01


 ゆらゆらと心地よく揺れる脳内。まるで車の中にいるような、波に揺られているようなその感覚に私は浮上しかけていた意識をもう一度睡魔という海に引きずり込みそうになる。
 そろそろ起きなくては遅刻してしまう。いつもなら母が声を掛けてくれるが、今日は早番なので既に仕事に行っているだろう。起きなければいけないのに、身体が言うことを聞かない。あと五分くらい…。


 ……何故、揺れているのだろうか。


「んん……」


 私はやっとまともに動かせる程度に脳を覚醒させる。薄らと開いた目には薄暗い室内が目に入った。あれ、てっきりもう朝かと思ったのだが…。
 ぐっと身体を起こし、私は周りを見回す。


「…あれ、ここ……」


 私の部屋じゃ、ない。


 さっきはよく分からなかったが、意識してみればそこは私の部屋とは似ても似つかない場所だった。狭く、物で溢れかえってがたがたと時折揺れる。私は脳内で国内で有名な、森の主と出会う映画での冒頭シーンを思い出した。丁度、あんな感じで引っ越しトラックの中にいるような感覚だ。

 立ち上がろうとしたが、ガタンと揺れて転びそうになったので四つん這いで私は移動した。


 壁にぶち当たったところで、こんこんと叩いてみるが何も起こらない。スチールか鉄の感触だ。
 混乱している頭で、その場で呆然と座り込んでいるとまた大きく揺れ、私の手にふわふわしたものが落ちてきた。


「…これ…」


 目を凝らして見ると、それはぬいぐるみだった。それも、あの有名なゲームのシンボルキャラクターである『ピカチュウ』の。


「か、かわいい…」


 もこもこのそれを思わず抱きしめる。かわいい。

 そして次の瞬間私は我に返った。あぶないあぶない。名残惜しいがそのピカチュウ人形から手を離す。


「どこだここ…」


 手ごろな壁に背を預け、私は上を見上げる。
 記憶が正しければ私は昨日ちゃんと自分のベットで寝たはずだ。だが今はこの引っ越しトラック(仮)の仲にいる。潜り込んだ覚えもなければ引っ越しをするという旨を聞いた覚えもない。
 そもそも母は今日早番だと言っていた。

 ため息を吐いて膝に顔を埋めれば、少しだけ身体が後ろに傾く。車がブレーキを掛けたのだろう。ということは、目的地に着いたのだろうか。
 例えそうだとしても私はどうするわけでもなくその場に座り込んだままだった。


 ややって、目の前の扉が音をたてて開く。


「お疲れ様でーす!ミシロタウンに着きましたよ〜」

「……ミシロタウン…?」


 爽やかな笑顔の、引っ越し運送業者のような恰好をした青年がにこやかに言った。彼は上がり込むと近くの荷物を引き寄せて外に運び始める。
 邪魔になるといけないので取り敢えず私も外に出た。


 トラックから一歩踏み出すと、そこは自然が豊かな緑の町と言った風な外観だった。母の実家である田舎を思い出す。
 物珍しさからきょろきょろとしていると、聞き覚えのある声を掛けられた。


「ナナシ!おかえりー。やっと到着したのね」

「! お、お母さん…!?」


 そこには早番で有る筈の母が立っていた。
 いつもならスーツを着込んでバリバリに働く女という感じの人だが、今は緩めの私服を着ていて普通の女性にしか見えない。


「お母さん、今日早番だって……」

「何言ってるのこの子は。ほら、ボーッとしてないで自分の部屋を見てきなさい。二階にあるから」


 母に背中を押され、どうやら新しい我が家らしい家に入れられる。

 その中で見た光景。悲鳴をあげなかった自分をほめてあげたい。


「いやあ、ポケモンさんが働いてくれるから本当に助かるわあ」

「なっ…こっ……!」


 私は指を指しながらぷるぷると震える。母はまったく気づいていなかった。
 そこには、美しい肉体美を持った水色の人ならざる者が重そうな荷物を一人…いや、一匹?で軽々と移動させている。

 私の記憶が正しければ、あれは確かゴーリキーというポケモンだったのではないだろうか。



 …いやいやいや。そんなバカな。ポケモンはゲームの中の話であって現実にあってはいけない存在だろう。生態系とかそういうレベルじゃなくて全世界が変わってしま「あ、そういえばお父さんから貰った時計、ちゃんと時間合わせておきなさいよ」


「…お、おとう、さん…?」


 母の口から出たお父さんという言葉に私は動揺を隠せなかった。これ以上私のライフを削って何がしたいんだ母上。


 私は母子家庭で育った。私の父は私が生まれる少し前に事故で他界したらしい。


「え、お父さん生きてたの…!?」

「…貴方まだ寝ぼけてるでしょう。お父さんにそんなこと言ったらきっとこの世の終わりみたいな顔しちゃうわよ」


 ほら行ってきなさい、と私の肩を押して母は荷物の片付けに取り掛かった。一人取り残された私は二階に行く以外の選択肢がないので取り敢えず階段を上がる。


 上がった先にあったのは一人で使うには少し広めの部屋が広がっていた。…扉も無しで直で部屋につながっているのか。カーテンくらいあってもいいと思うんだが。
 部屋の内装も若干変わっている。あった筈の装飾品はすべてポケモン関連のグッズになっており、巨大なラプラス人形がでーんとそこに居座っていた。か、かわいい…。


 私は壁に掛けてあった時計を腕時計と同じ時刻に合わせた。壁に掛け直す時に隣に貼ってある世界地図のようなものが目に入った。時計を掛け終えた後、それの前に移動する。


「…ホウエン、の地図…かな?」


 角度を変えれば日本の南にある地方になる。


 いよいよバカにできなくなってきた。この状況が。
 ドッキリでしたーとかだったらどれだけ良いだろうか。だが、見た感じ先ほどのゴーリキーたちも本物のようだし、母は嘘を吐くのが下手なのであんな自然な動作ができる訳がない。


「…ジーザス…!」


 こういう時に言わなければいけない言葉を呟き、私は額を抑えながら階段を下りる。


「あ、ナナシ!ちょっとこっち来て、早く!」


 母からの要求に私は無気力気味にとぼとぼと向かった。

 母はテレビを前に私を手招きする。



「なに〜…?」


 最早すべてがどうでもよくなっている私は死んだ目で母のもとへと向かう。隣に立てば母が画面を指さして嬉しそうに言った。


「ほらほら、お父さん写ってるわよ!」


 それは少しだけ興味がある。私は瞳を画面へと向けた。


 …が、そこには綺麗なお姉さんしか映っていなかった。あれ、お父さん?

 …はっ!まさか…母は新しい扉を……!


「あらら…残念。さっきまで写ってたのに」


 ですよね。吃驚した。母がそっちに行ってしまったのかと思った。別に偏見はないが、心底吃驚した。


「あ、そうだ。ナナシ、お隣さんにご挨拶に行ってくれない?」

「ええ!?い、いやだ…何で私が…」


 知らない人と話すのが苦手な私が引っ越しの挨拶とか本当に無理だ。母が行けばいい。心の底から嫌だ。


「お母さんちょっと片付けで忙しいのよ。後から行くけど、先にナナシだけで行ってきてちょうだい」

「じゃあその時に私も行くよ」

「それじゃ失礼でしょ?ほら、お隣さん、貴方と同い年のお子さんもいるんですって」

「ま、益々嫌だ…!!」


 加えてこの仕打ちだ。あんまりだろう。

 同い年の子なんて死亡フラグしかたってない。男の子でも女の子でも私の人生の終わりしか見えない。旅に出たい今すぐに。


「私が片付けするからお母さん行きなよ!」

「貴方がキッチンの整理なんてできる訳ないでしょう」


 呆れながら母はキッチンへと歩いていく。ダメだ、もう既に私が行くことが決定してしまっている。それだけは阻止しなければいけない…!!



「で、でも…!」

「ナナシ?」

「あ、ハイ行ってきます」


 振り返った母の笑顔の奥に恐ろしいものを見た気がして、私は脳内を『お隣さんから逃げる』から『母から逃げる』にスイッチを切り替える。こういう時の母には何を言っても無駄だ。

 家を出て私はチラリとお隣さんの家を視界に入れる。

 都会の密集住宅よりは離れているが、他人とは言えない近い距離に建っているその家。ああ、もっと遠くに建っていてくれれば挨拶に行かなくて良かったかもしれないのに…!今そんなことを嘆いても仕方がないが、嘆かずにはいられない。
 そもそも、いきなりこんな訳の分からない場所に放り出されて訳の分からないあいさつをしなければいけないなんてどんな苦行だ。

 私の頭上をツバメのようなポケモン、スバメが悠々と飛んでいくのが見えた。

 変わってください 心の底から 思います


 オーキド博士の十八番の句を読んで私は腹をくくり、お隣さんの玄関へと一歩を踏み出した。



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