危機感


「……きみさァ。もう少し危機感とか持ったらどうかね」
 ぐでんと溶けた黄身のようにソファに横になっていれば、突然そんなことを言われた。目の前のテレビでは、ドラルクさんの操作するキャラがちょうどゲームオーバーになったところだった。さっきから本当によく死ぬ。これじゃ現実と大差ないじゃないですか。ていうか危機感って、はあ? なん? ゲームに集中しなさいよ。
 舐め腐った態度で寝転がったままドラルクさんへと視線だけやれば、彼もこちらを見ていた。揃って並ぶ自身の膝頭越しの瞳は、心なしか湿度が高い。そんな目を送られる覚えはさっぱりなかったため、思わず眉をひそめる。
「なんですか」
「なんですかじゃない。おいコラ蹴るな」
 えいえいと素足で彼の腰あたりを小突く。蹴るといっても素振りだけで、実際には力はまったく込めてない。私の恋人はすぐ死んでしまうので、精々爪先で、ベストを撫でていく程度のことしかしていなかった。なんて気遣いのできる恋人なんだろう、私ってば。「やめろと言うに」僅かに感じる肋のゴリゴリ感を楽しんでいれば、ドラルクさんが溜息混じりでそう言って、私の足裏をがっちり掴んだ。片足だけが中途半端に上がったみっともない体勢にされ、口をへの字に曲げる。
「なにするんですか、えっち」
「……その言葉が出せるなら、こんなことはやめなさいよ」
「こんなこと?」
 はて、と緩慢に瞬きをすれば、ドラルクさんの額に青い筋がぷっくり浮かび上がる。足首にかかる指先に力が篭ったのを感じた。彼が少しだけこちらへ屈んできたので、首のあたりまで影が落ちてきた。
「あなた、私の性別をご存知かしら」
「今ちょっと分からなくなった」
「うむ、これは私が悪いな」
 仕切り直し、と真顔で言う彼に私も真顔で頷く。どうぞ。
「私が男で、且つ恋人だって知ってるかな、きみ」
「それはよく! 大好きです、ドラルクさん!」
「あ、うん、ありがと……」
 ニコッとすると、目の前の不機嫌顔が途端に居心地悪そうになった。もにゃ、と大きな牙をしまう口が気恥しさを誤魔化そうとするかのように動き、ますますニッコリしてしまう。ふふ、かわいい。そんな私に彼はハッとして、悔しげに目を窄めた。
「っだから、それを分かってるなら、あの、もうちょっと危機感とか持ちなさいよって話なんだが!」
「危機感〜……?」
「な、なんだね、その物言いたげな顔は」
「べつに」
 付き合って数ヶ月経つのに触れるキス以上のことをしてこない、こちらから分かりやすく色々アピールしてみても反応なしな恋人に、今更どんな危機感を抱けというんだ、と思ったのが顔に出てしまっただけだ。できる恋人なので口にはしませんが。
 どことなく白けた気持ちのまま、よっと体を起こす。「えっ、なに、ちょっと」私の急な動きに足を掴んでいた手が自然と外れた。戸惑っているドラルクさんと数秒ソファの上で膝を突き合わせ、私は口角を上げ、手を伸ばす。
「えーい」
「は?!」
 骨ばかりな彼の薄い肩を両手に収めて押し倒した。倒された衝撃で砂るかなと思ったけど、人型を留めたままな彼を意外に思う。状況が飲み込めないのか、私の下で目を丸くさせているドラルクさんに、私はゆったり目を細めた。体重をかけ過ぎないように注意を払いながら、首元に頭を預け、至近距離から見つめあげる。浮き出た首の筋がピクリと動いた。
「危機感って言いますけど、あなたになにができるっていうんですか?」
 ここから私を退かすことだってできないくせに。
 そう言ってクスクス笑えば、ドラルクさんは元から大きな白目を更に広げる。唖然といった様子の口元から力が抜け、鋭い牙が顔を見せた。
 恋人の虚弱さはよく知っている。だから手を出してこないんだろうな、ということも、この数ヶ月の攻防を経てなんとなく分かっていた。別にそういうことをしなくても私としては構わない。元々それ目的で恋人にしてもらったんじゃないしね。一時期は私に女としての魅力がないのか、私に実は興味ない? とか、色々不安になったものだが、そういうわけではないというなら、それでいい。甘いじゃれ付き合いだけでも、彼からの愛情は十分伝わってきていたし、私は満足していた。
 不意に下敷きにしていた彼の体が崩れ、支えがなくなる。肉が少ない首枕のかわりに、さらさらした砂が落ちた私の頬を受け止めた。再生しようとしているのかするすると蠢く砂に体をくすぐられる。服の合間にさえ入り込んでくるような感触にくふくふ笑っていれば、いつの間にか目の間に合った砂溜まりは消えていた。あれ、と思った次の瞬間、ベールをかけられたように視界がふっと暗くなる。
「……え?」
 気が付くと、降ってきた影に、頭からすっぽりと覆い隠されていた。うつ伏せのまま、顔だけそうっと動かして上を見る。先程の私ばりにいい笑顔のドラルクさんが私を見下ろしていた。うすらと開かれた眼からこちらを穿つ緋色の瞳はこれっぽっちも笑っておらず、無性に空恐ろしくなってひゅっと喉が引き攣る。
「や、やだ、なんです?」
 意図して軽い調子を作り、へらへら笑いながら仰向けになって向き直ってドラルクさんの肩を押す。けれど押した先から、ドラルクさんの体は塵と化してさらさらと流れてくるだけで、形成が変わることは一向になかった。
「……え?」
 ぷつり。いつの間にか鎖骨付近に置かれていた骨ばった手が首元のボタンを外した音は、ささやかなはずだったのにいやに鼓膜に響いた。私の短い音に構うことなく、続けざまにぷちぷちと開放されていく。
「へ、や、やだ、なに――えっ?」
 涼しくなっていく首元に慌ててなにをしてるんだと止めようとしたが、私の手の動きに合わせて変幻自在に形を変える大きな手を捉えることは、一向に叶わなかった。必死の抵抗も虚しく、みるみるうちに外気に晒される部分が増えていく。あっという間に、Yシャツのボタンは全て外されてしまった。そんな事実に愕然とする。
「そりゃあ私は、力じゃきみどころか、そこらのか弱い女児にすら敵わないよ」
 ドラルクさんが、猫撫で声で何かを言っている。けれども私の意識は、冷房に撫でられる素肌や、喉の真ん中から横に少しズレたあたりへトンと落ちた、枝のような指先にばかりいっていた。指はやたらゆっくりとした動作で首の筋をつつ、となぞり降り、鎖骨をも超えて、すっかり露になった胸の付け根でやっと止まった。
「でも腕力だとか、体幹だとか、他にはまあ体力だとか? 私のそれらがきみに遠く及ばないとしても、ま、それだけが全てじゃないよね?」
 違うかい、とドラルクさんは声だけは異様なほど穏やかにして問いかけながら、ゆるりと頬を緩めた。胸を掠め撫でる手を咄嗟に掴んでしまう。動揺で力を込めすぎて彼の手を砂にしてしまったが、拳から零れていった砂はキャミソールの内側へと入り込んで手の形を取り戻した。肩紐を摘み上げる動きに驚いて、うっかり変な声がでそうになった。
「現にこうして、力があろうとも、きみには私を退けることすらできないんだから」
「……ご、ごめんなさい」
「なにが?」
 なんとか謝罪を絞り出したが、ノータイムの、しかも笑顔で切り返され、へつらい笑いを浮かべていた顔がこわばる。わ、わからない。とりあえずめちゃくちゃ怒ってるぽかったから謝っただけだった。取り繕えず黙り込んだ私に、ドラルクさんは笑みを深めた。あっなんかドラルクさんのブチ切れゲージが上昇した気がする。こういうの、ゲーム脳っていうのかな。組み敷かれたまま、私はそんなに現実逃避をした。ドラルクさんが私の頭横に肘を曲げてつくと、元から近かった距離がますます近付いた。
「じゃ、お嬢さん。お勉強の時間としようか」
「お、お勉強。な、なんのでしょうか」
「そうだなぁ」
 私にはさっぱり検討がつかないが、言い出しっぺである彼に当たりがついていないはずがない。それなのに、ドラルクさんはわざとらしく間延びした声で、考えるふりをした。斜め上へと向けられていた赤い目は、私を穿つと、弓なりに垂れて歪んだ。
「危機感と、それから私にいったいなにができるかってことを」
 たっぷりその身体に教えてあげようね。
 そう言って舌なめずりする真っ赤な長い舌に、いよいよ声がでなくなってしまった。

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