傘をさすのは嫌だと、子供のような我儘を言ってみた。
赤い番傘は彼の白い髪に白い肌、白い着物に大層映えて美しかったのだけれど、あまりにも、そう、あまりにも完成した一枚の絵のようであったものだから、躊躇したのである。
柄を肩にかけて振り向く表情はいつものもので決して気取ったものではなかったけれど、傘の赤を仄かに受ける姿はまさしく神様のような高雅さを纏っていて、傘を伝い落ちる雨粒でさえ鶴丸さんの為に誂えられたものであるかのような幻覚を見た。

だから私は、一歩を踏み出せなかったのである。

ざあざあと降る雨の音が全ての雑音をかき消しているように静まりきった本丸。その縁側で立ち尽くす私に手が差し伸べられる。
どうした、散歩がしたいんだろう?つい数分前に私が言ったことをなぞる低い声は右耳から左耳へとすり抜けて、雨に打たれて落ちていった。
あまりにも暇であったから、あまりにも隣で退屈だと駄々を捏ねられたから、じゃあ雨の中で散歩でもしますかと提案をしたほんの少し前の自分を絞め殺したいなあと物騒なことを思いながら、そうして私は、


「傘をさすのは、いやです」


こんな、鶴丸さんが呆然とするような子供のような我儘を言ってみたのであった。
あまりにも完璧な光景に入るのが嫌だなんて理由を悟られないようにわざとらしく唇を尖らせて、解決策など自分でも見当たらない駄々をこねたのであった。


「傘なら俺がさしている中に入ってくればいいだろうに」

「いやです」

「散歩は却下か?」

「…散歩はしたいです」

「うん?そうかそうか…こりゃあ難しいなあ」


わざとらしく腕を組んで唸る姿をじっと見つめる。
今ならばその半分ほど空いたところに滑り込める気もしたけれど、一歩踏み出した途端に私だけが異質なものになることなど目に見えていた。
水墨画の中に一つだけクレヨンで描かれた落ち葉のような、金平糖の中に混ざる石ころのような、何をどうしたって溶け込めない物はあるのだ。ここは私の支配する本丸であるけれど、それでも今の、雨と桜と番傘と鶴丸さんが佇む庭には私は入れないという確信があった。
そりゃあ、いつものようにずかずかと足を踏み入れられる恥知らずな私だっているけれど、その私はきっと今は雨に流されて死んでしまっているに違いない。

無理やり私の手を引くでもなく唸り続けている鶴丸さんを見つめる。その傘の端から大粒の滴がひとつ落ちていった。
これは恐らく私だけが知っていることなのだが、鶴丸さんは私が「やだ」ではなく「いやだ」と言った時はほぼ確実にこうして引いてくれる、そういうひとである。
ああ、無意識だったけれど、いやですと言ってしまったなあ。
手を引いて欲しいという気持ちもあったけれど、無意識に選んだ方がきっと私の本心なのだろう。この後悔はそっと捨てることにする。
無茶難題を押し付けるだけ押し付けてから何も言わずにぼんやりと空を眺めながら瞬きを繰り返していると、視界の隅で番傘の赤がゆらりと揺れた。
次いで呼ばれた名前に振り向いた途端に視界が白く染まり、同時に私の間抜けな声が廊下へ響き渡る。
口を開けたまま反射的に受け取っていた布の塊をもぞもぞと手繰り寄せてみれば、鶴丸さんの羽織であった。


「はは、驚いたか?…それを着ればいい、これくらいの雨なら何ともないだろうさ」


自慢げに笑ってそう言いながら傘を畳んで草履を脱いでずかずかと上がってくると、鶴丸さんは私の腕の中から羽織をひったくり、肩にかけ、フードのようなところを頭に被せてぽんぽんと叩く。
私はといえばされるがままに突っ立ったままで、これを私が被るとほぼ目のところまで隠れてしまうのかということだけを素直に驚いていた。そしてそのまま手を引かれて、あれよあれよと外へと踏み出してしまったのである。
強くはないが弱くもない雨が羽織を叩く感触。肩にかけているだけの不安定さが怖くておずおずと袖を通すと、指先すら出ずにだらんと余ってしまった。
なるほど、そういえば、あの華奢に見える体躯で彼はいつも私をすっぽりと包んでみせていたなあ。
ばたばたと袖を振ってみる私へ向けられた笑い声の方へ視線をやってみても、フードと傘で表情は見えなかった。声音から察するに、きっと私が一等好きな笑った顔をしていたに違いない。

傘をくるりと回した鶴丸さんによる「いくぞ、傘」なんていう雑な始まりをみせたしりとりをだらだらと続けつつ、視界に入る草履をひたすらに見つめながら歩き、辿り着いた先は庭の池にかかる赤い橋であった。
すっかり雨に叩き落とされた桜の花びらが揺れる水面を覗き込むと、騒がしい雨音など関係ないとばかりに鯉が優雅に泳いでいた。ぱんぱんと手を叩いてみせれば寄ってくる辺り、彼らの聴覚はどうなっているのだろう。絶えず揺れる水面があっては水の中からでも視界は悪そうなものである。


「それを羽織ったままで落ちてくれるなよ」

「はぁい」

「…きみは今日はいつになく子供のようだなあ」


傘はいやだと言った辺りからそんなことはとうに自覚していることである。
何か文句があるのかと傘の内側を覗き込もうとして、視界の邪魔をするフードの真ん中辺りをつまみ上げる私の肩に、落ちるなよと言わんばかりに鶴丸さんの腕が回された。そのままぐいと引き寄せられ、いとも簡単にあれだけ拒んでいた傘の中へと入れられてしまう。

そうだ、すっかり忘れてしまっていたけれど、そもそも私はこの人と庭に出たくなかったのであった。
水墨画にクレヨン、金平糖に石ころ、今の私はきっとさぞや場違いなのだろうなあ。

泣きそうになって、それでももしかするとこの羽織のおかげで少しは溶け込めているかもしれないと思い直したのも束の間。傘の中へ入れられてしまっては返せと言われても仕方がないと気づいてしまった。それは困る、とても困る、剥ぎ取られてなるものかとそっと羽織を掴む。
鶴丸さんはといえば私のそんな行動に目もくれずに「ちょっと持っていてくれ」と傘の柄を押し付けるものだから、再び私はいやだと言いながら唇を尖らせることとなってしまった。ああいやだ。またひとつ、自己嫌悪が積まれる。


「…いやはや、今日は本当に我儘だな、どうした?」

「羽織は返しませんよ」

「ああ、それは別に構わないからもう一度…なんだ、帽子の辺りをつまんでみてくれ」

「はあ…?」

「さっきやっただろう?俺を見上げる時に」

「ああ…」


やたらと身体を寄せてくるせいで完全に片腕に寄りかかっている体勢になりながら、こんなにくっ付いていては鶴丸さんの着物が濡れてしまうなあとほんのりと心配しつつも言われた通りにフードの真ん中辺りをつまんで上げた。
開け放たれた視界の先には見下ろす鶴丸さんの顔と、その向こうに広がる赤い番傘。全くもって、全てが全て美しいもので成り立つ世界であった。
その中でも目を引く、ゆっくりと細められる金の瞳に宿る、はちみつのように甘やかな輝き。私が何度だって恋に落とされた瞳。ずるい人だと毒づきながらも、目を逸らすことはできなかった。


「…きみが被ると、綿帽子のようだな」

「……は?」

「お、耳馴染みがないか?では言い換えよう、花嫁みたいだ」


思考停止の後、赤くなることさえも忘れるほどに頭を真っ白にされた私が吐き出したのは「ばかですか」というなんとも可愛げのない一言であった。
鶴丸さんはその一言に目を丸くしてから、心底可笑しいとばかりに肩を震わせて笑う。
それを見てからようやくやってきた羞恥に熱くなる顔を両手で覆いながら逃げようともがいてみたけれど、しっかりと回された腕が解けることはなかった。
可愛らしいなあと笑っていた声が徐々に落ち着いていき、溜息の後にそっと抱きしめられる。両腕を回してきたせいで傾いた傘の柄を慌てて支える私の名前をぽつりとこぼして、もう一度、雨音に消えてしまいそうなくらいに小さな声で「花嫁みたいだ」と繰り返され、心臓が掴まれた心地がした。
桜の花びら混じりの雨、きらきらと輝く水面、赤い番傘、美しい神様。
この絵の中に私が立つことは、もしかしたら許されているのかもしれないと愚かな希望が生まれては消える。


「鶴丸さん、金平糖の中に石ころが混ざっていたらどう思いますか」


肩におでこを付けて、先ほどの彼のものに負けないくらいに小さく震える声で投げかけた言葉は、形にしてみると我ながら本当に子供じみたものであった。そんなものはつまんで捨てられるに決まっているだろうに、何を言っているんだろうと自分に呆れながらそっと溜息をひとつ吐き出す。
なんでもないですと口を開く前に、雨に紛れるようにして落ちてきたやさしい低い声は、


「驚いたと笑ってから、羨ましいやつだと思うだろうなあ。一目で誰にでも見つけてもらえる石ころは役得であり、唯一だと思わないか?」


などという、およそ予想外のものであった。
思わず見上げた先で瞬く瞳に、嘘の欠片は混ざっていない。
ああ、そうだ。鶴丸国永というひとは、そういうひとであった。

今までの思考回路が何もかも無駄であったような気がして、脱力すると共にゆるむ涙腺を必死に抑える。
深呼吸二回の後に私の唇から生み出されるはずであった本日何度目かの「ばか」は、何もかもお見通しだと言わんばかりに覗き込んできた鶴丸さんの唇に塞がれ、喉の奥へと呑まれて消えていった。



金平糖の雨



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150328
240326 加筆修正


Rondat