはもうライフワークの一環であり決して蔑ろにできないものになっている。そして、目の前には彼の憧れた(?)松兄弟が。あとは分かるな?
 いつもいつも大変麗しゅう絡みをありがとうございます…!!!と心の中で拝みながら、俺は全神経を顔に集中させている。さもないと、死ぬ。色んな意味で。

 誰が受けかって?全員だよ。俺はCP固定派ではないんだ。次の新刊だって誰を受けにして出すか迷う。この前は十四松総受け描いたから次は…チョロ松辺りいっとく?でも最近カラ松描いてないしなぁ…どうしよう。


「名松兄さん?」

「! …あ、ごめん。何?」

「いや、ボーっとしてたみたいだから…どうしたの?」

「ん、まだ頭寝てるかも」


 頭をガシガシと掻いて欠伸を噛み殺す。ニートとはいえ俺はちゃんとお勤めはしている。…まあ、主に二次界隈のものだが。趣味で衣装の一部や装飾品を作ったりしているが。まだ兄弟の誰にもばれていない辺り、俺のパーソナルスペースに入ってくるつもりがないのは有難い。ばれたら絶対に縁を切られるだろうな。

 俺達の寝室の押し入れにはみんなの私物がそれぞれ棚分けされて入っている。俺の棚の一番下は念のために鍵をつけてあるが、少し心配だ。中身は、その、若気の至りっていうか……はい、厨二時代に描いたものがたくさん入っております。例えば?そうだな、スケッチブックの中身とか?普通のスケブには外の風景とかうちの兄弟や両親の日常生活を描いたりしているが、厨二前回のものはひたすら鬱しか描いてない。生首とか、笑顔の死体とか、本当鬱いの。最後の方は見られたくなくて全部炭か絵具かで真っ黒に塗りつぶしたっけ。そろそろあのスケブゴミに出したいな…でもゴミ箱に捨てると母さんに絶対見られるんだよな……どうしよ。


「名松兄さん野球しよ野球!!」

「二人で野球はできないから、キャッチボールならいいよ」

「やったー!!!!」

「え〜ずるーい!ね、僕も一緒に行っていいでしょ?」

「トド松、今日確か女の子と約束あるんじゃ…」

「キャンセルが来たから平気!」


 きゃっきゃと騒ぐ末松二人が腕に絡んできてぐっと顔に力を入れる。いつかこの二人が天界に帰ってしまうんじゃないかと思うと涙が出てくる。末松尊い。
 ふと「次の新刊に末松をプラスするのです…」という神のお告げが聞こえてきたので俺は言う通りに真顔で構想を練り始めた。























(side_todomatsu)



 うちは世にも珍しい七つ子だ。幼いころはそれを利用して沢山悪さを働いた。おそ松兄さんやカラ松兄さん、チョロ松兄さんを主体として悪戯は成り立ち、偶に生贄として僕らが巻き込まれることが多々あったが、昔はそれでも馬鹿みたいに楽しくて馬鹿みたいに騒いでいた。
 それも中学までだった。人は変わらずにはいられないという事実を突きつけられたのが丁度あの時期だ。七人で一つだった僕らは次第に"個性"を持ち始めるようになった。見分けがつかない無個性だったものたちが、段々と自分を持ち始め一個人として日常生活を過ごす。それは僕も例外ではなくて、次第に兄弟でいる時間は少なくなっていった。

 その中でほんの少しだけ異色を放っていた兄弟がいる。名松兄さんだ。

 彼は七つ子の丁度真ん中で、幼い頃は特に栄えのある特徴でも性格でもなかった。ただ、とても優しくてにこにこと笑っている人だった。そこは十四松兄さんに少し似ていた、というより十四松兄さんが名松兄さんと似ていたのか。だから二人はよく一緒にいた。それは今も変わらない。総じてクズを貫いている松野家男児だが、名松兄さんや十四松兄さんはそこまで毒がある訳ではない気がする。カラ松兄さんは痛い。

 あれは確か中学校の頃、名松兄さんが三日ほど帰って来なかった時があった。中学生にもなると既に個性が服を着て歩いているようなものになっていた僕らは、名松兄さんの真面目さを知っていたから家に帰って来ないことが心配で心配で溜まらなかった。三日後にボロボロで帰ってきた名松兄さんに父さんやおそ松兄さんたちが何があったのかと問いただしたが、名松兄さんはとうとう口を開かなかった。

 その時、陰から見ていた僕と十四松兄さんと一松兄さんは、名松兄さんの真っ黒でハイライトの入っていない瞳を見て恐ろしく思った。
 あの日から名松兄さんの表情は無くなった。比喩ではなく、本当に無くなってしまったのだ。何が起こっても、何をされても表情が変わらない名松兄さん。性格は変わらず優しいままだったが、ぴくりとも動かないその表情に恐ろしいという思いと、何故だか無償に悲しくなった覚えがある。

 僕らは七つ子だ。生まれた時から一緒で、酸いも甘いも共にしてきた。僕が皆で皆が僕、それは大人になった今でも変わらない。そんな中から、名松兄さんが一人だけ消えてしまったかのように思えたんだ。


 高校に入ってしばらくしたころ、名松兄さんの変化にもすっかり慣れて見た目だけは順調に日常生活を過ごしていた。しかしそれはあっさりと終わりを告げることとなる。
 それぞれのパーソナルスペースである押し入れの中の棚、何を思ったのかおそ松兄さんがおもむろに名松兄さんの私物を漁りだしたのだ。理由は確か「俺のゲーム機がない」だった気がする。でもそれはきっと嘘。おそ松兄さんはどうしても知りたかったのだろう。名松兄さんを変えてしまった何かの原因を。それを知ってしまったとき、その対象が物理的に存在してどうこうできる知った時、おそ松兄さんや僕らは一体どうしていたのだろうか。

 一番下の引き出しにはいつもなら鍵がかかっていたのに、その日は忘れてしまったのか鍵がささったままになっていた。生憎名松兄さんは出かけてしまっていた。これ幸いとおそ松兄さんはその鍵を回してかちりと開ける。中から出てきたのは一冊のスケッチブックだった。そっとそれを手に取ったおそ松兄さんの周りに他の兄弟が集まり、僕もその中に入る。名松兄さんはアート方面に興味があるようで、私物はスケッチブックやファインダー等が殆どだった。ゆっくりとそれをめくると、空気は一気に凍る。


「…なに、これ……」


 中にあったのは名松兄さんが描いた絵だった。相変わらずとても上手い絵。しかし、いつもの温かさはそこにはなく、首だけの女性が屈託のない笑みを浮かべているというほんのりと狂気を感じさせるものだった。名松兄さんのあんな絵は初めてだった。

 一枚一枚見て行けば、そこにまともな絵は一つもなかった。無残に踏みつぶされた花の上に子供が無邪気な笑顔で立っている絵、四肢のない男性が笑って水槽の中を泳いでいる絵、老人が笑って血の付いた刃物を宝物のように抱きしめている絵。
 すべてに共通するものは皆笑顔だということ。しかし、それ以外はすべて非日常の中にある狂気だった。

 最後の方のページはすべて真っ黒で塗りつぶされていた。十四松兄さんと僕は泣いていて、一松兄さんとチョロ松兄さんは目を逸らしていた。カラ松兄さんとおそ松兄さんは震える手で一番最後に書かれた文字を撫でていた。


 "なんで僕は生まれてきたの"


 拙い文字でそう書かれていて、周りは水が乾いた跡のようにぱりぱりになっていた。泣いていたのだろうか。中学のあの日を境に名松兄さんが無以外の表情を見せたことはない。
 その日は帰ってきた名松兄さんにずっとくっついていた。名松兄さんは不思議そうな顔をしていたが、嫌がる素振りは見せず逆にいつもよりもっと僕に構ってくれた。こんなに優しいのに、あんなに優しい人なのに、何故、彼は笑ってくれないのだろうか。僕らに、何も言ってくれないのだろうか。












「名松兄さん野球しよ野球!!」

「二人で野球はできないから、キャッチボールならいいよ」

「やったー!!!!」



 久々に名松兄さんと遊べることに全力で喜んでいる十四松兄さん。


 名松兄さんは一日の殆どを外で過ごしている。学生時代に買った一眼レフで写真を撮ったり、外の風景をスケッチしたりしているらしい。週に一度松野家ではその作品の展示会が行われる。展示会と言っても、おそ松兄さんが名松兄さんの作品を部屋いっぱいに並べて見ていくだけなのだが。それだけでも名松兄さんの描いた絵や取った写真はとてもきれいで見ていて飽きることはない。いくつか僕の私物棚の中にも名松兄さんから譲ってもらったものが入っている。

 十四松兄さんが名松兄さんと遊ぶなら、僕も二人に混ぜてもらおう。



「え〜ずるーい!ね、僕も一緒に行っていいでしょ?」

「トド松、今日確か女の子と約束あるんじゃ…」

「キャンセルが来たから平気!」


 まあ嘘だけど。別に乗り気じゃなかったし、断りのメッセージを送っておこう。
 いつもは邪魔してくるおそ松兄さんたちも今日は二日酔いで動けないだろうし、存分に名松兄さんを独占できる。…十四松兄さんも一緒だけど。


 最初は心配で気にかけていた存在の名松兄さんを恋愛対象として意識するようになったのはいつからだろうか。それは他の兄弟も同じようで、今では水面下の激しい攻防戦が繰り広げられている。加えて名松兄さんは朝は早いのでそう簡単に捕まってくれないのだ。事前に誘おうとしてもお互いが邪魔をするために上手くいかない。
 兄弟だとか男だとかで悩んでいた期間はほんの一瞬だった。「クズだから、まあしょうがないや」ですべてを済ますことができるあたり、クズも捨てたもんじゃないなと思う。


「……ねえ名松兄さん」

「どうした、トド松」


 ハイライトの入っていない真っ黒の瞳が僕の方へ向く。その瞳から目を逸らさずに僕はにこりと笑った。


「兄さんは、ずぅっと松野名松だよね」

「?…まあ、そうだな……?」


 意味の分かっていない様子の名松兄さんを見る。ああ、可愛いなあ。十四松兄さんと一緒に陰で歪んだ笑みを浮かべる。




 ぜったいにぜったいに逃がさない。



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