秘密

※アラサー極道シリーズが出てすぐあたりに執筆したため須ニキのキャラが今と少し違います。ご容赦ください。
→2024.04 修正しました


 行燈の橙色の灯りに濡れた室内で、白い腕に抱かれた鳳凰が鳴く。
 その声は苦しげで、押し殺す様にくぐもっている。
 か細く開いた襖の隙間に瞳を押し付け猫の様に室内を盗み見る俺は此処には居ない。居てはならない。居ると悟られてはならない。
 本来なら足を運ぶ事機会自体が少ないこの場所で神経をすり減らし注意を払いながらも動けないでいるのは、隙間の向こうで白い腕の持ち主と鳳凰の描かれた背を持つ男の営む行為が形容し難いほどに淫らで、美しいからだ。



 呼気すら凍る程に冷え込んだ師走の或る日。天羽邸は早朝にも拘らず部屋住の衆が忙しなく働いているせいで、外の静寂が嘘の様に賑わっていた。
 活動するには些か早い時間ではあるが眠気は一切ない。それは前を歩く野田の兄貴も同じである。
 俺と兄貴が邸を訪れた理由が他でも無い親父からの呼出だからだ。
 事務所ではなくこちらへ呼び出されるという事は恐らく急ぎの仕事なのだろう。何かシマでトラブルが起こったか、或いは早急に始末しなくてはならない人間が出たか。どちらにせよ親父の命令は絶対だ。必ず遂行しなくてはならない。
 あれこれ思考を巡らせながらも足早に廊下を進んでいると、俺達の向こう側からやってくる人影があった。
 廊下を磨いていた舎弟達はその静かな足音を耳にするなり、まるで大名行列に遭遇した町人の様に素早く隅へ寄り恭しく首を垂れる。
 人影は女性である。平伏す男共に丁寧に挨拶を返しながら足音も立てずに静かに此方へ向かってきた。
 俺達も舎弟と同じく彼女の導線を塞がぬ様廊下の隅に寄り視線を下げる。
「お嬢、おはようございます」
 野田の兄貴と俺の声に、視界の端に現れた彼女は歩みを止め「おはようございます」と薄い笑みを見せた。
 天羽名前。俺達が所属する天羽組組長が溺愛する愛娘の名。そして目の前にいる女性の名である。
 雪の様に白い顔に黒々とした切長の目元はやはり母である姐さんに似ているが、憂いを帯びた面持ちと薄幸そうな雰囲気は彼女のみ持ちえる物だ。
「お仕事ですか?」
「いえ、今日は休みなので少し出かけようと思って」
「お一人で……?」
「その予定だったんですが……母に誰か連れて行けと言われてしまって」
 うんざりした様子でお嬢は言うが、姐さんとしては最近敵対組織の動きが活発になっている事を考慮しての判断だろう。渡世では組員の家族などの堅気に手を出す事は御法度とされているが、そんな事にはお構いなく仕掛けてくる外道も存在する。溺愛する愛娘に何かあってから後悔したのでは遅すぎるのだ。
「誰か……俺と野田の兄貴は親父に呼ばれているので、他にとなると」
「ああ、一緒に行く人は決まってるので大丈夫ですよ。ありがとう」
「お嬢、御言葉ですがその辺の若い衆ではお嬢の護衛は務まらないかと」
 無礼を承知で進言した俺にお嬢は困った様に笑い、百合の花弁の様に白い手で俺の背後を指差した。
 それを見た瞬間、俺は自分の馬鹿さ加減に心底うんざりした。そうだ、お嬢の護衛にはこの人が居るではないか。
 背に感じる気配は酷く威圧的で、正直振り返るのを戸惑うレベルだ。しかし振り向かなくてはならない。振り向いて頭を下げ、挨拶をしなくては。彼の機嫌をこれ以上損ねるのは命に関わる。
「ァ、和中の兄貴……おはようございます」
「朝から騒々しいぞ小峠」
 声を絞り出し恐る恐る振り返った先には、いつもの赤い詰襟のシャツではなく黒のシャツとハイウェストのスラックスを身に纏い、簡単に畳んだ黒いロングコートを携えた和中の兄貴が不機嫌そうに俺を見下ろしていた。
 兄貴達は皆派手な装いを好むが、和中の兄貴はその中でも群を抜いており、赤服と煌めく金髪は目立ってしまう。正直服装の色味を少し抑えたところで、恵まれた上背と体格、そして顔の造形の美しさはそのままであるので周囲の目を惹く事は避けられないと思うのだがそこは黙っておく事にした。
「今日もお前が護衛か和中」
「はい。空いているのが俺と須永の兄貴だけでしたので」
 和中の兄貴の答えに、俺も野田の兄貴も妙に納得した。須永の兄貴はお嬢に礼を弁え俺達がそうする様に敬意を持って接するが、須永の兄貴はお嬢を前にするといつも以上に挙動がおかしくなる為、護衛は和中の兄貴の方が適任である。
 恐らく姐さんから話があった際、自分の次は須永の兄貴に話が回ると気付いた和中の兄貴には断る選択肢は無かったのだろう。
 終始不機嫌そうに会話をしていた兄貴は僅かに表情を緩め(とはいえ無表情には変わりないのだが)たかと思うとお嬢が肩から下げていた鞄をさりげなく受け取り手を差し出す。
「お嬢、支度が整いました」
「ありがとうございます。じゃあお二人とも、お仕事頑張ってくださいね」
 お嬢もお嬢で差し出された手に自分の手を重ね、俺達に和かに言い放つと兄貴の手に引かれるように軽やかな足取りでその場を後にした。
 絵になる二人の後ろ姿をぼんやりと眺めていると後頭部に野田の兄貴の拳が飛んできた。
「な〜にボサっとしてんだコラ。何のために来たか忘れたんか?お前はにわとりなの?チキンなの?」
「す、すいません」
 お嬢は和中の兄貴と何処へ行くのだろうなどと言う疑問は兄貴が懐に手を入れたのを目にした瞬間に吹き飛び、兄貴から逃げる様に親父の元へと急ぐのだった。


 任されていた仕事が完了した旨を親父に報告した後、俺は弟分の北岡と共に事務所の廊下を歩んでいた。
 縁側に嵌め込まれた窓の外はすっかり暗くなっており、腕時計を確認すれば時間は既に二十時を回っていた。そういえばまだ夕飯を口にしていない。
「北岡、飯でも行くか」
「いいんですか!?」
 北岡は俺の言葉に、先程までの疲労困憊といった顔を引っ込め途端に良い笑顔を見せて喜ぶ。他の兄貴分達からも可愛がられるのはこの素直さが理由だろう。
 そうと決まればさっさと移動するに限る、と真っ直ぐ玄関まで向かおうとしたのだが、その途中、部屋の襖が開け放たれている事そして部屋の中にいる人物に俺は気付いてしまった。
 普段談話室として使われている洋室の高級そうなソファに腰掛けていたのは赤いシャツに特徴的な金髪の人物。他でも無い和中の兄貴だった。
 こんな所で何をしているのかという疑問はあったがまさか気付かないふりをして通り過ぎる事も出来ず声を掛けた。
 俺はまた、行動の後でその選択が間違いであった事に気付いたのだ。
 ゆったりとした優雅な所作で視線だけをこちらに向けた兄貴の顔はそれ程不機嫌そうでは無かったが、状況が不味かった。
 渡世で日本刀の和中といえば知らない者はいない程の狂人として知られる兄貴の腿の上に女性が頭を乗せて眠りこけている。
「……静かにしろ。お嬢が起きる」
「失礼しました。お嬢、体調が悪そうですが……」
「頭痛が酷いらしい」

 お嬢はすうすうと規則正しい寝息を立てているが、表情は穏やかとは言えず、形の良い眉を寄せ険しい顔をしている。仕事帰りに事務所へ寄る事がある為、仕事でお疲れなのかもしれない。
 兄貴は艶めく黒髪を壊物を扱う様な慎重な手つきで何度も撫で、普段は絶対に見せないであろう慈愛に満ちた柔らかい表情で彼女を見下ろしていた。
「お嬢と兄貴は仲が良いんですね」
 宗教画の様な美しい光景を眺めていると、今まで黙って見ていた北岡が突然切り込んだ言葉を発した。俺は思わず振り返り「馬鹿!」と叫ぶ。
 北岡の言葉か俺が大声を出したからか、はたまた何方もが要因かは分からないが、和中の兄貴は先程までの穏やかな表情を引っ込め不快感を顕にした顔で俺達を睨みつけた。
「何?」
「あ、いや、お嬢の護衛は必ずと言って良いほどの頻度で和中の兄貴が担当するじゃないですか。それにお嬢も他の兄貴達といる時より和中の兄貴といる時の方が気を許してる様に見えるというか……」
「おい!その辺にしとけ北岡!兄貴!邪魔してすみませんでした!失礼します!」
 口が止まらない北岡の襟首を掴み上げ、俺は駆け出した。あのまま留まっていたらダルマにされていただろう。
 兄貴はお嬢と仲が良いと思われたく無いのでは無い。きっと自分とお嬢の関係に他者が興味を持ち、ひとときの穏やかな空間に介入しようとする事が気に入らないのだ。



 月に数回、会合などで親父が邸を留守にする日がある。そういった日は俺や兄貴達などの中堅が邸を見回る事になっていた。部屋住が居れば充分だろうと、態々警備を敷く事はしなかったのだが、つい先月天羽邸に空き巣が入った事で「姐さんとお嬢が居るのにこれでは危険だ」との事で新しく取り決められたのだ。
 今晩の担当は俺と須永の兄貴である。
 談話室のソファにふんぞりかえり占星術の雑誌をパラパラと捲り欠伸をする須永の兄貴は三十秒ごとに「ねみィ」と漏らし、時折思い出したかの様に茶を啜っていた。
「このまま何も無いといいなあ。今日は星占い34位だった。もしドンパチやるなら日付が変わってからがいい。明日のオレは1位だから」
「左様ですか。俺はそろそろ見回りに行ってきます」
 恐この会話には特に意味は無い。兄貴は眠気をなんとか誤魔化すために口を動かし続けているのだろう。
 その後も欠伸の合間に、運が向いてくる方角がどうとかラッキーカラーなどと中身のない話を続けた後で、突然「おッ!そーだ!」と大声を上げたかと思うとソファから飛び上がり、何やら焦った様子で此方に膝を向ける。

「どうしたんですか」
「そういえばだね華太くん。君に教えておかねばならない事があるのだよ」
「はい」
「おやっさんの家の警備は初めてだろ?この屋敷には、行ってはならない場所がある……離れだ」
「離れ……ですか?」
「そうだ。離れには近づくなよ」
「なぜ、」
「なんでも!だ!」
 何とも理不尽ではある。納屋は一応見回る事になっていたが敷地の端にあり、物置として使用されている為特に近寄る理由はない。助言を賜った礼を残し見回りへと向かう。邸内をひと回りし玄関や窓などあらゆる侵入口の施錠を確認した後で、事務所から天羽家の居住区域へと続く渡り廊下を歩いていた。
 姐さんやお嬢が寛いでいる筈の屋敷だ。良く磨かれた木目の床板をなるべく音を立てないよう慎重に踏みながらふと窓の外に目をやれば濃紺の夜空に煌々と照る月が俺を見下ろしている。不気味な程に静かな夜だ。
 背の高い松の間に聳える月光を反射し一際存在感を放っている漆喰の壁。あれは須永の兄貴が近寄るなと言っていた離れである。兄貴の言いつけ通り視界に入れるだけで近寄りはせず、通り過ぎる予定だった。
 そうしなかったのは、本来黒である筈の窓にぼんやりと明かりが灯っていたからだ。
 俺は相当悩んだ。勿論兄貴の言いつけは絶対だ。逆らうなど天と地がひっくり返ってもあり得ない。しかし見回りルートに明らかな異変を発見してしまったのだ。賊が潜んでいる可能性もある。放置することは出来ないだろう。
 庭砂利を踏み一歩一歩離れへと近付くが、離れからは特に何も聞こえない。入り口の引き戸を開けば以外にもからからと簡単に開き、月光に照らされていた廊下とはうって変わって室内は僅かに家具の輪郭だけが見える程に暗かった。
 ここは物置になっていた筈である。それも組とは関係のない天羽家の家財が収納されているだけであるので組員は離れには用がない。勿論俺もここに足を踏み入れるのは全くの初めてである。
 一階は三部屋あった。しかし何処も家具や衣類、生活用品の備蓄などの置き場に使われており、窓もきちんと施錠されカーテンも締め切られている。これでは二階も同じだろう。
 しかし確認せずに戻り万が一二階の一室の窓が開いていてそこから何者かが侵入していたらと考えると、確認しないという選択肢は無い。
 二階も同じく三部屋あり、予想通り一番手前の部屋と真ん中の部屋は階下の三部屋と同じく物置として使用されていた。さっさと一番奥の部屋も点検して戻ろうと真ん中の部屋から出て残す一室の前に立った時、中から小さな鳴き声が聞こえてきた。
 猫の様な、子供の様な、高く小さな鳴き声だ。
 背筋に冷たいものが走る感覚がした。この声はもしやこの世のものでは無いかもしれないと大の大人が考えてしまっていた。
 そう、これは女の声だ。
 良く見れば俺の目の前にある襖は僅かに開いており、隙間から橙色の灯りがちろちろと揺れているのが見える。
 怖いのなら覗くべきでは無いが、何か異常があるのならこの目で見て兄貴に報告しなくてはならない。もしかしたら離れに近付いた時点でシメられるかもしれないが、放置して逃げたりして組に何かあったとしたら須永の兄貴以外にも殺される。俺にとっては幽霊よりも兄貴達の方が恐ろしいのだ。
 早る心臓を服の上から抑え、意を決して覗き込んだその先には幽霊など居なかった。
 部屋の隅で燃える行燈の光は室内を淡く照らしている。畳張りの和室の中央に敷かれた布団。そこにいたのは幽霊などではなく、荘厳な翼で優美に羽ばたく鳳凰だった。
 白樺の様なか細く白い腕に抱かれた鳳凰は、その姿に似合わず小さく押し殺す様な鳴き声を発している。
「あ"っ!、ひィ」
 眉根を寄せ苦しそうに荒く息をする女の白い顔がぼんやりと浮かぶ。その黒髪が行燈の灯りに濡れて艶を放っていた。
 女は鳳凰が描かれた広い背中を撫でる様に何度も手の場所を変えては上下に揺れる身体を支えようと必死に縋り付いている。
「名前」
「っん、あッ、うぅっ、なまえ、っやだ」
「お前が名前で呼べと言ったんだろう」
「今は、や、ん"ッ、ーッ!!」
 男が口にした名に我に返った。名前とはお嬢の名前だ。そういえば以前野田の兄貴が言っていた。離れにはお嬢の部屋がある筈で、苦悶とも快楽とも取れる表情を見せる女の顔は確かにお嬢のものである。それに、女が縋り付く立派な鳳凰の墨が入った背中は和中の兄貴のもので……。そこまで考えて息を呑む。
 俺は此処には居ない。居てはならない。居ると悟られてはならない。
 須永の兄貴は密やかに営まれるこの情事を知っていてあんな警告をしたのだろうか。
「ふ、あぁッ」
「あまり大声を出すな。今晩は小峠と須永の兄貴が見回っている。気付かれて困るのはお前だ」
「そんな、んッ、蒼一郎さんだって、困るくせに…っあぅ」
 和中の兄貴の吐息が混ざった低い声で自身の名を呼ばれた瞬間に、存在を気取られたのかと思い俺の心臓は激しく脈を打った。
 バレたら殺される。イカ飯どころじゃない。細かくミンチになるまで切り刻まれる。
 脂汗をかいた背にシャツが張り付き異常なまでの不快感を覚え、もう去ろうと隙間から目を離すその瞬間、兄貴の肩に頭を置いて喘いでいたお嬢が俺を見つめて微笑んだ様な気がした。

「おっ、おおおおおハヨございますおじょッ」
「おはようございます、お嬢」
 須永の兄貴と和中の兄貴が、すっかりと身支度を整えて居間にやって来たお嬢に挨拶をしたのはほぼ同時であった。
 未だ眠気が覚めないのだろうお嬢は白く細い指で目元を擦りながらちらりと俺を見た後ですぐに笑顔になり、自分の食事が用意されている席に腰を下ろす。
 お嬢が箸を持ったのを見届けてから俺も兄貴達もそれに倣って食事に手をつけ始めた。
「おはようございます。和中さんもいらしたんですね。昨日は小峠さんと須永さんが見回りだと思ってたのに」
「姐さんからお嬢を駅まで送る様仰せつかっていたもので」
「ああ、母はもう出掛けたんですね」
「はい、一時間ほど前に」
 内心驚いたが動揺を悟られては昨夜の努力が水泡と帰す為平静を取り繕う。須永の兄貴は無反応に焼鮭を突いている。
 和中の兄貴が邸にいる事をお嬢が知らない筈は無いのだ。昨夜睦み合っていた仲なのだから。
「母はまだ私を十五歳の女の子だと思ってるのね」
「……親にとって子供は幾つになっても可愛いものです」
「さ、最近じゃ京極組が出張って来てますから、ネ……用心しましょう、ネ……お嬢」
 三人の会話はまるで水中で聞いているが如く、くぐもって聞こえた。何故お嬢と和中の兄貴が?須永の兄貴は何故知っていた?
 疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「小峠さん」
「は、はい!」
「具合でも悪いんですか?」
 放心していた俺にお嬢が声をかけた。形の良い眉の端を下げ、様子のおかしい俺を気遣ってくれているらしい。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか……昨日はあまり眠れなかったんじゃ無いですか?今日はゆっくり休んでくださいね」
 朝日に照らされた慈愛に満ちた微笑みと昨晩の妖艶な笑みが重なり、俺は咄嗟にお嬢から視線を逸らしてしまった。