まぶたの裏できみが駆けた

「つ、つかれた…」
ゴミ箱の中身を、社員共有の大きなゴミ箱の中に移し替えながらついつい独り言が漏れる。初給料で買ったまあまあ良い、と思い込んでいるお気に入りのピンクゴールドの腕時計を薄目で見るともう22時近くになっていた。
社会人になって4年目、限りなく黒に近い会社に就職して4年目、この3年間とちょっとの間に後輩が2人もできた。
ありがたいことにどちらの教育係もやらせてもらっているが、正直自分の仕事にプラスして他人の仕事まで面倒を見るのは相当大変だ。後輩たちを定時で帰らせた後、自分の仕事をしていると下手すればこんな時間になる。
首をコキコキと鳴らしながらゴミ箱片手にデスクに戻り、私と一緒に残業をしていた先輩に一言声を掛けて更衣室へ向かう。
仕事中は集中できるように電源の切っているスマホの電源ボタンを長押しして再起動の準備をすませ、かっちりした制服のまま更衣室の床に転がり、ぼんやりしながら靴箱を見る。
あー、もうみんな帰ってら。また私だけか。
残業するのは自己責任だと心でわかってはいるが、そんなに早く帰れるのなら手伝って欲しいというのが本音で、でもそんなこと言えるはずもなく、結局一人で抱え込んでしまう自分がどうしようもなく嫌いだ。
なぜか出てくる涙を慌てて指で拭うと、やっと再起動したスマホがけたたましく鳴った。
「わ、わ」
画面に表示された名前に思わず心臓が跳ねる。
”今日も残業?”
”おーい”
”遅くなるんだったら迎え行くから”
”なまえちゃーん?”
”あ、仕事中電源切ってるんだっけか”
”終わったら連絡して”
さっと血の気が引く。急いで通話ボタンを押すと、すぐに銀さんの声が聞こえた。
「終わった?」
「ごめん電源切ってて。いま気づいたの。や、いま終わって、ごめん、すぐ着替えて行くから、」
「へいへーい、ゆっくりでいいからな」
じゃまたー、と間延びした声を最後に電話が切れる。
最悪だ、今日の朝、また残業で遅くなるなら迎えに行くから教えてって言われていたことを今更思い出す。申し訳なさで心臓が苦しい。ああ、わたし、仕事も恋人もまともにできない。
最速で着替えをすませ、崩れた化粧がバレないようにマスクをさっとつけて会社を出ると、出入り口のそばでスクーターに跨りながら私と色違いのケースを付けたスマホを弄る銀さんが目に入る。
「ごめんね、お待たせ」
「マジ勘弁してくれよォ、またあのマヨラー税金泥棒に職質されちまうところだったぜ」
ヘルメットを私に差し出し、冗談を交えながらスマホをポケットにしまう。いつもの冗談と分かっているはずなのに、なぜかずっしりと心が重くなる。何か言うとまた情けない涙が出そうで、声が出せない代わりに銀さんの背中に顔を押し付けてきつく抱きしめた。

しばらくしてから家に着き、なんだか気まずくてそのまますぐにお風呂に入る。今日はなんだかいつもよりどっと疲れていたみたいで、シャワーを浴びながらはらはらと涙が出てきた。
「銀さーん、お風呂上がったよ」
お風呂で泣いたせいか、少しすっきりした。間延びした声で銀さんを呼ぶと、ソファに座っていた銀さんが手招きをしてきたので、そのまま近づくとそのままソファに座るように促された。
「髪乾かしてやるよ」
「うん?ありがとう」
私の後ろに立ち、優しく私の髪の毛を乾かす手が気持ちよくて、うとうとしているとあっという間に乾かし終わり、そのまま手が離れた。
「仕事大変か?」
私の隣に座り直すと、ドライヤーのコードを巻きながら尋ねてきた。
「ごめん、最近愚痴多かった?気をつけるね」
「馬鹿。そうじゃねーだろ」
「え?」
「キツいなら言えってこと」
「…べつに、みんなこんなこと出来てるし」
「出来てねえから。お前の言うみんなが誰かは知らねえけど、人間お前みたいに真面目なやつばっかりじゃねえよ。いい加減肩の力抜け馬鹿真面目」
無意識に下唇を噛む。なんでこんなこと言ってくるんだろ。
「やめて、喧嘩したくない。もう寝よ?」
「駄目。俺が寝たらお前また一人で泣くだろ」
「…泣かないし」
「はい嘘」
「嘘じゃないし」
「何のために俺と一緒に住んでるんだよ」
「…嫌われたくない」
「は?」
お風呂で出し切ったはずの涙がまた出てくる。もう、最悪だ。
「わたし、全然何もできないの。朝銀さんが言ってくれたことも忘れちゃってたし、後輩の面倒見ながら、じ、自分の仕事、進めることできないし、ばかみたいな、時間まで、残業しちゃうし、他の人に、手伝ってよ、って、思っちゃうし、も、もう夜ご飯も、4日も作れてないし、家事も、銀さんに任せっぱなしで、髪の毛も、自分で乾かせなくて、ああ、も、今も、こうやって、銀さんのせいにしちゃ、うし、ごめ、ごめん」
ひっ、ひっ、と過呼吸気味になりながら一生懸命喋ると、やさしい顔をした銀さんがよしよしと背中を撫でながらそっと抱きしめてくれる。体温がきもちよくて、両手で必死に縋ってしまう。
「頑張ってるな、偉いな、なまえは頑張ったな」
ゆっくりと、短くて優しくて、一番欲しかった言葉が心臓に染みる。そっか、わたし、銀さんに、頑張ったなぁ、って言って欲しかったんだ。
大粒の涙が頬をつたって首にまで垂れる。濡れた首元に銀さんが顔を近づけて、熱い舌で涙を舐め取った。
「変態」
「元気になったみたいで何より」
にやりと笑って、目元の涙も舐め取られる。
たぶんもう大丈夫だな、そう思いながら、体重を銀さんに預けてゆっくりと目をつぶった。