Bibliotheca04
「まさか、緊張してるのか?」
「初めてでは無いけど久しぶりだから…」
オフの日の私室にて、緊張で体温が下がり手を握りしめる私をカドックが笑った。
壁に向かう様に設置されたデスクの上。必要な道具は全て消毒を済ませてペーパータオルの上に並べられ、硝子の小さな器に注がれたエタノールの底には銀のサージカルステンレスが沈んでいる。足のついた鏡の中の私は顔を強張らせ、少し青ざめて見えた。
黒い手袋を嵌めたカドックの手には銀色に鋭く光る14Gのニードルが握られていて、反対側の指で耳の形を確かめる様に、消毒液を含ませたコットンで消毒をした私の耳をするりと撫でる。
事の発端は3日前。休憩中にSNSを見ていた私は、唐突にピアスを増やしたくなった。学生時代にハマって軟骨やロブに幾つかホールを拵えたが、今はめっきり機会が減りピアス自体入れる事も少ない。しかしその名残で必要な道具は全て手元に揃っており、いつでも開けられる状態にあった。あと必要なのは勇気だけだ。
10個以上穴を開けても、ピアッシングに伴う痛みに慣れる事は無い。その上私は力が無いので、軟骨に開ける場合は最後までニードルを通すのにかなりの時間を要してしまう事を覚えていたから、少し怖気付いてしまった。
それでも一度「開けようかな」と思ったら、その欲は止まらないものだ。自分で開ける勇気が無いのなら他の誰かに頼めば良い。けれどもピアッシングにもセンスは必要で、全くの素人に頼むのは気が引ける。真っ直ぐに刺さなければ当たりが逸れて綺麗にピアスが映える穴を作る事ができないし、血も沢山出てしまうからだ。其処で思いついたのがカドックゼムルプスである。記憶が確かであれば、彼はロブとインダス、マディソンなど様々な場所にピアスをつけていた筈だ。彼の性格上、医者で開けてもらうなんて事はせず自分で開けている可能性が高い。であればピアッシングにも慣れている筈だと、休憩中に彼を探し回りピアスを開けて欲しいと頼み込んだのである。
カドックは、初めは嫌がった。面倒臭いとかそう言う理由ではなく、「他人の女の身体に傷をつけたく無い(大変なことになるから)」と断られたが、別に私は他人の女では無いしその他人がデイビットを指しているのならマディソンを引きちぎるぞと半ば脅して約束を取り付ける事に成功したのだった。
そしてお互いが休暇である今日。私の部屋に彼を招き入れ施工を開始した。
黒い水性マーカーで大体の場所に印をつけ、鏡で見た後にカドックに確認してもらうと、彼は「トラガスくらい自分で開けろ」と溜息を吐く。
「トラガスだからお願いしてるんでしょ。ヘリックスとかロブなら平気だけど、此処は厚くて力がいるんだから」
「はいはい。まあ耳なら何処でも開けられるけど、座ったままだとやりづらい。耳を上に向けて横になって欲しいんだが」
彼の言葉に頷いて椅子から立ち上がり、起床時に綺麗に整えたベッドの上に椅子に座って作業をする彼が届く様、淵ギリギリに横になった。
顔を彼の方に向けて彼の挙動を伺っていると、横たわる私に少し呆れた様な視線を寄越しながらも、髪の毛が耳に触れない様に優しい手付きで後ろに流し、トラガスの裏に小さく切って消毒をした消しゴムを当ててニードルの先端を皮膚に埋め始める。ちくりと鋭い痛みが走り、しゃりしゃりと音を立てて軟骨に潜って行く。痛いと言うよりも患部が熱い。
「痛いか?」
「そんなに痛くない。けど熱い」
ラジオペンチで曲げたニードルは傷口を順調に滑り、とうとうお尻の部分まで貫通した様だった。消しゴムを先端から引き抜いてニードルを耳につけたままデスクに手を伸ばして消毒液の中からサージカルステンレスのピアスを取り出す。丸いネジ頭のキャッチを片方外してニードルのお尻に押し当て、いざ接続という瞬間に私の部屋の入り口が勢い良く開き、デイビットが入室してきたのだ。
私もカドックもびくりと肩を跳ね、呆然とデイビットを見ていた。彼の表情は何処か鬼気としている。面倒な事になったな…と思いつつも、耳に針を刺したままでは居たく無かったのでカドックには続きを促し、私はデイビットに適当に声を掛けた。
「何か用?」
視線だけを向けて問いかけると、彼はゆっくりと此方に向かってきて、私の身体の横に空いたスペースに腰掛けカドックが作業している手元を覗き込んだ。
「此れは、何をしている」
「見てわかるでしょ。ピアス開けてもらってる」
「人体は穴だらけだ。その上自分で穴を増やす事に何の意味があるんだ?」
「元々穴だらけなんだから自分で開けたって変わんないでしょ。本当に何しに来たの?」
「用が無ければ会いにきてはいけないか?」
「いけない」
「来て良かったな。オレの預り知らぬ所でオレ以外の男に傷をつけさせているのは問題だ」
「これ。これを危惧してたんでしょカドック」
「おい僕に話を振るな」
絞り出す様に答えた彼は酷く迷惑そうだ。気持ち分かるよ。厄介な男だからね、デイビットは。
震える手で何とかピアスを通し終え、キャッチも嵌めてベッドから離れたカドックは、デスクから鏡を取って私に完成形を見せた。トラガスには銀の玉がちらりと光っていて可愛らしい。けれどもその先端は真っ赤に腫れ上がっていて、じわりと鈍い痛みが熱と共に皮膚を侵食していた。
「かわいい!ありがとね。今度お礼するから」
「期待しないで待ってるさ。僕は帰るからな」
手袋を脱いで足元のゴミ箱に放り込むと、私とデイビットを一瞥して彼は足早に部屋を出ていった。取り残された私はと言うと、デスクの上の道具と、面倒臭いデイビットの処理をしなくてはいけない事に若干の憂鬱を覚えて溜息が漏れる。
ベッドから降りて使用済みのニードルや血液の付着した消しゴム、コットンを危険のない様に別に纏めて、余ったエタノールはティッシュペーパーに染み込ませてごみ箱に捨てた。硝子の容器を、ピアッシングの道具を纏めて片付けようとした手を、デイビットの大きくて熱い掌が制し、私は驚いて思わず彼を見上げていた。
彼の顔に表情は無い。只黙って新たに開いた穴に収まる銀色を見つめている。
「もう一つ開ける気は無いか」
デイビットが口にした言葉に、更に驚いた。意味を見出せない行為だと言って退けた癖に、私に新たなピアス穴を開けさせようとしている事もそうだが、紫の瞳の色は真剣其の物で、有無を言わせない凄味を孕んでいるのだ。
こんなにも彼に対して“恐ろしい”と感じた事は今まで無かった。私を追い回す彼は鬱陶しいだけで怖くは無かったから。愛を告げる時も嫉妬して文句を言う時も、その瞳には暖かさと慈愛があったのだ。爛々とした獰猛な瞳を、私は見た事がない。いつもの軽口で遇らう事を忘れた私をベッドに引っ張り、体勢を整えようと動いている間に箱の中から鉗子とニードルを取り出して私の上にのし掛かって動きを封じた。
「やめてよ」
聞き届けられる筈もないと分かっていたから、喉の奥から絞り出した声は弱々しく情けない物だった。彼の顔が近付いて私の顔に影を差す。ゆっくりと彼の指が触れたのは私の唇であった。
「口を開いて舌を出せ」
私は首を振り其れを拒む。彼が何をしようとしているのか察してしまったからだ。けれどデイビットは諦めず、私の鼻を摘んで強制的に息を止めた。口を開ければ舌を引っ張り出されるから限界まで呼吸を止めて耐えたが、とうとう肺の酸素が底を尽きて思い切り口を開いてしまった。僅かに開いた隙間に彼の指が差し込まれ、外に出された舌が鉗子で挟まれ固定される。その力は強く、唾液で滑る筈であるのに幾ら踠いても舌が口内に戻る事は無かった。
騒いだところで彼は止まらない。薄く唇を開いて
涙を零しながら懇願しても粘膜に触れる針先はずぶずぶと肉に埋まっていく。カドックの時とは比にならない痛みに瞼を閉じて早く彼の手が止まる事を祈りながら貫通を待った。患部から湧き出す血が下の裏を伝って喉の奥へと流れ込み、鉄臭くも甘い香りに嗚咽しそうになる。
ふと、彼の動きが止まって口から指が離れていき、瞼をあげるとデイビットは涙を流す私を覗き込みながらピアスは何処にあるのか問うた。力なく指を持ち上げてデスクの上にある箱を指差せば、彼は私の上から降りて新品のピアスが入った小さなビニールを手にして側に戻ってきた。
「どれを使えば良い」
「…これ」
鉗子を押さえながら起き上がり、ビニールを漁って取り出した14Gを手渡す。ニードルが刺さったままの舌からは血液と唾液が混じった薄い赤がだらだらと顎を伝って下へ落ちていった。
キャッチを外したピアスと鉗子を手に持って天を仰ぐ針尻にピアスの先端を当てながらゆっくりとニードルを押し出すと、螺子の部分が傷口を抉って鋭い痛みを齎した。
ニードルが床に落ちて小さな音を立てたのを確認し、デイビットは鉗子を外して下の裏にキャッチを着ける。唾液で滑るのか時間を要しながらも何とか嵌め込み、やっと私の舌は解放された。
渇いた舌を引っ張ると、歯に金属が触れてかちりと軽い音が鳴る。デイビットを涙目で睨みつけながらその様を見せつけると、彼の喉仏が上下したのが見えた。
「痛い」
舌が腫れて上手く言葉を紡ぎ出せない。それでも言いたい事は伝わっただろう。恐ろしいと感じた彼はもういなくて、罪悪感を顔に貼り付けたいつものストーカーが椅子に腰掛けて熱っぽい視線を向けている。
むこう週間程度は腫れは退かないだろう。何を食べても患部が痛んでピアスが邪魔をするのだ。話をする度に口内の異物と腫れのせいで今日の事を思い出す。呪いの様だと思った。
彼の指が、涙が溢れる目尻に触れたのを私は拒まなかった。その行為が、飼い主の手を噛んで申し訳なさそうに患部を舐める犬に似ていたからだ。別に私は彼を好ましく思っては居ないし、普段から近寄るなと拒絶している。言った通りに鬱陶しい存在だった。其れでも触れる手を叩きつけて出て行けと罵らない理由は自分でも理解できない。
目尻を這っていた指が顎を撫でて後頭部へ回り、彼の唇が唾液に濡れた口元に触れた。視界いっぱいに広がる金色の髪の毛は整髪料で纏められていてちくちくと肌を刺激した。
水音を立てて舐めとられる体液。舐る舌の生温い温度。時折鼻を掠める彼の汗とムスクが混じった甘い香り。何もかもが初めて知る感覚だ。全てが情事を思わせる淫靡さを孕んでいる。
私から離れた彼は、長い睫毛を伏せて謝罪を述べた。身勝手に身体に穴を開けた事に対してなのか、口元を舐めた事を謝っているのかは分からない。どちらに対しても謝っているのかもしれないが。
「粘膜のピアスは今すぐ外せばすぐに塞がる。外して欲しい?」
「おまえが望むならすれば良い。止める資格はオレには無い」
「貴方が開けた穴なんだから貴方が決めて」
口内に違和感を抱えながら厳しく言い放つと、彼は少し考えてから外さないで欲しいと言った。私は浅く頷いた。そして、これから事あるごとにこの金属を見せてお前を脅してやると告げる。それは傷をつけた後ろめたさで私に対する付き纏い含む迷惑行為を少しは改めさせる事が出来るだろうと踏んだからだ。
それが私の見当違いであった事はすぐに分かった。オフェリアとの逢瀬を邪魔する彼に舌をちらつかせ、図書室に来て作業の手を止めさせる彼にピアスを見せる。そうすると彼は一瞬動きを止めるのだが、その表情は明かに欲を湛えているのだ。結果、付き纏い含む迷惑行為が収まる事は無く態々部屋に来てピアスを見せろと言い始めた。自分が開けた穴を確認しに。女につけた所有印を見に毎夜毎夜私を訪ねる。これは私の失策であった。あの時外して閉じてしまえばよかった。完成したピアスホールをグリグリと弄っても穴が埋まる事は無くて、カドックに泣き付いたら深い溜息だけが返ってきた。
「お前はデイビットの事を何も知らないんだな」
「知る訳ないでしょ。自分のストーカーに詳しい人間が居る?」
「よく知りもしない人間にセンタータンを開けさせる女もそう居ないけどな」
「だって怖かったんだもの。ぎらぎらしてて」
カドックはまた溜息を吐く。絶対的にデイビットが悪いのに何故私が呆れられなくちゃいけないのだろう。何だか腹が立ってきたのでオフェリアを訪ねてデイビットに無理やりピアスを開けられた事をリークしてこっ酷く叱られる様を見て気分を晴らそうかとカドックに伝えたら、彼は今度こそ席を立って「底無しの馬鹿」と私を罵倒してその場を去っていった。