誰も飲めない天満月


「おや」
 卒然と鼓膜を揺らした伸びやかな深い低音にのろのろと顔を上げる。
「……Y談おじさん」
「こんなに素敵な月夜なのにお仕事はお休みなのかな、退治人のお嬢さん」
 黄色い男はどこからともなく取り出したステッキをくるりと軽々回す。ニヤけた顔には『そんなことをしていていいのかなぁ』とありあり書いてあった。吸血鬼を前にしたからか、少しだけ手に血が巡る。
「あなたを伸すのなんて三秒もいりません。実践してあげましょうか」
「今日はまだなにもしてないのに?」
「……たしかに」
 けど予備軍、いやでも今は無辜の吸血鬼……。Y談おじさんは対処に悩む私を愉しげに少し眺め、よいしょと隣に腰掛けた。なに座ってるんだと文句を口にしかけたがすぐに口を噤む。ここで追い払ったら辻Y談しに行くに違いない。そうと分かっていてこの男を野放しにすることはできなかった。しかし彼の思い通りになっているような現状がなんとなく悔しかったので、「よいしょっておじさん臭いですね」と呟いた。「おじさんだからね」事も無げに肩を竦めて流される。まあ、それもそうなんだけど。
「それで、お嬢さんはいったいなにをそんなに思い悩んでいたのかな? 気分がいいから特別におじさんが聞いてあげよう」
 言葉に違わず上機嫌な声が軽やかに夜を踊る。降り注ぐ月光が彼の金髪を夜に似つかわしくないほど明るく照らしあげていて、私は今更今日はやけに月の光が強いということに気が付いた。この男の妙な機嫌の良さにも頷ける。
「……さっき恋人と別れました」
「ほう?」
 吸血鬼の気紛れに乗りぽつりと零せば、Y談おじさんは興味深そうに眉を上げた。
「もう高校時代からの付き合いで、五年くらいになる人だったんですけど」
 別れを切り出したのは彼からだ。少しでいいから時間がほしいと言われて呼び出されたファミレスのボックス席で、神妙な顔で「別れてほしい」と、ただ一言。意外には思わなかった。結構前から彼の気持ちが冷めてきていることには気付いていたから。だから「分かった」という言葉を紡ぐのにそう苦労はなく、「前みたいな友達に戻るだけだよ」とあからさまに安堵する彼の台詞にも、あっさりと「そうだね」なんて笑顔を返せた。口論も蟠りも一切ない。お手本になりそうなほど円満な別れ方だった。
「……とか、本気で思ってたんです」
 笑えますよねと無理やり口角を上げたが、おじさんはにこりともせず品定めするような眼差しでこちらを見ていた。逸らされない赤い瞳が居心地悪くて、視線から逃げるように顔を背ける。
 私が自身の違和感を知覚したのは、ファミレスをでてからすぐのことだった。馴染みきっているはずの夜の空気がいやに肌に纏わりついていて、言いようのない不快感に襲われる。別に走ったわけでもないのに心臓が痛いほど鳴っていて、そのくせ手先は冷えてカタカタと動いていた。どうしてか呼吸までもが短く切れ始め、いよいよ歩くのもままならなくなり。私は通りかかった公園のベンチへと急いで避難した。地面へ視線を落としたまま深呼吸をする。吐き出した息は吸い込んだ量に反して少なくて、ひどく震えていた。正体不明の悪寒を緩和させるため一心不乱に二の腕を摩り、背中を丸めて縮こまっていたところにやって来たのが、このY談おじさんであった。
 そこまで話し終えて息を吐きだす。全てを口にだすことで、気持ちの整理も大分ついていた。この吸血鬼も、別にY談ではないのによくここまで聞いたものだ。
「……私は冷めてなかったのに」
 震えた情けない本音が空気に溶ける。大人になって会える時間は随分と減った。それでも気持ちが冷めることなんてなかった。もっと必死で、恥も外聞も捨てて縋ればよかったのだろうか。分からない。もうなにもかもが遅すぎた。私の心には、穴が空いてしまった。
 不意におじさんの手を伸びてくる。予備動作のまったくない滑らかな動きだったので咄嗟に反応することができなかった。硬直している合間に前髪がちょいちょいと手早く整えられ、カサついた指先が剥き出しになった額を数度往復する。目の前の口角がにっこり上がったが、人畜無害を装うかのように器用に牙を隠した微笑みは逆に胡散臭かった。
「今宵のきみは気の抜けたサイダーみたいだね」
「骨ばった手の甲とほっそりした指、ア?!」
「んふふ」
「ぷっくりした涙袋、ちが、目元の窪みや頬骨!」
 いつの間に、このやろう。という罵倒さえもあられもないフェチへと変換され、頬に熱が灯る。弓なりに細められた赤目に歯軋りをした。
「眉弓に乗ったしなやかな眉……!」
 くふくふ笑うおじさんを睨みつける。「いやね」彼はいやらしい笑みを口許に携えたまま、少し顔を傾けた。
「きみが恋人と連れ添っているところをみかけたことが一度だけあるのだけどね?」
 今のY談、件の彼には全くもって当てはまっていないじゃないか。
 愉快とばかりに高らかに言い放たれ、ぽかんとする。たしかに、言われてみればその通りではある。というか自分の好みが年上の男性であることは知っていた。……さすがに性癖になってるとまでは思っていなかったが。いやしかし、だからって。
「そんなの、関係ありませんよ」
 あ、普通に言えた。催眠の効果は切れたらしい。それか彼が意図して解いたのか。どちらでもいいことだけれど。否定され、ぱちくりと瞬きする彼に本当にどこまでもY談史上主義なのだなと苦笑する。もういっそ清々しいというか、一本筋が通り過ぎというか。いったい何が彼をそこまでさせるのかバックボーンが気になりすらする。なんて取り留めもないことを考えながら口を開いた。
「当てはまらなくても、それでも私はあの人が好きだったんです」
「……泣くほどに?」
「はい」
 いつの間にか滲んでいた雫を指で擦るようにして目尻を拭ったが、肯定したせいでますます想いが溢れる。そう、すき。好きだった。たしかに私は彼が好きだったのだ。例えY談に当てはまらないとしても。そうはっきり言える自分が無性に嬉しくて、笑いながら依然として止まらぬ涙を袖口に吸わせる。
「好きじゃないと認めるほうが楽だろうに、きみも強情なことだね」
「いいえ、好きでした」
「ああそう」
 おじさんの声は、先程とは打って変わってつまらなさそうなものになっていた。Y談の否定が余程気に食わないのだろう。この吸血鬼にとってY談っていったいなんなの? 人生? きっとそう。
「ハンカチくらい持っておきなさい」
 溜息混じりで顔に当てられたハンカチをありがたくお借りする。ムスクの香りがするそれにしばらく顔を押し付けていれば、ガリガリとなにかを削る音が耳朶に触れた。鼻を啜りながら音の方を見る。
「なにしてるんですか」
「ヒマだから」
「……おうち帰ったらどうですか」
「うーん、そうしようかな。なんだか興醒めしちゃったし……」
 そんなことを言いながら、おじさんは動こうとしなかった。大して楽しくもなさそうなようすで、杖を使って地面になにかを描いている。
「……ん、見て、結構うまく描けた」
「誰ですか」
「これはね、パンツスーツを性的に見てる髭の坊や。見掛けたら要注意ね」
 要要要注意人物に要注意されるって、いったいどんな吸血鬼なんだろう。髭なのに坊やなんだ。ていうか勝手に性癖バラされてるし。歯ブラシのような髭をたくわえたデフォルメ絵の男性を見て、不謹慎ながらもその不憫さに口元が綻んだ。私も大概、性格が悪い。
「笑ったね」
「笑っちゃいました」
 ニヤリとしたどこか露悪的な笑みを向けられたが、その声が殊の外無邪気で嬉しそうなものだったので、私も素直に認めて頷く。「もう泣くのはやめてしまうかい?」提案というほどこちらに選択肢を与えるような聞き方ではなかったけれど、私はもう一度頷いた。いつまでもメソメソしてはいられない。私の返答がお気に召したようで、彼はにっこりと笑った。
「慰めてくれてありがとうございます」
「別に慰めたつもりはないけどね」
 おじさんが伸びをしながら立ち上がったので私も合わせて腰を上げる。涙は引いていたが、まだ僅かに湿っている頬を夜風に撫でられ、少しだけひんやりした。
「ハンカチ、洗ってお返しします。VRCにでも行けばいいですか?」
「あそこ別に私の家じゃないんだけど」
 多分この吸血鬼は、劣情と切り離した恋心など一生理解できないのだろう。理解したいとも、生涯考えないのだろう。
「きみのお休みに合わせてデートでもしようか」
 大きな満月を背負って冗談めかして笑う彼に、そんなことを漠然と思った。

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