「月が綺麗ですね」
 我が城へと遊びに来た彼女への饗しを準備していれば、忽然と有名な台詞が鼓膜を揺らす。呼吸さえ止めてたっぷり時間をかけて意味を咀嚼し――死にかけた。
「え、月、綺麗……えっ?」
「ほら」
 彼女が視線を寄せる先、窓の外には、我が愛しの使い魔のシルエットの如き完璧な丸がぽっかりと浮かんでいる。ああなんだそのことね。深い意味はないのね。はいはい読んで字のごとく、言って音のごとくの『月が綺麗ね』。はいはい了解。
「本当だね、なんとも見事な満月だ」
 落胆を努めて隠し、平静を装って返事をしながら改めて彼女のカップへと紅茶を注ぐ。まったく、彼女がお月様に夢中でよかった。波紋と湯気が揺らぐ紅い水面を見ながら密かに安堵する。今の己の相貌がひどく不貞腐れたものなんだろうなということは、鏡なんて見ずとも分かっていた。
「……最近、月を見るとあなたを思い出すんです。いえ、月だけじゃなくて、寒いときとかも。ドラルクさんの手もこのくらい冷たかったなって。だから苦手だった冬の空気も、今はそんなに嫌じゃないんです」
 こちらを見ずにぽつぽつ落とされる言葉はどこか独り言のような響きをしているような気がして、返答を躊躇う。煌々と光る月を依然として瞳に宿したまま、彼女は「それから」と続けた。
「なにか素敵なことがあったら、真っ先にあなたの顔が頭に浮かぶんです。共有したいなって。どんな反応してくれるかなって、笑ってくれたらいいなって。あ、そう、この前いい香りの紅茶を買ったんです。ドラルクさんと飲みたいなって。ドラルクさんは飲まないのに」
「…………あの、それは――」
 もしかしてこの子、今私と一緒にいるってことを忘れてしまったんじゃないだろうか。だからこんな、こんな――。不自然に言い淀んだためか、彼女は顎を引いてやっと私を見た。その仕草に、あ、ちゃんと私を認識しての発言だったのねと再確認する。……いやなにそれ。尚更え〜?! なんだが。納得いかない気持ちで、それでもなんとか口角を上げてみせた。唸れ、二百年のウルトラジェントルインテリジェンスハンサムポーカーフェイス。
「きみがいいなら、是非ご一緒させてほしいな」
「じゃあ今度持ってきます」
 嬉しそうにはにかまれ、貼り付けた笑みの下は殊更混乱を極める。いや、いやだって……え〜〜〜?! こ、これで私のこと好きじゃないって嘘すぎない……? もうほとんど告白じゃないの、これ。こんな感情、好きな相手じゃないと抱かないでしょ。だって少なくとも私は、今の全部、ずっと前からそうなんですけど。
「ね、ドラルクさん。月が綺麗ですね」
「……そうだね」
 ……まあ、本人に自覚がなければノーカンか。
 満月を背後に私だけを見てそう紡ぐ彼女が美しくて愛おしくて、自然と眦が溶ける。この瞬間を切り取りたい。音も空気も、彼女も、今を丸ごと全部自分だけの永遠にして、いつまでも閉じ込めておきたい。けれどそんなことは不可能――いや、御祖父様に頼めばできちゃいそうな気もするが、それはそれとして――なので、ただたおやかに微笑む彼女を目に焼き付けながら、そっと肯定を押し出した。
 しょうがない、気長に待ってやろうじゃないか。怖がられて避けられていた時分に比べれば、この程度、なんてことはないのだから。好かれてる確信もあるし、だいぶ心持ち穏やかでいられる。やきもきはするし焦れったくはなるが、それでも。軽く息を吐いて、こっそりと身体の強ばりを解いていく。……いやしかし、『月が綺麗』だなんてそんなこと迂闊に言うものじゃないぞ、きみ。聞く人が聞けば勘違いする。私はIQがインフレしてるのでしませんでしたが。
「……あ、あの」
「ん?」
 しかしこれ、彼女からしたらただの感想なんだよなぁ。それにいちいち目くじら立てるっていうのも、なんだかみみっちいというか心が狭いというか童貞臭いというか。さて、どうスマートに忠告したものかなと思案を巡らせていると、彼女が控えめに声をあげた。どうしてか不安げな様子でそわそわしている。変に無言でいたせいで気を遣わせてしまったのかなと、やさしく顔を傾ける。すると彼女は怖々とマントの裾を掴み、きゅっと握ってきた。林檎のように赤い頬に目を見張る。その瞳は、今にも泣きそうになりながらも、たしかな甘さをもって潤んでいた。えっかわいい。なにどうしたの、急にすごいかわいいことする。や、いつでもかわいいけどね。いや違う、そうじゃなくて。
「え、どうかしたの?」
「……し……死んでくれないんですか?」
「……はい?」
「……あ、そ、そっか、ルーマニアの人……」
 彼女は早口で「なんでもないです」と言って俯いて、垂れた髪で顔を隠した。落ち着かない素振りで忙しなく後ろ髪を梳かすようにいじる。その際ちらと覗いた耳は、見たこともないほど赤くなっていた。
「忘れてください、い、いまの全部、なかったことにさせてください――本当になんでもないので」
 彼女が産む音は、一粒残さず聞いていたい。それなのに脳が高速回転しているせいなのか、分厚い膜の外側からの音みたいにぼんやりとしていて、判然としなかった。ルーマニア、月が綺麗で、死んでくれないのかって――え、それ、エッつまりそれ、つまりさぁ――。
「……あの、ドラルクさん?」
 呼ばれた名が契機だったかのように、耳の横でばくんと大音量が鳴った。ビリビリとした轟きの余韻が無様に崩れた砂の体を駆け巡る。しかし緩慢に再生しても尚、全速力で走る鼓動は収まる気配を見せてくれない。その事実にまた死ぬ。
「だ、大丈夫ですか」
 大丈夫なものかと、本当は恥も外聞もジェントルも捨てて喚いてやりたかった。だってきみ――いや、きみさぁ! やり場のない憤りでまた体の一部が流れていく感覚する。
「……私、死んでもいいよ」
 けれどそれより、今告げるにもっと相応しい『返事』を絞り出し、所在なく彷徨っていた白い手をまだ再生しきっていない手で掴む。揶揄や戯れか知らないが、そんなこと言うようなら、『次は』もう離してやらないからなという警告と牽制、そして反撃の意味を込めて握り締めた。たちまち朱色を深めたかんばせに、ほらまだそんな覚悟ないくせにと呆れかけ、
「えっ」
 間の抜けた声を零す。赤い顔まで導かれた繋がる手に、火照る頬が擦り寄せられた。熱が移り手のひらが温くなった頃、じっと目を伏せていた彼女が、そうっと瞼を持ち上げる。
「好きです、ドラルクさん」
「…………えっ」
 私を真っ直ぐ認めながら咲いた花に、身体が砂粒と化す感覚がした。それなのに、彼女に触れる手だけはいつかのように文字通り死守していて、我ながら現金だなと頭のやけに冷静な部分が考えていた。
「……お、遅くなってごめんなさい」
 彼女は表情を僅かに曇らせ、罪悪感を滲ませた。いや遅いどころか、早いくらいなんですが。ついさっき長期戦を覚悟したばっかなんですけど。そもそも『死んでほしい』ってきみ、相変わらず妙なとこドライだな。ていうかうわほっぺ柔らか……。
 言いたいことはたくさんあったが、唇をきつく結ぶ。もしかしたらここは、返事をした瞬間に弾けてしまう夢の中なんじゃないだろうか。そんな馬鹿げた――しかしひどく恐ろしい可能性でかたと震えた指先に気が付いた彼女が、少し不思議そうに目を瞬かせる。
「もしかして、体調悪いですか?……で、出直した方がいいですか?」
「や、やだ」
 咄嗟に口を開いて後悔したが、彼女は消えなかった。うわ、え、本当に現実なのか? ほんとのほんとに? 彼女は眉を八の字にして「どうしたんですか」と私の手の甲を撫でた。
「ゆ、ゆめかなって」
「え?」
「いや、だって、こんなの、私に都合が良すぎる」
 滑らかな肌を感じても、やっぱり信じられなかった。全身を蝕む茹だるような熱に浮かされ、意思に反して口が動いていく。彼女が驚き、困った顔をした。なにかを考えているのか瞳が泳いでいる。彼女は結構な時間そうしていたが、やがて意を決したような強い眼差しで私を穿った。
「好きです」
「へ」
「好き、だ、大好きです、ドラルクさん……現実だって信じてもらえるまで、何度でも言います」
 彼女の指先が伸び、頬に触れる。頬骨をつ、となぞり、一瞬の硬直の後、頬を包まれた。心臓が激しく拍動しだす。
「だから夢にしないで」
 夢じゃないのはもうわかった――分かってしまった。けれど、やっぱり口を開くことができなかった。みっともなく泣いてしまいそうな予感がしてしまったから。こういうときの勘は残念ながら当たるものだ。
 だから私は、返事の代わりに彼女を抱き寄せた。鼻を啜る音にも、バカみたいな心臓の音にも、どうか気付いてくれるなよと願いながら。

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