本命童貞


 大人の恋愛とはなんだろうか。
 年上のエリート上司と恋人になってから、そんなことをもうずっと考えている。
「寄っていかないか?」
 久しぶりに非番の被ったデートの日。ディナーのあとの誘いに私は「いいんですか、うれしい」とゆったり微笑んでみせたが、内心では気合いを入れて選んだ今日の下着を思い出しながら、『きた!』とガッツポーズしていた。だってこれは、私の想像する『大人の恋愛』に充分当てはまるシチュエーションだったからだ。
 ダンピールの中でも特に優れた五感を持ち、明晰な頭脳と観察眼を使い若くして隊長という地位まで登りつめたやり手。どんな事態が起ころうと不敵な笑みでなんなく対処し、決して取り乱したりしない。私が憧れて好きになったドラルク隊長という人は、そんな大人の男性だった。平々凡々な私では到底手の届かない高嶺の花。しかし、かといって簡単に諦めることもできなくて。だから私は彼に振り向いてもらうため、大人の女性として振る舞うことにした。感情に振り回されない、やたら言葉を求めない、物分りのいい女性。どれも素の自分とはかけ離れていてかなりストレスは溜まったけれど、それでも彼の前ではそういうふうに演じてみせ、結果的にこうして恋人になることができた。
 のはいいが、恋人になったからといってそれではいめでたしめでたし――では終われない。というかむしろ付き合ってからの方が問題が増えた気がする。まず第一に、大人の男女がする大人の恋愛が分からない。なぜなら私は大人の女性じゃないから。これに関連し、次に貼った鍍金を剥がすタイミングが分からない。何重にも猫を被ったせいで彼に素を曝け出すことが怖くなってしまった。付き合って三ヶ月も経つのにキスさえしてもらえていないという三つ目の問題が浮上しているのも、きっとこれが原因なんだろう。
「散らかってるけど」
 そう言って初めて招かれた部屋は埃一つなく、そんな室内の有様にそっと下唇を噛む。隊長のダメなところを見れるかと思ってちょっと期待してたのに。フローリングの張り目に沿った真っ直ぐな配置のソファ。綺麗に並ぶ本棚や、ピカピカに磨かれたシンク。『散らかってる』の本当の意味を教えてやりたい。だけどこういう嫌味なほど完璧なところも好き。完璧すぎて釣り合わないと落ち込むことも、多いけれど。
 特別な日にしか呑まないというワインを開けてもらい、一緒に軽いつまみを作ったりして、和やかに夜は更けていった。やがて会話が自然と途切れ、蜂蜜色が熱を持ったのを見たとき。再び『きた』と歓喜と期待で口が緩みそうになった。ようやく恋人らしいことができる――。
「――終電」
 と思った瞬間、突然視線が外れた。鼓膜を揺らした脈絡のない音に困惑する。「もうこんな時間じゃないか!」わざとらしい嘆き声によって先程のまでの空気は完全に霧散した。
「終電がなくなってしまうね、急がないと」
「い、急ぐ?」
「ああ。酒が入ってなければ車をだせたんだけど」
 すまないねと心底申し訳なさそうに眉を下げられてしまえば、もうこちらとしては「それはいいんですが」と返すしかなくなる。いや、車は本当にどうでもいい。酒が入っていたって二十キロ程度なら歩けるし、なんならタクシーに乗ればいいんだから帰りの方法なんて困らない。それなのに、え? 終電? 思考が追いつかず、テキパキとガラステーブルの上が片付けられていくのをただ呆然と眺める。あらかた綺麗にし終えると、隊長は穏やかに微笑んだ。
「駅まで送らせて」
「……わ、かりました。お願いします」
「うん、じゃあ――」
「あ、待ってください、これ飲み干しちゃうので」
 言いながらグラスを手に取り、逡巡してから覚悟を決めて不必要に勢いよく顔へ近付けた。パシャリと胸元に深紅が広がり、隊長が驚いた声を上げる。濡れたYシャツが肌に張り付き、濃い果物の香りが立ち込めた。ラグにワインが零れていないことをさりげなく確認しつつ謝罪を口にする。
「ちょっとその、酔いのせいで、手元が」
「……ああ、そう、酔っちゃったんだ……」
 そっか、とちいさく繰り返された呟き以降、彼がぷつりと黙り込んでしまったので私も「そうです」と念押しする。
「……あ――とりあえずタオルを――」
「服を貸していただけませんか」
 身を翻しかけていた隊長がぴたりと動きを止めた。私からは彼の背中からしか見えず不安になる。
「……それから、シャワーもお借りしたいです」
 ただでさえ、今の自分の行動に自信が持てていないのに。心細さから彼の袖口を控えめに握る。私が何を言いたいのか、そしてしたいのか。聡明な隊長であれば、これで充分伝わったはずだ。
 できれば受け入れてほしい。拒絶しないで。だって私たち、恋人でしょう? 
 心臓が痛いほど脈打っていて、緊張で視界が霞んで揺れる。返事を待つ時間は、何時間にも感じられた。
「――服『は』貸すよ」
 身体から熱が引き、酔いが一気に醒める。一際強い鼓動の名残りで耳の奥がじんと痺れた。
「けどシャワーは貸せない。……壊れてるから」
「は? 壊れてる?」
「あ、いや壊れてるというか――えー、あの……少し調子が悪くて。お湯の出がちょっとね」
「……温度なんて気にしませんが」
「いやいやだめだよ、ほんと、三秒おきに水温が狂うんだ。そんなポンコツシャワーを使わせてきみに風邪を引かせたくない」
 早口で捲し立てる隊長をまじまじと見てると、彼はパッと両手を擦り合わせた。その顔には外向き用のゴマすり笑顔を浮かんでいる。
「いやぁ、最近家のメンテナンスがあんまりできてなくて。なんとも恥ずかしい話だけどね。ほら、大侵攻とかその後処理とかでここ最近はなにかと多忙だったじゃない? うちの部隊は特にあのゴリラの世話もクソ髭に押し付けられたしさ。一昨日だってあの五歳児、ジョンに富士山の雪で作ったかき氷を食べさせてやりたいとかいきなり馬鹿なこと言い出して――」
「分かりました」
 隊長のご高説を遮り、グラスを机に置いて腰を上げコートを羽織る。
「帰ります」
「え、あっ、そう? 分かった、すぐにタオルと服を――」
「もう少しうまく言い訳をしてほしかったです」
 俯いたまま隊長の横を隣を大股で通り過ぎる。数秒遅れて追ってきた慌ただしい足音と「待ってよ!」という声は無視した。靴を履こうと玄関口にしゃがんだが、なかなかストラップを留めることができず、変にもたついてしまった。ああもうほんとむかつく、なんでこううまくいかないのかな。
「帰るなら私も途中まで――」
「結構です。お邪魔しました」
 ストラップを留め、拳を作って手の震えも抑え込んでから立ち上がる。
「用事を思い出したので一人で帰ります」
「あの、待って。きみなにか勘違いしてるよ。話を――」
「聞きたくないです!」
 肩を掴まれたが、かかる鞄の紐を握り締め肩を内側に丸めて拒絶を示す。壁を作った本人のくせに、なんで今更こんなことするんだ。目頭のじわりとした熱に、さっきからずっと堪えていたものが体の奥から溢れだしそうになっているのを感じ、ぎゅっと歯を食い縛った。
「やめ、はなして、今わたし冷静でいられないんです、だから――」
「冷静じゃなくてもいいよ。でも一人にはさせられない」
「追い出したがってたくせに!」
「ちが、っ……たしかに、さっきのはそう思わせてしまう発言だったかもしれないけど、本当に違うんだ」
 肩の手に柔く力を込められた。その意図を察し、仕方ないのでのろのろと振り返る。
「……付き合って、もう三ヶ月ですよ」
「そうだね」
「なのにキスも、なにもしてくれない」
「……したかった」
「え?」
 大きな手に包み込まれ、手首の内側をすりすりと親指で撫でられた。手を繋ぐくらいならさすがにしたことあったけど、でもこんなちょっと艶めかしさを感じる触り方は初めてで、思わず息を詰めて目を瞬かせる。隊長を見ると、参ったような顔で私を見つめていた。
「ずっとキスしたかったし、触れたかったよ」
「な、なら、全部してくれればよかったのに」
「…………手が早いとも、がっついてるとも思われたくなくて」
 中学生じゃあるまいし、三ヶ月でそんなこと思わない。むしろ学生にしたって遅すぎるくらいなのでは……?
「誠実に進めたかった。大事にしたかったんだよ。なにせこんなに好きになったのはきみが初めてだったから。雰囲気とかその場の空気とかそんなんじゃなく、もっとちゃんと私の想いが伝わるように関係を進めたくて。……それで哀しませたら元も子もないのにな」
 隊長は自嘲気味に言葉をつけ加えながら、手を握る力を強めた。「独り善がりでごめんね」という謝罪までされてしまうと、責める気持ちも消え失せてしまう。
「……あの、ならどうして今日は家に誘ったんですか?」
「そりゃあもうちょっと一緒にいたかったからさ」
「下心なしで?」
「当然だろ」
「何もする気はなかった?」
「うん」
 本当に? そんな気持ちで平然と答える隊長へじっと視線を注ぐ。
「…………微粒子レベルでは存在したかも」
 したのかよ。そろりと視線が逃がされたが、詰る気持ちでじっとり睨み続ければ、隊長はキッと顰め面をした。
「ちょっとくらいあったっていいだろ! 恋人なんだから!」
 わっと噛み付いたかと思えばツンと顔を背けられてしまい、ついつい口元が綻ぶ。だってそんな拗ねた子どものような態度をとられるのは初めてだ。笑いながら私からも指を絡めると、気まずげに瞳が戻ってくる。
「隊長って、思っていたより大人じゃないんですね」
「ああ、たかが数年早く生まれただけのしがないダンピールだって、ようやくきみにも気付いてもらえたみたいでなによりだよ」
 皮肉っぽく吐き捨ててから、隊長は深い溜息を吐いた。
「きみがなぜか私をやたらフィルターかけて見ていることには気付いていた。でも大人のデキる男――業務に関してはまあ実際そうだが――と認識してもらえてるなら男としてはそれに越したことはないし、自分から違うだなんて申告するのは格好つかないし、それに――……」
 隊長は不自然に口篭り、瞳を泳がせる。「それに?」促せば、彼は観念したようにぎゅっと一度瞼を閉ざしてから、そろそろと開けた。
「……私のために大人の女性になろうと努力するきみは、とてもかわいかったから」
「……は?」
「いや普段の天真爛漫なきみも当然大好きなんだけど、私に合わせた振る舞いをしようとしてくれてるのが嬉しくて愛おしくて、尚更言い出すタイミングがなくて。……怒った?」
 まるでご機嫌を伺うように隊長はこてんと小首を傾げる。弱々しい可愛子ぶった仕草は珍しくて、一瞬抱いた憤りもどうでもよくなってしまった。それに、言われている内容も純粋に嬉しかったし。でも散々振り回されたのに、簡単に怒ってないですと言ってしまうのもちょっと癪だ。少し考えてから口を開いた。
「キスしてくれたら許します」
 隊長は目を見開いたが、すぐに手を伸ばしてきた。頬を包むぬくもりにそっと目を瞑り、私は少しだけ踵を上げた。高い鼻が頬に当たり、無性に笑いたくなる。はじめてなのに台無しすぎるから、なんとか我慢したけれど。
「……本当は帰したくなかった」
 静かに離れたかと思えばそんなことを囁かれ、再び頬に鼻先を押し付けられる。今度こそ笑ってしまった。


【オマケ】
「……ところで私はいつまできみの隊長なのかね」
「はい? 隊長は隊長、……あ」
「だよね! やっぱり気付いてなかったか! そんな駆け引きできるような子でもないと思ってたしね! そういうとこ、そういうとこツメが甘いんだよ! 大人の女性ぶるならさらっと名前呼びくらいしてみなさいよ」
「う……た、隊長こそ、そんなに名前で呼ばれたかったんですか?」
「当たり前だろ、恋人になんだから」
「ひ、開き直ってる……」
「直るとも。それに私はもう変に遠慮したり格好つけたりしないって決めたしね。だからきみも無理はしないように」
「……普通の私のほうが好きですか?」
「どっちも好き。好きだから、ほら――名前で呼んでよ」

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