忘れてしまう夢を見た。

何をだとか、誰をだとか、そういった些細なことはよく覚えていない。ただ、何かが決定的に欠けていることだけがぼんやりとわかるような中で、俺はなんとも呑気に空を見上げていた。
夕暮れなのか朝焼けなのかわからない色の滲む空をぼんやり眺めながら、何かを言おうと口を開いたところで目が覚めたわけである。

特に悪いわけでもなく、だからといって良いとも言えない夢の余韻に頭を抱えてやれやれと溜息をひとつ。どうせならばあの空から星の欠片でも落ちて来て、そうして驚きの中で飛び起きたかったものだ。
消化不良も甚だしい。喉に引っかかる違和感を持て余しつつのっそりと起き上がると、隣で寝ていた娘が寒いとでも言いたげに小さく身じろぎをしながら唸った。
俺が起き上がったことで捲れた布団を直してやってから、着物から覗くその白い首筋をなんとはなしに見つめているうちに、ああそうかと一つの結論が降りてくる。

俺が夢で忘れたのは、この娘のことではないだろうか。なぜその結論かと問われれば理論立てて説明することはできないが、ほとんど確信めいた自信があった。
あれは、きっと、遠い未来のいつかの俺だ。

片膝を抱え込んで手を伸ばす。柔らかな髪をそっと梳く。夜のうちに冷え切ったそれは、俺の体温をほんの少しだけ奪ってからぱたりと枕へと落ちて散らばった。
その様をぼんやりと眺めながら、まさか本当に忘れているわけではあるまいと確かめるように囁いたはずの娘の名前は、自分でも意外なほどにはっきりとした声音で部屋の中へ零れ出た。思わず口を抑えるも時すでに遅し、間抜けな声とともに彼女は寝返りを打ち、こちらへ向いて、重そうな瞼をそっと開く。


「…すまん、起こしてしまったか」

「……起きちゃいましたねえ」


俺が手を伸ばすよりも寝ていいと言うよりも早く、気怠げに身体を起こして座り、噛み殺し切れないあくびをひとつ、頭突きの要領で肩に額を当てられる。抗議混じりの軽すぎる衝撃に思わず笑いが漏れたのを上目に見つめて、眠れないんですかと娘は呟いた。
いいや、さっき起きた。夢を見た。ただそれだけを答えてやれば、はあ、と曖昧な返事。
はだけた襟元を正しながら座り直す横顔は有り余る程の存在感を持ってして薄暗い部屋の中に浮かんでいる。乱れていた髪も直した後、ふと向けられた瞳と視線がかち合って数秒。その口が俺の名を呼ぼうとするのを遮って、なるべく、出来るだけやさしく唇を塞いだ。
唇を離して呼吸をひとつ、次は声が発される前にそっと塞ぐ。そして離す、また塞ぐ。
距離が近すぎて焦点の会わない視界の端で震える睫毛とそっと掴まれる服、そのまま手繰り寄せて腕の中に閉じ込めたちいさな身体は、いつもの通りにあたたかかった。少しだけ長く口付けていたのを離すと、今度はさせないとばかりに押し返される。


「なん、なんですか、もう…」

「いや、きみの声を飲み込んで、この身体に仕舞い込めたらと思ってなあ」


人を忘れる時はまず最初に声を忘れるのだという。
成程、確かに、随分と長い間を共にいたかつての主でさえ、誰一人としてこれであると確信の持てるほどにはっきりとその声音を思い出せるものはいなかった。
行動を制するように口を覆う手を捕まえて頬を寄せる。意味がわからないと寝起きの頭で瞬きを繰り返す目の前の娘の声ですら、果たして俺は一週間も覚えていられるだろうか。

もし、その声を飲み込んでこの喉に仕舞い込めたとしたら。
そうしたら「まず最初」は起きないのではないだろうか。永遠に忘れずにいられるのではないだろうか。そんな屁理屈を捏ねる自分の子供っぽさに苦笑が止まらない。
大体、声を覚えているからといって忘れないわけはないだろう。声を飛ばしたとて次に体温、匂い、表情、そうして次第に思い出は霞んでいき、己の作ったものへとすり替わっていき、最後はまるで幻であったかのようにこの胸の中へ留まるのだ。そんなことは何よりも自分がよくわかっているはずであるのに。
そもそも、俺のこの喉からその声が出たとしても何の意味も為さないであろうに。

一から百まで全てが唯一のつくり、それが人間という生き物である。だからこそ儚く、美しく、狂おしいほどに憎くもあり、愛おしくもある。
永遠を生きることのないこの娘は、あと何回、どれくらい、俺の名を呼び、笑い、驚き、泣いてくれるのだろうか。


「鶴丸さん」

「ん?」


力の緩んだ俺の手をすり抜け、細い指先が髪を梳く。視界の端ではらりと落ちた己の白い髪を目で追ったほんの微かな油断を見抜いたようにして、次の瞬間、遠慮のない体当たりが俺を襲った。
我ながら情けない声を上げつつ押し倒されて見上げた先には、してやったりとでも言いたげな仔細顔。


「ふふ、驚きました?……良くない夢は、二度寝で塗り替えるのが一番ですよ」

「…ああ、こりゃあ驚きだ」


とても大きいとは言えない衝撃で、面白いほどに思考回路は粉々に散ってしまった。
満足そうに布団を手繰り寄せながらそれではおやすみなさいと笑う娘は、俺にとっては砂粒ほどの時間しかその生を謳歌していないというのに、一挙一動でいとも簡単にこの心は弄ばれる。全くもって、これが驚き以外の何であろうか。

ずっと喉に引っかかっていた夢の余韻を吐き出すように長く長く息を吐き、もう既に二度寝の体勢に入っている呑気な顔の、可愛らしい額に口付けをひとつ。ふわりと柔らかな香りが鼻をくすぐった。
胸元にすり寄ってくる頭をそっと抱え込んで、あくび混じりに見上げた先の障子の隙間からは微かに朝の空気が漏れていて、そろそろ夜明けかとぼんやりと思いながら瞳を閉じる。

今頃外に広がっているであろう空は、夢と同じような色をしているだろうか。
あの光景を反芻するように口を開く。そうして自然と流れ出たのは、今まさに腕の中で微睡んでいる娘の名であった。
ああ、なるほどなあ。
具体的な理由もなく納得だけをして、上機嫌に小さく肩を揺らす俺に腕の中からかけられた「なんですかもう、早く寝てください」という苦情は、今この世界の中の何よりも甘く愛しく響いている気がした。

なあ主よ、これはとても面白い話なんだが、俺は自分が思っているより、きみのことがいとしくて仕方がないみたいだなあ。



その一声は悠久にひとしく



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150309
240326 加筆修正


Rondat