寂しくなくとも手を繋ぎたい


「吸血鬼になろう、ドラルク」
「はいはいあとでね」
 日曜日の午後。三日月が夜に溶ける気持ちのいいまったりした休日だというのに風情の欠片もない書類から少しも視線を外さないまま、ドラルクはいつものように軽く流した。これっぽっちも真面目に受け取っていない様子の彼に、思わずムッと眉根が寄る。私は本気なのに。
「あとでっていつ?」
「この仕事が終わったらかな」
「いつ終わる?」
「んー……じゅ、いや、三十分くらい……」
 心ここに在らずなぼんやりとした声音に自然と唇が尖る。それ、一時間前にも聞いたんだけど。肩あたりへ抗議の頭突きをすると「いたいいたい」と全く思ってなさそうな声がした。それがまたムカついたので、カシミアのセーターにぐりぐりと額を押し付ける。振動でさぞ読みづらいだろうに、彼は書類を読むのを一向にやめてくれなかった。
「もう少しだけだから、ほら、いい子にしてて」
「子ども扱いしないで、年下のくせに」
「ならもっと大人っぽくしてくれないかね、マドモアゼル」
 揶揄混じりの声色に、先程より勢いよく頭を打ち付ける。「いたいよ」今度はやや強めに窘められたが、骨が当たったので私も痛かった。
「もっと太って。じゃないと噛めない」
「は?……ああ、まだ続いてたのか、その話」
「ドラルクが吸血鬼になるまで続くけど?」
「うーん……まあほら、退院したばかりだからね、仕方ない」
 そう、退院。彼はこの前まで入院生活を送っていた。全治五ヶ月。包帯だらけで、身体中に管が繋がっていて。血の気の引いた青白く痩けた顔にか細い呼吸の静かな寝姿は正しく『死んだよう』で。
「仕事もこーんなに溜まっちゃってさぁ……病み上がりだってのにろくに休めやしないんだから……」
 まったく、あのクソ髭は私を過労死させるつもりか?
 そんな冗談半分で紡がれた忌々しげな文句に人知れず唇を噛み締める。こちらの気も知らずにそんな言葉を軽々しく使わないで。胃がずっしりと落ち込み、胸には言いようのないモヤが立ち込める。
 はーあと落ちた薄い肩を押すと、ドラルクは気を抜いていたこともあり簡単に倒れた。ポフンとクッションに沈んだ顔の横に手をついて見下ろす。フカフカのソファは軋むこともない。ソファだけじゃなくこの家の物は全て上等だった。ガキのくせに。そんな小生意気なダンピールは、私の下できょとんと呆けていた。ぽけっとした幼い顔にちょっと笑顔を零してから指の背で少し乱れた前髪を流し、力の抜けた手から書類の束を抜き取って床へと落とす。紙を追って動いた金の瞳が気に食わなかったので、両頬を潰すように片手で挟み無理矢理こちらを向かせた。
「吸血鬼になろう、ドラルク」
「……今日はやけに食い下がるな」
 私の本気をようやっと悟ったらしく、ドラルクは鼻の付け根に皺を作った。
「吸血鬼になって私と一緒に生きよう」
「今だって一緒に生きてるじゃないか」
「そうじゃない。分かるでしょ」
「うーん」
 曖昧な相槌とともにドラルクはただ困ったように眉を下げた。幼子をあやすような笑みを湛えている。そんな顔には誤魔化されてあげないよと、私は私より少しだけ温かいくらいのサラリと乾燥した頬を撫でた。
 私はあなたを失いたくない。いつまでもともにしたいし、あなたとならどこまでも行きたい。そこがたとえ朝陽の満ちる荒野であろうと構わない。喜劇も悲劇も、全てはあなたとなら。
 人間の脆さを目の当たりにしてしまった私は、ひどい焦燥に駆られていた。この生き物は、いつ折れてしまうか分からないのだということを私はもう知ってしまっていた。
「ね、ドラルク。私と家族になろう?」
「ワーそれ、もっと別の場所で聞きたかったなー」
 抑揚のない声に首を傾げる。別の場所? 紅い満月の見える廃墟や城とか? シチュエーションの問題なのかと思案を巡らせていれば、ドラルクは「なんでもないよ」と妙に険しい面持ちで咳払いをした。
「なんで顔赤いの?」
「いや、今のは我ながらおっさん臭かったなと……」
 訳の分からぬことをもごもごと宣う若造に私は眉をひそめる他ない。ドラルクは「気にしないで」と赤ら顔で呟いた。
「でも私、吸血鬼になる時はお父様にお願いするって約束してるしなー」
「別にそれでもいいよ、今すぐ吸血鬼になってくれるなら私が親じゃなくても」
「今すぐて。今すぐは無理です」
 すげなく断られ血管に直接冷水を流し込まれた心地になる。参ったような顔で後頭部へ手を伸ばしてきたドラルクが梳かすように髪を撫でつけてくる。
「この前怪我したこと、そんなにショックだった?」
「……うん、やだった。悲しかったし怖かった」
「えー、なにそれかわい……」
 馬鹿にしてるのかな、このガキはよ。なんだかわいいって。
 舐め腐りやがってという不機嫌を隠さず顔にだすと、ドラルクは素直に謝ってきた。でもその頬はだらしなく緩んでいる。
「私が大好きなんだね、きみ」
「そうだよ。あなたは気付いてなかったみたいだけど」
「んふふ、ごめんて」
 首に手を回され、ぐっと顔が近付く。キスしようとしていると気が付き、コイツ、と顔を背けた。有耶無耶にしようとしている。させるかバカ。
「ねえもう、そういうのいいから――なろ?」
「んー……今はまだ、ちょっと……」
 頬にカサついた唇が寄せられた。口の端をぺろりと舐められ、その感触に堪えようのない快感が顔を覗かせてくる。
「そんな心配しなくても、私はもうきみのものなんだから」
 機嫌良さげなドラルクの声に目頭が熱を持ち出す。この人間は分かってない。そんな問題じゃないんだ。神様は――運命は私達の想いなど慮ってくれない。天命から逃れる術など人間にも――あまつさえ、吸血鬼にすらないのだ。いくら互いの想いが通じあっていたとして、そんなものは運命を前に意味を成さないのに。
 短命の生き物らしい、楽観的で気侭なことを抜かす愛しい私の唯一無二の人間へそう泣き喚きたい気持ちになる。けれど一生こうした無邪気なままでいてほしいという矛盾した気持ちに苛まれ、自分でもどうしたらいいか分からなくなった。

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