ホワイトデー


 普段料理をろくにしないため、家にはいい具合の鍋もボウルもなかった。ので、チンして溶かそうとしたら、レンジの中が爆発したチョコ塗れになった。マジでマジでまっっっじで最悪だった。レンジを拭きながら世界を呪った。なにがバレンタイン。なにが手作りチョコ。おのれドラルク、絶対に許さないからな。末代まで呪う、お前が末代。
 そうして私は、たしかに『もう二度とやるか』と思って、気晴らしに街へ出掛けた――はずだったのに、なぜか帰る頃には、追加のチョコ、新品の鍋、ボウルに百均の可愛い型が入った手提げを片手にしていた。
 新品の鍋を駆使して三回ほど挑戦したところで、私は湯煎をマスターした。溶かしたチョコがきちんと固まったことに興奮して、気紛れで買ってみたアラザンやらの飾りも散らしてみちゃったりもした。そうしてみたら、どうだろう、市販品のようにとは当然いかなかったけれど、そこそこ見れるものが完成した気がした。生まれて初めて作り上げたバレンタインのチョコに、妙な感動を抱いたりもして。
「えっうそ待って、これ、きみからのバレンタイン?」
 あれ私なんでここまでムキになってるんだろう。
 と正気に返れたのは、ドラルクさんへ渡した直後だった。
「これを? きみが? 本当に? お母さんにやってもらったとかでなく?」
「返せ」
「すみませんでした」
 まあとにかく、完成したチョコは私にしては、とても凝った出来になっていた。「タメ口って。ガチ切れじゃん」まだぶつぶつ聞こえたので返してもらおうとしたが、やたら俊敏な挙動でチョコを持った手を頭上高くへと上げられ、届かないようにされる。この男、腕が無駄に長い、ナナフシの擬人化か?
「ちょっと、返してください」
「お断りだ! これはもう私のだ、きみにだって渡してやるか。ラミネート加工して大切にするね」
「須らく速やかに食べてください。気持ち悪いので」
 発想が変態のそれ。奪い返すのも諦め率直にドン引きしながら距離をとったが、ドラルクさんはそんなこと意に介さず、チョコを掲げたままくるくるふらりと、狭い室内を愉しげに飛び跳ね回っていた。メンタルまでお雑魚であらせられる彼なら、『気持ち悪い』なんて言ったら普段はすぐ砂になるのに。分かりやすく浮かれきっている有頂天なドラルクさんに目を丸くする。
「うふ――ふふ!」
 そうやって凝視していたせいで、私は、そのかんばせが綻んでパッと弾ける瞬間をしっかりと見てしまった。
「えへへ……やったぁ」
 ドラルクさんは蕩けた声でうれしいなあ、うれしいなあ、と無邪気に繰り返し、口付けでもしそうな勢いでちゃちな透明の小袋に頬擦りしていた。頬が上気しているが、それは羞恥といった類のものではなく純粋な歓喜によるものだと、誰が見たってひとめで分かる。それほどに、彼は幸せそうな相貌をしていた。
「ねえ」
 ドラルクさんがぽやぽや表情を溶かしたまま、高揚の滲む赤い瞳を差し向けてくる。その瞬間、否が応でも悟ってしまった。
「本当にありがとう、嬉しいよ。ちゃんと大事にいただくから」
「……そうですか」
 ああこの人、本当に私が好きなんだ。
 しまっていた彼の想いを不躾に曝いて晒しあげたのは自分のくせに、私は今やっとその事実を――本当の意味で知ったような――思い知らされたような気がした。
 ◆
「ふははははは! どこへ行こうというのかね?」
「いや帰るんですけど」
 行くもなにも。いつものように美味しい夕食を頂き、さて帰ろうかと歩き出したところで、ドラルクさんが事務所へ繋がる扉の前へと立ちはだかった。彼は芝居ががった仕草で大仰に片手を振り、かけてもいない眼鏡をくいっとさせる。厳しい悪役然とした面持ちをしているが、頭に座すコック帽のせいでなんだかいつもより数倍格好がついていなかった。
「そうはドラ屋が卸させまい!」
「語呂悪くないですか、それ」
「ちょ、テンポズレる。あんま律儀にツッコまないで。――ほら、大事なものをまだ受け取ってないんじゃないか?」
 ほらほらと催促され目を眇める。私が受け取ってない? いい加減食費払えとかなら分かるけど。私がなにかを貰うの? だめだ、全然ピンとこない。
「今日はホワイトデーだろう!」
 もどかしげに投げ掛けられた言葉に、やっとああそういえばと合点がいく。バレンタインデーと違い街中の装飾も派手さがない、というか目立たないから、もう頭からすっかり抜け落ちていた。
「ホワイトデー! バレンタインに想いを通じ合わせた仲睦まじき男女がひと月ぶりに人目を憚らずにイチャつくことのできるなんともお目出度い日!」
「ヌァカ・ムトゥマジキ……? すみません、ルーマニア語には堪能でなくて。なにせ必要と思ったことがないので」
「テ・ユベスク!」
 ドラルクさんは帽子をひったくって床に叩きつけながら、ヤケクソのようになにかを言い放った。耳馴染みのない語感はそれこそルーマニア語なのだろう。くそったれがよ的な意味かな。どうでもいいけど。
「……“しょうがない子”って意味だから、これは」
 聞いてもないのに仏頂面で教えられる。はあ、と生返事をした。心底どうでもいい。
「今後もばんばん使っていくから、よくよく覚えておくように」
「てゆべすくを?」
「んん、そ、そう。てゆべすくをね……」
 ちょっと失礼だなんてマントを翻し、急に激しく咳き込みだしたドラルクさんの背中をぼんやり眺める。しょうがないと言われてもなぁ。ならそのしょうがない子に惚れてるらしい貴方はいったいなんなんでしょう。そう思ったが、口にはしなかった。ややこしくなりそうなので。
「……とにかく、今日は待ちに待ったバレンタインのお返しの日だよ」
「バレンタインって、ドラルクさんが半泣きで駄々を捏ねに捏ねて捏ねくり回し、半ば強制的に手作りを約束させられたあのバレンタインのことですか」
「違うが?!」
「そうだが」
 半泣きと称したのは心ばかりの温情だ。あの日のドラルクさんは板チョコを懇願しながら完全に泣いていた。
「そもそも、待ちに待っていたのはあなたでしょう」
「それはそう」
 皮肉ったつもりだったのに、素直ににっこりされて毒気を抜かれる。ドラルクさんはご機嫌に私の手を取り、テーブルまで引き戻した。さっきまで綺麗に片付いていたはずのテーブルには、いつ用意したのか大量のお菓子が所狭しと並んでいた。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! マカロン、ミントキャンディ、イチゴ飴、金平糖、ほろ苦珈琲風味生キャラメル、ハニーレモンマドレーヌと、さあ選り取りみどり! なんでもきみの好きなものを選びたまえ!」
 朗々と語る声を聞きながら、所々に白い薔薇の花弁が散らされた、色彩が目に染みてくるほど華やかなテーブルをまじまじ眺める。よくもこれだけ揃えたものだ。かかった時間と労力と費用を考えて震える。
「え〜なに? どれも魅力的すぎて選べないって〜?」
「なにも言ってないです」
「ふふ、そうだろうそうだろう! なにせ腕によりをかけた最高で至高、この世に二つとない素晴らしき逸品ばかりだからね。きみならば特別にここにある品全てを貰ってくれても構わないよ。というか是非受け取ってほしい。余すことなく」
 迫真の表情で「よろしくお願いします」と付け足すドラルクさんを呆れまじりに一瞥する。これだけの物を作り上げたというのに、いまいち締まらないパティシエだ。
「ちなみにおすすめはキャンディ類ですかね。もちろんテイクアウトも可能だけど、一粒だけでいいから食べてから帰ってほしいかな。あ、でも生キャラメルも美味しくできた。こちらのマカロンもほら、ご覧になってあなた。ピエが今世紀一うまく……それにマドレーヌなんかはゴリルードさんとジョアンヌさんがうっかり食べ尽くしてしまいそうになるほど絶賛でしたのよ。文字通り身を粉にして全霊で阻止しました。……とまぁ、総括すると全部とってもおすすめです。対戦よろしくお願いします」
「ご苦労様です。それじゃあ私は帰りますね」
「これ聞いてなお?!」
「帰ります」
 大事なことなので二回言うと、ドラルクさんは当たり前のように塵になった。「全部甘さ控えめにしてるよ……」砂山から聞こえてくる弱々しいアピールを溜息でいなす。
「こんな量あったら控えめにしたところで、でしょう。それに私、これらの意味なんて知りませんし。贈られても困ります」
「……のわりに、意味があることはちゃんと分かってるふうじゃないか」
「そりゃこんだけ揃えられれば」
「ほう。きみのような勘のいいガキは嫌いじゃないよ」
「そうですか。私はガキって言ってくる歳だけ重ねた偉そうなおじさんは嫌いです」
「ほんとよく言えるなきみ!」
 お返しに定番そうなクッキーやケーキがない。それらはきっと、特別な日のお返しにするには、後ろ向きな意味を持つのだろう。なれば必然的に、ここに並ぶ菓子は好意的な意味合いのものということになる。そう分かっていて迂闊に手を出すことはできなかった。罠だな、もはや。
「グギィ〜! 受け取るまで帰さんぞ!」
「そういう妖怪みたいですね」
「きみの歯、マイクロビキニすら身に付けてない感じ?」
「なんですかその気色悪い言い回し。セクハラで訴えて勝ちますよ。……とにかく、絶対に一つも受け取りませんから」
 ぴしゃりと言い放つと、緩慢ながらも行われていた蘇生が完全に止まり、下半身を崩したままの彼に見詰めあげられる。穿つ赤い瞳は私の意図を問うていた。
「こんなの、受け取れません」
 ギリギリと絞り出した低い声に何を感じ取ったのか、ドラルクさんはぱちくりと瞬きをした。
 このキラキラした、彼の想いがたんまり込められているであろう菓子たちは、ずっとその気持ちを足蹴にしてきた私が受け取れるものでは到底ない。こんなもの、今更触れられない。資格がない。私みたいなものに、このお菓子も、ドラルクさんの気持ちも相応しくない。
「もう帰らせてください。ほら、私なんかより喜んでくれる人はごまんといるはずですよ。あなたの料理はとってもおいしいんだから」
「……はーーーあ!」
 大儀そうな声音が耳朶を打ったかと思ったら、一瞬にして立ち上がった影に覆われる。
「いったい、なにを急にそんな思い詰めちゃったんだ?」
「は? 思い詰めてません」
「第一声『は?』はやめない? 傷付く」
 やれやれとかぶりを振りながら、ドラルクさんは「あのね」と眉をひそめ、にやっといたずら好きの子どものような笑みを浮かべた。
「今更そんな罪悪感を抱くくらいなら、なおさら受け取ってくれたまえよ」
 そんなもの抱いてない。抱く理由などない。
 ……はずなのに、なぜかそう告げるのは躊躇われ、声をだすことができなかった。
「なに、伝えるのが少し早まっただけさ。いずれは伝えるつもりだった。だからきみがそう重く考えて、気に病む必要なんてないのさ」
「……なんのことですか」
「なんのことだろうねぇ。気にしいで面倒なきみは“しょうがない”と思ってしまうほど可愛いねって話かも」
 そうゆったり緩んだ瞳に、教えられたばかりの異国の言葉が脳裏を過った。理由は分からないが、無性に胸を掻きむしりたいような落ち着かない気持ちになり、顔を顰める。ドラルクさんは悠然とした微笑みを湛え、見事な焼き色のマドレーヌを一つ摘んだ。
「とにかくさ、きみはただ受け取ってくれるだけでいいんだよ。そこに意図や想いがあろうとなかろうと、私は『きみが受け取ってくれる』というだけで報われるんだから」
 紡ぎ出された言葉は、声色に違わず、吸血鬼のくせに仏のような慈悲深さを孕んでいる。私は迷った末、差し出されたマドレーヌを受け取って、思い切って頬張った。バターがたっぷりの生地がほろほろしっとりと口の中で崩れ、ほんのりと香るレモンの風味の奥から、程よい甘さの蜂蜜が味蕾へと届く。
 歯型の出来た黄金色の貝殻をじっと見つめる。口内に広がったそれは、飽きる未来などちょっと今すぐには想像できないほど私の味覚にちょうどよくて、なんだかとても悔しかった。

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