心配すらもままならぬ


 人間になりたいなどと思ったことはない。この体はすぐ死ぬとはいえ、それだけ生き返ることも容易だからだ。人間という生き物を否定するわけではないが、病気にかかるわ死んだらそれきりだわと、この虚弱さよりさらにか弱い生き物に、自ら望んでなろうとは思えないというだけだ。
 ただ。
 ただもし、私が人間だったならば。
 あの瞬間――彼女が落ちたマグカップに手を伸ばし、指先を切ってしまった、あの瞬間。私は、ぷっくり膨らんだ珠玉から立ち込めた鉄の香りを芳醇だと思うことも、散らばった陶器の欠片を数えることもなかったのだろう。
 喉の乾きに囚われていた時間も、屑を数えていた時間も、きっとほんの一瞬だ。三秒にも満たなかったに違いない。それなのに、流れた時間は何十秒にも感じていた。
 台所のシンクを背にして凭れ、俯いて口をきつく抑えつけた。赤を遠くにした今なおまだ走っている心音に、ひっそりと溜まっていた唾を飲む。込み上げた衝動的な興奮の残滓は、まだ身のうちにべっとりとこびりついていた。
 早く彼女の手当てをしてあげなければ。床の掃除をしなければ。分かっているがひどい飢餓が体を蝕んでいて、動けない。視界に映っているスリッパの先が二重三重にブレて揺れ、覆った手の下で、ガチと牙がかち合う音がする。口内には、つい先程呑み込んだはずの唾がまたたっぷりと溜まっていた。
 唾を飲み下して息を止め、倒れ込むように冷蔵庫の扉に縋り付く。なんとか冷蔵庫を開けて牛乳をコップに注ぎ、一気に煽った。たちまち喉が潤い、乾きが緩和される。けれど違う。満たされたのに、満たされない。もどかしさで胸に爪を突き立てて掻き毟りたくなる。足りない、まだ足りない、これじゃない。脳が不平で締め付けられ、ガンガンと痛む。邪な気を追い払うためにかぶりを振ってから、もう一杯牛乳を並々注ぎ、再び飲み干す。
「……こういう時、真っ先にきみの身を案じることのできる存在でありたかったな」
 人間になりたいなどとは思わない。
 ただただ、きみを最も優先させたいだけなのだ。
 私が私である限り、到底叶いやしない虚しい呟きに、乾いた自嘲が零れた。

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