バレンタイン


 ドラルクさんは、とても変わった吸血鬼だ。私のようななんの取り柄もない根暗で卑屈でつまらない人間を、事ある毎に事務所へ招いて食事を振る舞ったり、休日の夜中には遊びに誘ってきたり。連絡もマメに――それこそ、ぶっちゃけ鬱陶しいと感じてしまうほど――送ってくるし。何の益にもならないのに、よくやるものだ。毎度お呼ばれする度に形として差し出す夕飯代は頑なにお断りされているため、まあ食事はタダ飯ラッキーという感じではあるけれど。
 ただ休日の遊びの誘いは正直やめてほしいと思う今日この頃だ。夜にもなってわざわざ人前に出るのが許される程度のメイクをするのは心底面倒臭いし、人混みに出ていくのだって非常に億劫だ。休日にやりたくないことてんこ盛りすぎる。しかしかと言って、毎回素っ気なく断るのはタダ飯食らいの身としてはさすがに抵抗がある。だから不承不承ながら、五回に一度は受けるようにしていた、が……なんにせよ、面倒なことには変わりない。これこそお金払うからやめてほしい。
「……ところで、さ。ねえきみ?」
 今日も今日とてタダ飯を美味しく戴き、食後のデザートも食べ終えて。すっかり飲み慣れた温かい紅茶を有り難く飲んでいれば、ホットミルクを片手に向かいの席に腰掛けていたドラルクさんが、出し抜けにコホンと咳払いして、やけに仰々しく切り出した。
「もうすぐバレンタインなわけだが」
「ああ、そうですね」
 私の相槌に、ドラルクさんは意外そうに少し眉を上げた。そっちが聞いてきたくせに、なんだその反応は。普通に生活していれば、そのくらい分かる。雨が降ったり止んだりで常に雲が敷き詰められた、灰色の味気ない世界の中では、電柱やら看板やらの目に痛いほどのピンク色は、とてもよく映えていた。
「じゃ、チョコレートは用意するのかい?」
 視界の端でなにかが動いているので、そちらへ視線を向ける。持ち手に軽くかかった手から伸びる人差し指が、神経質にマグの側面をトントンと叩いていた。返事を急かすような忙しないそれは、きっと無意識なんだろう。紅茶をまた一口啜ってから肩を竦める。
「しませんよ。別にチョコとか好きじゃないので」
「あ、そう……いや、バレンタインってそもそも誰かに贈るものだろう。別にきみが食べるためのイベントじゃあるまいし」
「まあそうなんですけど。でも誰かにって言われても。好きな相手なんていませんし」
「……しかしほら、世の中には友チョコという文化だってあるよ」
 オトモダチ同士で交換ことかさぁ。
 妙に歪んだ不器用な笑顔のドラルクさんに食い下がられ、眉根を寄せて彼の言葉を噛み砕く。友チョコ文化は当然知ってるけれど――オトモダチ同士で、交換こ? トモダチ。友達ねえ……。
「しないですね。友達もいませんから」
「ハア?!」
 そんなものには縁がないと淡々と返すが、ドラルクさんはバンと両手で机を叩いて身を乗り出した。鼓膜を劈く過剰な反応に顔を顰める。
「なんですか、いきなり大声だして……」
「だすに決まってるだろう! え、なに? 聞き間違え? ちょっともっかい言って」
「友達なんていませんけど、それがなにか」
「ハアー?!」
 元気なこと。うるさい。吸血鬼にとって今は、バリバリ活動時間なのだろうけれど、日中の業務で疲れきった身にそのテンションはきつい、疲れる。
「じゃあ私は?!」
 自身を指差し、牙を剥き出しにして問われた。ドラルクさんは――。
「知り合い寄りの顔見知り」
「ハア?!」
 憤り過ぎてか、三回目の声は裏返っていた。喉枯らして死ぬつもりなのかな、この吸血鬼。
「……じゃ、じゃあ顔見知りチョコとか!」
「は?」
 捻り出された代替案に、今度は私が露骨な反応をしてしまう。顔見知りチョコってなんだそれ、聞いたことない。
「……ていうかそれはただの義理チョコなのでは」
「グァッ、っ、義理はやめろ義理は! とにかく作ってみなさいよ!」
「義理でも顔見知りでも構いませんけど、わざわざ用意、というか作りませんよ、そんなの。お菓子作り下手だし」
「大丈夫よ別に下手でも! 溶かして固めるだけでもいいから、ちょっとチャレンジしてみたらいいじゃないの!」
「溶かして固めるだけなら板チョコそのまま渡した方がよくないですか」
「溶かして固めるっていう手間をかけるという気持ちが大事なのよおバカ! 日本人ならそういう情緒を汲みなさいよ!」
 なんでカマ口調なんだ。ぜえはあと肩を荒らげながらどっかり座り直した彼に、「前から思ってたんですけど」と前置きする。ドラルクさんは、疲弊しきった様子でじろりとこちらを見遣った。
「なに?」
「ドラルクさんって、私のこと好きなんですか?」
 マグへ伸びかけていた手がぴたりと止まった。元から大きかった目が眼窩から溢れんばかりにひん剥かれる。あんぐりと脱力していた口元がぴくぴくと戦慄き、ハ、という短く切れた彼の呼吸音が耳朶を揺らした。蝋人形のような白い顔が、瞬く間に燃え上がる。
「…………ダッ」
「だ?」
「っ、だからさァ?! 情緒!!」
「……っあ、はは!」
 溜めに溜めて、いったい何を言うのかと思ったら! そんなのもう、肯定じゃないか。しかも情緒って。そんな顔で絞り出すほど大事なことなの、それ。絶対もっと他の言葉があったはずだ。まろびでた彼の純情さに、もう堪えきれずつい噴き出せば「笑うな!」とすぐさま噛み付かれる。いや無理。笑う。
 私はしばらく、ヒィヒィと笑い続けた。自分でも不思議だが、彼の反応が妙にツボに入ってしまったらしい。こんなに笑ったの久しぶりで、頬の筋肉が痛み、脇腹が引き攣った。トドメとばかりに滲んできた涙を拭いながら、私はハアと息を吐いた。
「あは、ハ……ふふ、え、取り繕おうとか思わなかったんです?」
「…………うるさい」
 ああもう、ドラルクさんも、もっと強く怒ればいいのに。こんな失礼な反応をされているというのに、彼はむっつりとした不機嫌な赤い顔で私を見つめるばかりだった。
 まだ口元に弧を浮かべながら、私は紅茶を一気に飲み干す。冷めていたけど変わらず美味しかったし、笑いすぎで乾いた喉は潤った。そうして万全の状態で、改めて物言いたげなドラルクさんへ顔を向ける。嫌そうに歪んだ彼の表情から察するに、私の顔は、きっとさぞ感じの悪いニヤケ顔になっていたに違いない。だから私には友達がいないのだ。いらないから別にいいけど。
「ねえ、私からのチョコ、欲しいんですか?」
「……」
「人間の食べ物を摂取しても無意味なのに?」
「……きみからの贈り物なら、なんだって意味はあるよ」
「ふうん」
 なんだって。随分大きく、そして安くでたものだ。試すように空のカップを押し出せば、ドラルクさんの額に青筋が浮かんだ。
「んまァ〜素敵なカップ〜! 光栄ですわァ!」
「あはは!」
 ヤケクソ全開だ。ドラルクさんは普段気取っている態度が多い。だからこういう粗野な仕草が新鮮でツボっちゃうみたいだ、私。おもしろーいときゃらきゃら笑って手を叩く。するとドラルクさんは、どこか複雑そうな面持ちをして、再び口を引き結んだ。まだ目元が赤いのは先程の名残りだろうか。
「ふう……それじゃ、板チョコでいいですか?」
「……せめてキットカットとか言え!」
 それでもキットカットでいいんだ。ほーんと、健気な吸血鬼。二百年も生きてるくせに、こんな小娘に翻弄されすぎでしょう。呆れと感心、そして一抹の憐憫を含めた眼差しを送る。すると何を思ったのか、ドラルクさんの顔がサッと白くなった。
「うそです板チョコくださいむしろ板チョコがいいですお願いします」
「……はあ」
 生返事をしながら携帯を取り出して、検索アプリを立ち上げる。この殊勝さに免じて、今回は溶かして固めるくらいならしてあげてもいいかもしれない。
「調子乗ってすみませんでしたあの、あの、聞いてますか、いやほんと貰えるなら板チョコの包装でもいいんで」
 つらつらとした早口を聞き流しながら、私は湯煎のやり方を調べた。

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