馴れ


 私だって本当は笑顔にしてあげたい。大好きな人だもの。幸せそうな彼が好きだ。彼が楽しげにしているところを見ると、それだけで胸には暖かな幸せが灯る。鼓膜を気持ちよく揺らす高らかな笑い声も、穏やかでひそやかな微笑みも、柔らかく蕩けた眼差しも。全部全部大好きで、なにより愛おしい。そう思う気持ちに嘘偽りはない。
「……あー、手が滑ったー」
「なにその棒読み、ウアアアッ?!」
 ……のだが、でもあの、手が。なんかいきなり開いて拗れ返った性癖が、勝手に。
 ドラルクさんとお付き合いを始めて数ヶ月。私は彼と会う度に、靴下を奪っては胸を高鳴らせて生唾を飲むという変態迷惑最悪奇行を繰り返していた。
 こんなことよくない、やめなきゃと何度も思った。こんなどこぞの変態みたいな真似、早急にやめなければと。けれど愛しのドラルクさんを前にして、そして気が付くと、私は黒い靴下を一足、クリスマスのプレゼントみたいに固く握り締めてしまっているのだ。もはや発作や反射に近い。
「っきみねェ?! もうほんと、いい加減にしてくれないか?! 恋人の安全を脅かしてなにがそんなに楽しい?!」
 頽れたドラルクさんからワッと半泣きで叫ばれたド正論が耳に痛い。「ごめんなさい」と口にしながら、私はそっと目を伏せた。申し訳ないという気持ちはあるんです、いやほんと、ほんとうに……。この行動が高等吸血鬼の退治方法の一つと知ってるし、現にドラルクさんはこんなにも怯えて震え、ふるえて――ああどうしよう、ほんとうにかわいい。すごい興奮する。もうだめだ私は。
「高等吸血鬼に対しての潜在的な畏怖の念がそうさせるのかもしれません……生存本能が、みたいな……」
「えっあっ畏怖? あ、そお……ふ、ふぅん……!」
 とりあえず誤魔化しのために、真面目くさって適当なことを宣ってみた。嫌われたくない一心で並べ立てはしたけれど、我ながら詭弁すぎる。しかしドラルクさんは『畏怖』と聞いた途端、急に怒りを霧散させ、ニヤけるのを我慢してるかのように口をもこもごと動かした。『それならまあ……?』といった、満更でもない顔付きをしている。やだ、私の恋人、もしかしてチョロすぎ……? 知ってた。
「ま、まあ? そういうことなら? 私の畏怖力は四十九万あるし? 仕方ないとも言えなくもないというか?」
「ええ、本当に」
 分かりやすくテンションを上げているドラルクさんへ、神妙なフリをして頷いておく。畏怖畏怖詐欺とかに引っかかったりしない? 大丈夫かなこの二百八歳児……。
 なんて余計な心配をしつつ、私は強奪した靴下を返すべく、寒そうなガリガリの素足を恭しく持ち上げた。靴下を脱がせるのも履かせるのも、この数ヶ月で悲しくなるほど上達してしまった。なんて要らないスキルを身につけてしまったんだろう。この際いっそ、退治人に転職しようかな……。
   ◆
「わー足がいきなりもつれたせいで転んでしまうー」
「なんだその説明口調、ドワアアアッ?!」
 きゃーと言いながら慣れた動作で靴下を奪う。今日はゴムトップ部分に赤のラインが入った濃い灰色のやつだ。いいですね、この靴下好き。
 お気に入りの靴下であったことを内心で喜びながら、メインディッシュの恋人を見下ろす。メインディッシュって言っちゃった。もうだめです私は。
「ねえ薄々思ってたけどきみわざとでしょ。わざとだろう。なあ」
 眼下に坐すドラルクさんは、私を睨み上げていた。そのいつも通りな相貌に、思わず愕然とする。
「えっドラルクさん、大丈夫ですか?」
「は? 誰かさんのせいでたった今大丈夫じゃなくなったんだが?」
「いや、でも、だって、なんか……え、全然平気そうじゃないですか?」
「……え?」
 ドラルクさんは私の言葉に目を丸くして、自身の体躯を見回した。その薄く細い体はどこを見たっていつも通り。そう、普通なのだ。つまり、なんの異常もない――靴下を奪われているというのに。ドラルクさんは、靴下を奪われたのに平然としていた。
「……ほんとだ」
「ど、どうしちゃったんでしょう……」
 ドラルクさんと一緒に首を傾げる。かわいいドラルクさんを二十秒ほど堪能してから謝罪して、ちょっとリップサービスしてなあなあにするのがお決まりの流れなのに。いったいどうしたんだろう。も、もしかしてどこか悪い? 病院、いやVRC?
「……あ、そういえば」
 『吸血鬼 靴下 とられても元気 大丈夫?』と検索するために携帯を取り出そうとした瞬間、ドラルクさんが呟いた。
「奪われたという感覚がまったくなかった……」
「え……」
 言葉の意味が飲み込めずポカンとする。思考を巡らせるように顎へ手を添えるドラルクさんは、ちらりとこちらへ視線をよこした。
「ほら私、この数ヶ月、散々脱がされて奪われてきただろう」
「はい……改めて文字にするとすごいひどい感じしますね」
「すごいひどいんだよ。まあとにかく、だからそのお陰というかそのせいというか」
 言葉を切ったドラルクさんは、こほんと軽く咳払いをしてから、ゆるりと相好を崩した。細まった瞳の眦がとろりと垂れる。
「靴下をいきなり脱がされても奪われたと思わなくなってしまうくらい、私の中にきみが溶け込んできたってことだろうな、多分」
 要するに、『慣れ』てしまったということらしい。言い回しがなんかちょっとあの……卑猥じゃない……? と思ったけれど、ドラルクさんがやたらと嬉しそうにしているので、私は「なるほどですねー」と笑うに留めておいた。慣れ。慣れかあ。つまり私に脱がされて小鹿みたいになっちゃうドラルクさんはもう見れないんだ……そっか……。
「……なんかきみ残念がってない?」
「はい? いやまさかそんなわけいやいやないですよやだなあドラルクさんってばもうあはは」

 >>back
 >>HOME