恋月冴ゆる、行合の空


 四月初旬、花冷えする春の夜。ちょっと定時を越したがなんとか無事業務を終わらせた私は足取りも軽く帰路についていた。少し寒いが、星が綺麗な明るい夜だ。空を見上げていれば視界の端で何かが光った。ほわほわとした、鱗粉のようなものが濃紺の夜を舞っている。桜のような淡雪のような不思議な光彩を放つそれは、こんな無味乾燥としたビル街には不釣り合いに幻想的で美しかった。見惚れて立ち止まり、誘われるようにふらと手を伸ばしたが、しかし掴む寸前で溶けるように消えてしまった。……幻覚だったのだろうか。そんなに疲れてるのかなぁ。
「――あら、御機嫌よう!」
 鈴のように軽やかな声音が卒然と私の鼓膜を揺らし、落ち込みかけていた思考を一気に晴らす。声に聞き覚えはあった。それこそ聞き間違えるはずなんてないと自信を持って言える。けれど投げられた言葉とその人物がいまいち結び付かず、一瞬だけ眉をひそめてしまう。なぜか無性に声の主と相対するのが怖いような気持ちに駆られた。え、ロナルドさん、だよね……? いや、声は確かにロナルドさんだ。聞き間違えるはずがない。なにを怯えることがあるのかと渦巻く妙な猜疑を振り払い、私は背後を振り返った。
「ロナルドさ、エッ、ロナルドさん⁈」
「うふふ、ええ! そうでしてよ?」
「そうでしてよ⁈」
 なにそれとオウム返しして目を剥く私を、ロナルドさんは愉しげにくすくす笑った。『うふふ』って笑った! 『ええ』って言った! もう言葉の全てに逐一反応してしまう。だってそもそも――え、この人ほんとにロナルドさんなの? この睫毛が普段の三割増しでばっさばさでキラッキラで、瞬き一度の風で桶屋が三軒は余裕で儲かっちゃいそうな睫毛の持ち主が? 瞳がいつもよりくりっとつぶらで煌めいていて、少女漫画みたいな花を背負ったこの華奢で可憐な人が、ロナルドさん? う、うそだ、信じられない。だってロナルドさんはゴリッ……いやでもたしかにさっき『そうでしてよ』って言ってたもんな……。
「あ、あの、今からちょっとお電話するので……ま、待ってていただけるかしら……?」
「もちろんですわ。どうぞごゆっくりなさって! アフタヌーンティーでもして待っていますわ」
 都合よく近くに公園があったので、そこのベンチへ彼を誘導する。ふわりと優雅な所作で腰掛けたロナルドさんはうふふとまたおしとやかに微笑み、行間からアフタヌーンティーに使う妙な皿のタワーを片手で軽々と取り出した。謎のファビュラスオーラを漂わせているロナルドさんから少し距離を置き、彼の相棒の番号を呼び出す。
『はい、こちらドラルク――』
「ドドドドラルクさん⁈ なんか私のところに変――じゃなくて妙、というか、あの……やたらと作画の違うロナルドさんがいるんですけど……⁈」
『ああ、うちにいないからどこにいったあのガバカお嬢様と思ってたら、きみのとこに行ってたのか』
 事の経緯を簡単に説明される。退治人でもないので大天才と世間的に名高いVRCの所長のことは名前しか知らなかったが、とんでもないことをする人だったらしい。町全体を実験場に……? うーわ、とんでもねえ……。
『サイコの話によればもうすぐ催眠も切れるらしいし、きみは特になにもしなくていいぞ。存分にお嬢様ルド君を堪能するといい』
「お嬢様を堪能って……」
『私ならこういう機会になんらかの言質をとって正気に戻ったあと強請るネタにするけどね』
 含みを孕んだ声につい黙り込むと『ま、好きにしたまえ。それじゃ!』と一方的に電話が切られる。無音になった暗い画面には、なんとも言えない渋い顔の自分が反射していた。
 別になにかを強請りたいわけではない。でもなんらかの言質――例えば、私のことをどう思ってるかについて聞けるなら、それはちょっと気になるというか。私は彼に対して恋人になりたい意味での好きを抱いているので。そして恐らく、ロナルドさんも同じ気持ちなのかな〜なんて雰囲気はなんとな〜く、薄々感じている。感じてはいるのですが、しかし決定的な言葉を未だに貰えていないのもまた事実なわけで。
 だがこれを――このなんかよく分からないこの状況を好機と捉えるのもどうなん、ヒトとして……。ぶつぶつ悩みながら、小指を立ててしずしずと紅茶を嗜んでらっしゃるお嬢様の元へと戻る。ロナルドさんはパッとかんばせと背景の花を輝かせ、ぱっちり上がった睫毛をぱちぱちとさせた。う、かわいい。女の子みたい……いや、お嬢様だからあながちそれも間違ってはない……?
「おかえりなさいまし! ご用事は済みましたの?」
「ええ、はい。おひとりでお待たせしてしまって申し訳ない」
「まあ、お気になさらないで。ああでも、実は私(わたくし)、貴女にずっと聞きたいことがあったのを思い出して! せっかくだから今聞いてもよろしくて?」
「構いませんことよ」
 窺うようにこてんと小首を傾げる彼へ了承しながらも、内心では当惑する。ずっと、とはお嬢様になる前からの話だろうか。性質を反転だから記憶やらは継続しているんだろうし……。つまりロナルドさんが以前から私に対して抱えていた疑問?
 内容へ思いを馳せていれば、不意に夜の空気で冷えていた右手の指先が暖かくなる。ハッとして自身の手を、そしてそこから伸びる赤い道を辿ると、頬をうっすらと紅潮させたロナルドさんと視線が交わった。彼が軽く繋いだ手を引っ張り――この軽くはあくまでもお嬢様的な『軽く』なので、私には当然軽くなかった――、自身の隣へ座るようにと促してきたので、大人しくそれに従い腰を落ち着ける。ロナルドさんが空咳の後、「ねえ、貴女?」とどこか気取ったような仰々しさをもって喋りだした。
「私が聞きたいのは、その……ホワイトデーのお返しにマカロンを贈るその意味を、貴女は知っているのかしら? ということなのですけれど」
「へ……ホワイトデーのお返し……」
「そう、おマカロン。ちょっとオシャレなエブリバーガーですわ」
 おマカロン。随分と間の抜けた響きになったお菓子を心の中で繰り返した。しかも駄菓子に喩えられちゃったよ。これでこのお嬢様はお真面目なのだから敵わない。笑っちゃダメだということにばかり意識がいってしまい、返事もできないままただ瞬きの数が増えていく。そんな私に痺れを切らしたロナルドさんがムッと可愛らしく唇を突き出して顔を寄せてきた。熱の篭った瞳がきらきらと間近で輝いている。ぎょえー、なんだその普段以上に通った鼻筋は。このお嬢様、顔がよすぎる。あまりの顔の良さに――うそです。普通に好きな男との至近距離が恥ずかしかったため、つい背中を仰け反らせる。開いた距離にロナルドさんはほくほくと赤い頬をまた膨らませた。そんなふうに怒らないで、可愛いから。もう感情が爆発して笑うしかなくなってしまう。それかいっそ泣くぞ。
「ああもう――ねえ、ご存知なの⁈」
「ご、ご存知ですわ!」
「え……ええ⁈ ご存知でしたの⁈」
 お嬢様が急にきゃあっと絹を割くような叫びを上げ、飛び退いた。ベンチの限界まで距離をとられ、さっき膨れ面をした彼の気持ちがなんとなく分かってしまった。我ながら情緒がめちゃくちゃだ。
 さて、顔をショートケーキの上に乗った輝くイチゴのように紅く染めた彼は、さぞ熱くなっているだろうその頬を、溶け落ちないようにとするみたいに両の手でそっと包んで抑えた。ロナルドさんはベンチの端でもじもじと身を捩らせながら、私へ不安そうに眼差しを送ってくる。
「いえ、いえ……貴女が存じ上げていなくったって構わないと思ってはいたんです、私。それは本当でしてよ、ええ……でも、でもそれは、あの……ちょっと、予想外のお返事でしたわ……」
「お、驚かせてごめんなさい?」
「ええ、いえ、それは構わないのですけれど……でも、だったら――し、知っていたのなら、なぜなにも仰ってくださらなかったの……?」
 ホワイトデーのお返しとして贈られるマカロンには、【特別な人】という意味が込められている。これは完全なる偏見ではあるが、想い人がいる状態でバレンタインというイベントに乗っかった人間の中でホワイトデーのお返しの意味を知らない、若しくは調べない人はいないだろう。だから私だってマカロンの意味は知っていた。
 まあとは言っても? ロナルドさんはどうせ知らないだろうなと高を括り、受け取ったときも『わあ可愛い〜大事に食べますね!』という無難な反応しか返さなかった。彼も私のことを憎からず思ってくれていることは察していたが、しかしロナルドさんにそういう気が回るとは正直思えなかったからだ。このマカロンも、きっとドラルクさんかお友達、最悪百貨店の催事場の人とかにオススメされたから言われるがまま購入したに違いない――と、今の今まで信じて疑っていなかった、のだが。
「わ、私、たくさん悩んで、一生懸命選んだんですのよ……?」
 どうも、そういうわけでもないらしい。
 既に涙で濡れそぼって幾つかの束となっている銀の睫毛が吐息に合わせてふるりと揺れる。その様に抑えきれない興奮と期待が煽られたが、平静を装って会話を続ける。
「ロナルドさんが選んでくれていたんですね。……ご自分で」
「当たり前ですわ。だってとても素敵な心のこもった手作りのチョコレートを頂いたんですもの……私だって相応の、いえそれ以上の物を差し上げたいと思って当然ですわ」
 本当は手作りのお返しをしたかったのですけれど、それはドラルクさんに止められてしまいました。
 しゅんとした、それでいてやや不満げな口振りに、こと料理に関し彼があまりそれを得手としていなかったことを思い出す。ドラルクさんは私のためを思って止めてくれたのだろう。それでもロナルドさんが私のためを思って作ってくれたものなら、一度くらいは試してみたかった気はする。「あの」愛と命の危険を天秤にかけて葛藤していれば、か細い声に意識を手繰られ慌てて彼へ向き直る。
「意味を知っていて返事をして下さらなかったということは……貴女は、あなたは、私のことが――」
「ち、違います、そうじゃありません!」
 今にも泣き出しそうな引き攣り声を慌てて遮った。今にも倒れそうな青白い顔をしていて、心做しか背負っている花も薄くなっている。彼の思考がよくない方へと転がっていっているのは明白だ。お嬢様があまりにも可憐で美しかったので虐めすぎてしまった。
「ごめんなさい、違うんです、あなたはてっきり知らないのかと……」
「私が?」
「はい。だからマカロンの意味を知ったら、その……取り消しとか、後日別の物を贈り返します、とか……って、提案しちゃうんじゃないかなって」
 思ったんです、という弁明が尻窄みになっていく。まだ真意を掴めないとばかりに憂う瞳の彼に、覚悟を決めるための息を吐き出す。自分の狡さをこの真っ直ぐで純情な彼に真正面から伝えるのは、だいぶ勇気のいることだった。
「あなたが、私にとって『とくべつ』な人だったから」
「……え?」
 意味を教えて、それを『間違い』だと否定されたらと思うと、それは想像するだに切なくて、苦しかった。
 例え偶然だとしても、意図してなかったとしても、あなたから『とくべつ』を贈って貰えたことが嬉しかった。
 だから返してなんてあげたくなかったのだ。
 贈られたマカロンは、込められてもないだろう想いを探すようにゆっくり舌で溶かして、そうして浮かんだ虚しさを丁寧に噛み砕き、胃がもたれるような甘さを飲み下して、一つひとつを大事に大切に堪能して完食した。
 それは全て、あなたが私にとって『とくべつ』だったから。
「だからなにも言えませんでした。……隠していてごめんなさい」
 身の内を全てを吐き出し終え、深く項垂れる。返事はなく、しばらくはサラサラと木々が風に揺れる音だけが聞こえていた。
「とくべつ」
 長い沈黙を横たえた後、ロナルドさんは初めて聞く言葉のように拙く繰り返した。
「あなたの、とくべつ」
「そうです」
「……だれが?」
「ロナルドさんがです」
 温度のない確認が耳に痛い。己の狡さを痛感したばかりだというのに、私は未だ顔を見れず俯いたままだった。だって今ので失望されて、彼の好意が消え去ってしまっていたら。この期に及んでまだそんな保身に走っている自分が情けない。
「――おれ、が」
 けれど耳朶を打った一人称に、重くのしかかっていた罪悪感も忘れ、弾かれたように顔を上げる。取り囲んでいた花々はいつの間にか霞と消えていて、彼は今や星が点々と光る夜空と朧月を背にしていた。包み込むようにして降り注いだ柔らかい月光が、銀の髪をぼんやりと照らしている。ロナルドさんは、静謐な水底のような夜に相応しい凪いだ表情をしていた。先程の涙が僅かだけ下睫毛に名残っていたけれど、それを拭いもせず、彼は「おれがあなたの、とくべつなんですか?」と再度尋ねた。
「そ、そう。そうです。とくべつです」
「……そっか」
 信じてもらいたくてこくこくと何度も頷くが、短い返答からは確証が得られず落ち着かない。沈黙に耐え忍んでいると、ロナルドさんの口が徐に緩む。次いで眦がへにゃりと蕩けていくのを、私は唖然と見つめた。
「俺にとっても、あなたは『とくべつ』です」
 なにより大事で、大切な。
 春風が運んできた言葉は、もしかしたら空耳なのかもしれない。愛おしげな眼差しも、真っ赤な顔ではにかんだ目の前の彼も、なにもかも気紛れな春の夜がみせた一時の夢なのかも。だってお嬢様も花弁とともに消えてしまった。この状況だけが幻想ではないとどうして言い切れるのか。
「……あなたから言わせてしまってすみませんでした」
 ああほら、また都合のいい言葉ばかりが届く。
「正直さっきまでの記憶、結構あやふやで。意識、ほぼ戻りたてなんです」
 いよいよ幻聴の現実味が増してきて、なんだか少し笑ってしまいそうになった。
「でも、これは多分、まだ言ってません、よね」
 ロナルドさんは、言ってねえはず、と自分に言い聞かせるように小さく呟いた。すう、と息を吸い込む音がする。
「好きです」
 こんなのもう絶対夢じゃん。
 そう思った瞬間、手元を控えめに擽られる。瞳だけでベンチに置いていたはずの手を見て、そうだと思い出した。手を――最初、お嬢様に隣へ請われたとき。繋いでいたのだった。ずっと繋いでいたから熱も感覚も溶けきって、なんだかもはや身体の一部のようになってしまっていて、すっかり忘れてしまっていたけれど。彼がこうして指を絡めたことで、より感触を新鮮に捉えることができたから。思い出した、思い出してしまった。意識しないようにと蓋をしていたはずの熱と、手の平に擦れる皮膚の感覚を。
「ゆめじゃ、ない」
 夢見心地のままつい零してしまう。私の覚束ない声に、ロナルドさんは少し目を泳がせてから困ったようにやんわりと相好を崩した。
「ゆめにしないで」

 >>back
 >>HOME