剥製
知ってる?街外れにある古いお屋敷があるでしょ。彼処には“剥製師”が住んでるんだって。最近引っ越して来たみたい。
浴室の清掃をしていた私に向かって、パートの佐藤さんがベッドメイクの手を一切止めずに声を上げた。そうなんですか、と気のない返事をしながら排水口の受け皿に溜まった茶色い髪の毛をビニールに入れてゴミ袋に放り込む。
街外れのお屋敷とは、朽ち果てた大きな日本家屋の事だ。近所の子供や暇を持て余した若者がお化け屋敷と呼んで探検に入る様な、何処にでもある取り壊しに至っていない廃墟である。私も一度、友人に連れて行かれた事があるが、黴臭くて玄関口に入ってすぐに引き返した覚えがある。あんな場所を買ってましてや住むなんて、其の剥製師は相当の物好きであると思った。
何故佐藤さんが其の話を私にしたのかと言うと、佐藤さんがお喋り好きであるのも理由の一つだが決定的な理由がもう一つだけあった。新しい住人が気になるらしい。
「若い男の人だって言うのよ。どんな人か気にならない?」
「うーん少しだけ…ですね」
「そうよね!名字さんも気になるわよね」
「えっ、あはは…」
そして今。バイト上がりの私は佐藤さんに押し付けられたお菓子を持って嘗ての廃屋の前に来ていた。曰く、「御挨拶にと言ってこれを渡し、剥製師を見て来て欲しい」
勢いに押されて頷いてしまったが、些か無理矢理過ぎないだろうか。まず近所に住んでいる訳でもない女が菓子を持って挨拶に来る事自体不自然だ。私だったら不審に思う。それに顔を見るくらいなら佐藤さんが行けば良いのだ。ただの仕事仲間である私に頼むべきことではない筈だ。とは言え律儀に街の外れまで来てしまった手前何もせずに帰るのも癪である。
屋敷は綺麗に整備されていた。漆喰も塗り直されて日光を反射しているし、剥げ落ちていた瓦も全て取り替えられ黒々と艶めいている。お化け屋敷の面影は一切無かった。
すっかり見違えたお屋敷の前で尻込みしていても埒が明かない。さっと渡してパッと顔を見て帰ろう。意を決してインターフォンを押せば、リンゴンというベルの音が屋内に響いてすぐに静寂を取り戻す。暫く待つと奥の方から足音が聞こえて来て、玄関で靴を突っかけるざらついた音の後で目の前の扉が細く開かれた。
隙間に見える瞳は黄金色に光っている。外が明るく内側が薄暗いから余計に瞳の色が際立って見えた。
「何か用か」
声は男の物だ。低く、されど若々しい妙齢の男性。彼は恐らく、この家の“剥製師”であろう。
「あの、御挨拶に来たんです。これ、お近づきの印に」
無理のある言い訳を違和感のない様に伝えると、扉が一度閉まって金属音が聞こえてくる。チェーンを外しているのだろう。また開かれた扉の向こうに立っていたのは背の高い真っ白な男だった。
真白というのは見たままの感想だ。頭髪が白ければ赤みのない肌も雪の様に白い。見に纏う衣服も白いシャツと白いスラックスで、瞳だけに色が有る。
「新顔の剥製師の家に態々挨拶に来るなんて変わってるな」
「これどうぞ。つまらない物ですが」
人から預かって置いてつまらない物呼ばわりは気が引けたがこういう場合はこの言葉が適切であるから致し方ない。差し出した箱を手に取って「へえ」と漏らした彼は、私に一瞥くれると家の中へ引っ込んでいった。もう帰ろう。そう思って踵を返すと、背中に向かって男が声を掛けた。
「上がって行かないのか?」
「え!?」
「貰ったままでは申し訳ない。茶を入れるから一緒に食べよう」
折角のお誘いを断る事は出来ない。手招く彼に従って、私は嘗て忍び込んですぐに帰ったお化け屋敷へ足を踏み入れていた。
「お嬢さんが来るならもっと片付けておけば良かったな」
案内されたのは玄関を入ってすぐ脇の居間の様な和室であった。黴の臭いは一切しない。藺草と花の香りがする綺麗な部屋だ。散らかっていると言っていたが物が少ない為そうは感じられない。厚みのある座布団に座って、茶の支度をすると言って部屋を出て行った彼を、落ち着きなく部屋を見回しながら待っていた。
「お嬢さん、名前は?」
「名字名前です。突然来てお茶まで頂いてしまってすみません」
「俺が招いたんだから気にする事はない。…ああ、名前を聞いておいて此方が名乗らないのは失礼だな。俺は鶴丸國永だ。知っての通り剥製を作って生計を立てている。手先が器用なもんでね」
「剥製は祖母の家にある狸の剥製しか見た事がないんですが、鶴丸さんはどんな物を作るんですか?」
「注文があれば何でも。最近はペットの遺体で剥製を作って欲しいって依頼もある」
「ペットの剥製を…色んな人が居るんですね」
「だな。俺としては死んだら荼毘に伏して天に返すのが一番だと思うんだが、形はどうあれ側に置いておきたい人間も居る。弔いは人それぞれだ。剥製作ってる俺が言っても説得力が無いとは思うが」
私が持ってきたベイクドドーナッツを口に放り込みながら鶴丸さんは剥製について、自分について、私が聞いたことを何でも教えてくれた。
そして私は彼の好意に甘えて、この日以降頻繁にこの屋敷に通い詰める様になっていった。
「俺の作業部屋に入ってみるか?」
鶴丸さんがそう言ったのは、初めて出会った日から半年程度経った夏の日の事だ。庭の木々は青々と天に向かって葉を広げ、遠くで鳴いている蜩(ひぐらし)の声が鼓膜を震わせる。陽が傾き天上が薄紫色に染まる頃、良く冷えた緑茶が注がれた硝子コップを傾けながら、薄く色づいた唇を吊り上げて悪戯な笑みと共に提案したのだ。
魅力的な誘いだ。半年間ほぼ毎日の様に此処に来ていたが、彼の作業部屋、つまりは剥製達が収められている空間に立ち入る事は一度として無かったのだ。それは私から頼むのは図々しいと分かっていて、彼もそれを口にしなかったから機会が無かった為である。黄金の瞳が私を射抜いて離さない。私の視線も彼から逸らす事は出来なくて、ただ一言「はい」とだけ口にして生唾を下した。
汗をかいた硝子コップの中で、氷がからりと音を立てた。
居間を出て、薄暗く長い鶯張りの廊下を真っ直ぐに進んだ先に、地下へ降りる階段がある。歩む度に板材が軋み狭い空間に反響して、無言の私達の間を通り抜けた。
暗い階段は、橙色の薄い照明に濡れて影を作る。動く度にゆらめく影は大きくて、別の誰かが後ろにいる様な気味の悪い感覚を覚えた。
「さ、此処だ。足元に気を付けて」
段差を下りきって振り向いた鶴丸さんに促されるままに室内へ入ると、其処には沢山の動物達がいた。猫や狸、雉子に熊、鹿や豚、虎と狼まで、狭い空間に並べてある。
「凄い…」
「さながら動物園だろう?」
「動物園より凄いです。距離も近いし、いろんな動物が同じ空間に居るんですから」
色んな動物の中には私も含まれている。小型大型、草食肉食関係なく、そして獣と人が檻や柵の隔たり無く触れ合える距離にいるのだ。
私は、すぐ近くにあった狼の剥製を覗き込んだ。綺麗に撫で付けられた毛並みと薄く開いた口から覗く鋭い犬歯は迫力があり、驚く事に眼孔に嵌った硝子玉は生の瞳の様に潤み、煌めいている。作り物とは思えない程精巧に再現された肉体に、感嘆せざる終えない。
「生きているみたい」
「この上ない褒め言葉だな」
軽く笑って謝辞を口にした彼は、「こっちにはもっと良いものがあるんだが」と言って、白樺の様な細くて白い指を私の手首に絡ませて、剥製達が居る部屋の奥へと誘う。
これよりも良いものであれば、非常に珍しい動物だとか、難しい技法を用いて作った剥製なのだろうか。まだ見ぬ彼の作品に、心が躍る。
黒いカーテンで仕切られた一画。たわむ布の前で足をとめ、私に身体を向けて鶴丸さんは笑っている。
「君はきっと驚くだろう」
「そんなに珍しい動物なんですか?」
「この生き物自体は珍しくはないが、この生き物の剥製は見た事が無い筈だぜ」
金の瞳は何処かぎらぎらとして見え、薄い唇から覗く白い歯が眩しい。
布とは反対色の指でたわんだ部分を掴んで横に引くと、中には美しい“剥製”達が並んで暗澹とした瞳を此方に向けていた。
白い裸体は見るからに柔く張りがはり、伸びた頭髪も黒々と艶めいている。
この動物を私は知っている。これは私と、鶴丸さんと同じ人間の遺体だ。
目にしたものを、脳内で処理しきれず、瞠目しながらはくはくと浅い息が漏れる。何故、この場にこれ程の数の遺体があるのか分からない。ゆっくりと彼に視線を向けると、彼もまた私を見ていた。
「な?驚いただろ?」
楽しそうに彼は笑う。半年間私をこの部屋に入れなかったのは、私という人間を観察して此れを見せても問題無い人物であるのか判断していた為だったのだろう。
「ヒトの剥製は難しいんだ。他の動物と同じ様に毛皮があるわけでは無いし、皮を剥いで舐めしてもすぐに破れてしまう。其処を克服出来ればあとは他と同じなんだが、此処まで来るのに長い時間を費やした」
「そう…なんですか」
「瞳は硝子を使う。目玉を加工しても良いんだが、俺は硝子が好きなんだ。この女の目を見てみろ。生きていた時よりも活き活きとしている」
彼は一体の、一人の少女の剥製の瞼を指でこじ開け、眼球を露呈させた。覗き込めば、濃青の虹彩の中に大きな深い瞳孔が沈んでいて、少しだけ濡れている。けれども彼が言った様な正気は感じられず、どう見たって彼女は死んでいるのだ。これは作品というにはあまりに残虐で非人道的な、ただの野蛮な嗜好の塊である。
青褪め一歩退いた私に気がついたのか、鶴丸さんは少女から離れて私の側に寄る。しっかりと握られた手首が軋むほどに強い力で私を逃すまいと引き留めた。
「誰にも言いません、だから…もう帰ります」
「帰る?」
「気分が悪くて…」
「それはいけない。気分が優れない女を一人で帰すわけにはいかないな。そうだ、君も俺の家で暮らせば良い。なに、寂しくはないさ。こんなに友達が居るんだ。それに俺が毎日会いに来る」
「嫌、離して。やめてください、こわい」
「怖がる事は無い。ただ少し身体を弄るだけで、死や老いを超越した完全な姿を手に入れる事が出来るんだからな」
細い身体の何処からそんな力が湧いているのか分からない。振り解いて、突き飛ばして逃げ出そうと踠いても、彼は一切退かなかった。其れどころか手首を引き寄せられ、体勢を崩した私を後ろから抱き込んで締め上げる。「暴れないでくれないか」と吐息と共に吹き込まれた言葉は何処かか甘やかな響きを孕んでいて、首筋にちくりと感じた鋭い痛みの後で、薄暗かった室内がどんどん闇に沈んでいるのが見えていた。
ねえ知ってる?剥製師のお屋敷の話。そうそう、20年くらい前はあそこに剥製師の男が住んでいたらしいんだけどね。それがまた綺麗な顔の男だったんだよ。今は廃墟になってるけど、屋敷の地下に忍び込んだ子が見たんだって。何って剥製だよ。動物の剥製が置き去りにされてて、その奥に人の死体がたくさん座ってるんだって。…誰に聞いたのか?友達の友達だけど。ねえ、今度忍び込んでみない?肝試しに、あの子も誘ってさ。