すぐ死ぬ論争


「すぐ死ぬのはそっちだろうが!」
 あ、やばい。
 勢い任せで口走った言葉を後悔するのは早く、頭に昇っていた血が途端に引いていった。怒鳴った剣幕のまま空気と一緒に凍り付く。血潮の急激な移動で目の前が霞むような心地にさえ襲われ、視界がグラついた。興奮の代わりに押し寄せてきた緊張で喉がひっついたように乾いていて、声をだすことができない。
 私があまりにもひどい形相をしていたせいか、彼女は数秒の間言葉を失くして目を見張っていた。しかしすぐに鼻の付け根に皺を刻むと、眉尻をきゅっと吊り上げて激しく私を睨みつけてくる。
「勝手に殺さないでくれます? なんですかいきなり長命種アピしてきて。ああ、あれですか。年寄りなりの遠回しな自虐風自慢? えー、さむ〜! すみません現代ではそういうの流行ってないんですよね。二百なんぼの化石おじさんには分からないかもしれないですけど笑」
「ア?」
 私が彼女の気迫に気圧されたのも一瞬。せせら笑いとともにぽんぽんと捲し立てられ、萎んだときと同じくらいの速さで怒りが再度大きく膨れ上がる。
「寿命マウントやめてください。普通にあと六十年は生きるんですけど〜?」
「は? マウントじゃなくて純然たる事実なんだが? そっちこそたった六十年ごときで粋がるなよ、人間風情が」
「は? 言ったな、言いましたね! そっちがその気なら私にだって考えがありますよ。精々吠え面かく準備しとくがいいですよこの砂ガラロリコン!」
「きみはロリじゃないだろうが」
「うるさい変態。だからって二百近く年下の小娘に手を出すのはどうなんだっていやまあ迫ったのは私ですけどねありがとうございますとにかく覚えとけよ!」
 情緒がぶっ壊れた捨て台詞を一息に言い放ち、彼女は事務所から立ち去った。荒々しい足音はあっという間に遠ざかり、重たい沈黙が事務所を包む。そんな寒々しい事務所に一人取り残されたことで、私はようやく体を灰塵と化すことができた。のろのろと砂の身体を這い動かし、なんとか硬いソファへ乗り上がる。いつ客が来るかも分からないなとは思いつつも、行儀悪く横たわって無機質な蛍光灯を漫然と見つめた。
 きっかけは、些細な言い合いだ。ちょっとした口喧嘩くらいなら恋人であれば誰だってやるだろう? だからこんなのはさして珍しくもない、日常茶飯事でよくあること。だったはずなのだけれど、多分今日はお互いに虫の居所がいつもよりほんの少しだけ悪かったのだと思う。私も今にして思い返すと不思議なくらいイライラしていて、どうにも口が止まらなくなってしまって。そうして緩んだ口からうっかりまろびでたのは、嘘偽りのない本心だった。伊達や酔狂などではない、心の底からの本音。しかしだからこそ良くなかった。
 あんなことを言うつもりは本当になかった。言うとしても遠い未来――それこそ彼女の言っていた六十年後くらいの世界であの子が灰にでもなったら、と思っていた。その時は、私より冷たい石の塊の前でかるーい調子で言ってやろうかな、と。だってこの想いは冗談にしたってとても笑えない類のものだということは、私自身重々承知していたから。……いたのに。ちゃんと理解していたくせして、それをたった今彼女本人に直接、しかもあんな形でぶつけてしまった。その事実がショック過ぎてさっきは死ぬことすらできなかった。
「……気を」
 掠れ声がぷつりと途絶える。後悔が全身を蝕んでいて、ほんの僅かであれ口を動かすのが億劫だった。そう、気。気を遣わせた。自身の呟きを頭の中で引き取って続きを紡げば、改めて自分の罪深さが身に染みて、罪悪感で胃がキリキリと締め付けられる。あの子だってきっとさぞ傷ついただろうに。それこそ私なんかよりも。こうして傷付けてしまうことは分かっていた。彼女の心の柔い所を――防御してなかったであろう部分を刺してしまうであろうことは、分かっていた。だから言うつもりはなかった、というか知られてはいけなかったのに。
 私の慟哭の直後に見せた彼女の様子を思い出し、また音もなく体が崩れていくのを感じる。瞬時に強ばった顔や、酸素を求めるかのように一度はくと震えた唇。動揺で見開かれる中頼りなく揺れた瞳。私の言葉の意味するところを素早く、そして正しく汲み取ってしまったのだろう。すぐにわざとらしい怒りで塗り潰されてしまったが、しかしほんの一瞬でも彼女がみせたその反応は顕著だった。
 元々胆力のある子だとは思っていた。なにせこの私を根負けさせて気持ちを認めさせたほどだ。やわな心根の持ち主ではないことは、身に染みて知っていた。しかしあそこで悲しみを殺すことができてしまうほど気丈な娘だとは思っていなかった。私は彼女を侮っていたらしい。芯の強さに素直に感心すると同時に、再び音もなく身体を砂粒と流す。あの子にあんな振る舞いを強いさせてしまった事実が苦しくて、全身を茨で括られているような気持ちだった。
「……ていうか最後のは普通に刺さったな」
 ロリではないにしても、二百年下の子に手を出すのはさすがにどうなんだとは、自分でもうすらぼんやりと思っていたことだった。痛すぎるので普段はあまり考えないようにはしていたが。今日何度目かの重たい息を吐き出しながら、メッセージをいれるために携帯を取り出す。とりあえず謝罪と、それに伴って次に会う約束を。『既読』の文字がそんなに早くつくわけもないけれど、それでも落ち着かない。念を送るみたいに二つ連続で並んだ緑の吹き出しを睨みつけてしまう。会ってくれるかな。許してくれなくてもいいから、とにかく会いたいな。直接顔を見て謝りたいし、なにより、彼女はすぐ死んでしまうんだから。
 謝ったくせしてまだこんなことを考えてると知れば、彼女はきっと今度こそ烈火のごとく怒りだすだろう。我ながら反省してないなと自嘲してしまうが、でも仕方ない。だってどう取り繕ったって、これが、こんな弱音が私のどうしようもない本音なのだから。

 ◆
 恋人が吸血鬼になった。
 仲直りをしたくて予定を取り付けたはずだったのに、父親によく似た吸血鬼の気配が扉を叩いたせいで、用意していた言葉も態度もお茶会の準備も、全て台無しになった。歯噛みの反作用で微妙に死に続けながらも、耳の尖った、赤目の、白磁のような肌となった恋人をきつく睨みつける。
「どういうつもりだ?」
「吠え面かけって言ったはずですが?」
「っだからって物事には限度ってもんがあるだろうが! 自分がなにをしたのか分かってるのか? 吸血鬼になってくれなんて、私は頼んだ覚えはない!」
「は? 自惚れないでください。あなたのためなんかじゃありません。これは私が私のためにしたことです」
 ノータイムで切り返され唇を噛み締める。彼女はまた私と同じくらい頭に血が上っているらしい。赤目を吊り上げた彼女に、このままじゃ前回の二の舞になると直感が告げていた。だからといってこの爆発せんばかりの憤りを鎮めることはできない。だってこれはそんな簡単な問題じゃないだろう。
「……誰のためでも構わないがね」
 前置きだけで彼女はムッとしたようにまた眉をひそめた。ことの事態と悲劇性をまだ分かっていなさそうな彼女を静かに見据える。
「だとしても、きみの選択が浅慮なことに変わりないよ。いずれ必ず後悔するぞ」
「そんなわけ――」
「ご両親はいくつ?」
「えっ? あ……五十、ちょっとくらい? だいたいですけど」
「そう。ならあと三十年もないな」
 何の話だと困惑していたが、私の言葉の意味を素早く悟り、勝気だった相貌がぎしりと強ばる。
「ああ、そういえば妹さんがいるって言っていたっけ。じゃあきみは自分より皺の増えた妹と一緒に遺品の整理をすることになるんだね」
 茜が射し込むリビングで思い出の品を一つひとつ検品して、彼らが残した彼女たちのアルバムを開き、親からの愛情を再確認して影を一つに寄り添い慰め合う、人生を折り返そうとしている女性とまだ人生が始まったばかりのような容姿の女性。
「六十年後はきっと息をつく暇もないぞ。次から次へと顔見知った者たちが灰へと成り果てるだろう。人間だった頃のきみを知るものはあっという間にいなくなる」
 不必要に朗々とした、それでいてどこか冷たい自分の声がやたらと事務所内に響く。
「きっときみは彼らの墓へと足繁く通うのだろうね。彼らのことを忘れないように。過ごした日々を体に刻むように。声を忘れるのは早いぞ。名前と顔が一致しなくなるのにはさてどれくらいかかるかな。まあ仕方ない! 記憶というやつは、どう足掻いたって膨大な時間を前にすれば為す術なく擦り切れてしまうものだからね」
 やっと絶望を兆した瞳にそれみたことかという冷淡な感情と、一抹の憐憫を抱く。ほんとう、愚かだ。なんとも軽率で度し難い、とてつもなくバカなことをしたんだよ、きみは。……ああ、でも。
「月日は矢のように流れ自分を育てた街並みが瞬く間に移り変わり、やがては教科書にだって載るかもしれないな。しかしそれを懐かしいねと笑い合う友さえいない」
 本当にバカなのは、私の方か。
 まったく、いったいなにをしているのだろう。今最も優先してすべきことといえば、人の理から自ら進んで脱して同胞となってくれた彼女に心からの感謝を伝え、抱き締めてあげることだ。頭をやさしく撫で、こめかみに口付けて、背中を摩ってあげて。二人と一匹との明るい未来の話でもしたりして。そうして転化して間もない彼女の不安を解してあげるべきだった。それが恋人としての義務と権利で。
「新たな友ができるだろう。楽しい時代も来るだろう。でもそれさえ刹那だ。友も世界も、慈悲なくきみを置き去りにする。そうやって何世紀も何世紀も、腐るほどの時間を過ごすんだぞ」
 そう分かっているはずなのに、口ばかりが勝手に動く。彼女を傷付けるためだけに。どうして私は恋人を労いもせず、こんな惨酷なことをし続けているのだろう。喋りすぎで頭に酸素が足りていないせいか、感覚がなんだかふわふわしていて、二本の足で床を踏み締めている気がとてもしない。
「いま一度尋ねてあげよう」
 全部自分がしていることなのに、どことなく俯瞰的で、妙な心地だった。それなりの年数を生きてきたが、多分、今が一番混乱している気がする。
「これでもまだ、絶対に後悔しないと言えるのか」
 こんがらがった紐のような心を嘲笑うように舌だけが一切の淀みをみせずペラペラ回る。こうなった今もう聞いたって仕方のないことをわざわざ聞いて、彼女自らに傷を抉らせようとしていた。最悪だ。最悪という自覚まであるのに、私は『答えなくていいよ』と、『変なことを言ってごめんね』と言ってあげることができずにいた。最悪だ。
 彼女はすっかり赤く充血してしまった目を、とうとう伏せてしまった。緋色の瞳に、涙で束になった睫毛の影が落とされる。
「……わからないです」
 絞り出されたのは、夜の森に捨てられた子どものような儚い声だった。私が重々しく息を吐くと、影法師のごとき頼りない立ち居姿がびくりと震える。別に責めたつもりじゃなかったんだが。問うておいてなんだけれど、そうだろうなと思っていた。数十年後の自分が現状になにを思うなんて、私にだって分からない。だから彼女の判然としない返答は充分に想定の範囲内だった。
 だというのに、ほんの僅か、それでもたしかに落胆している自分がいた。そこで初めて、私は彼女に『それでも後悔しない』と言い切ってほしかったのだということに気が付いてしまった。この期に及んで、なんて女々しくて身勝手なんだろう。あまりのどうしようもなさに、胸をトンと突かれ一つ穴を開けられたような衝撃に襲われる。
「――でも」
 今にも死んでしまいそうな耳朶をぽつりと打った震えた声。いつの間にか下がっていた視線を上げ、彼女を見遣る。眦から滲んだ涙は目の縁いっぱいで溢れだしそうで――けれど決して、一滴たりとも溢れてはいなかった。筋のないまろやかな頬は青白いが綺麗なものだ。吸血鬼になっても、変わらずに。
「後悔しても後悔しないと思ったんです」
「――……は、なに……それ……」
 自惚れるなと言ったじゃないか。
 私のためじゃないとも言った。
 その言葉のどこが、その行為の意味するところのどこが、私のためじゃないというのだ。
 皮肉ってやろうと思った。笑い飛ばしてやろうと。でも頬も声帯も固くかたまっていて、不格好な笑顔もどきを浮かべることしかできなかった。「ねえ、ドラルクさん」皮と骨ばかりの頬に、ひんやりとした手を添えられる。慣れているはずの温度にこれまでで一番『実感』してしまって、泣きたくなった。喉が引き攣り、気道が狭まるのを感じる。ああ死にそう。死にたい。
「ドラルクさん」
「……なに」
「私、ピチピチの吸血鬼なんです」
「ピチピチ」
 睨まれたので素直に「ごめん」と謝る。茶化すような場面じゃなかった。「もう」むすっと唇を尖らせ、軽く息を吐いた彼女は少し得意げに口を緩ませた。
「若いんですよ、私。若いどころか生まれたて。つまりですよ? 分かりますか、この意味が」
 分厚い涙の膜の奥へ、いっそ暴力的といえるまでに凶暴なぎらつきが宿る。彼女の瞳は爛々と燃え上がっていた。
「私じゃなくて、あなたが私を置いていくんです。分かりますか、二百歳の吸血鬼さん」
 激しい炎のような眼差しと、そんな彼女が毅然と紡いだ音の粒に呼吸ごと射すくめられる。顎が戦慄き、歯が一度軽く噛み合った。
 吸血鬼は不老だ。けれど不死というわけじゃない。何世紀も生きている御祖父様がいまだはっちゃけご健在ウルトラ迷惑タイフーンなのはそりゃ真祖だからで。とはいえ、まだまだ先とは言えど、あの人にもいずれ終わりは訪れるのだろう。彼女の言葉を聞くまでまともに考えたことは、とんとなかったけれど。
「ドラルクさん」
 私が彼女を独りにする。逆のことなら、もう長い時間をかけて覚悟を固めたことだった。けど、でも、私――私が?
「ドラルクさん」
 柔い温もりに冷えきった頬を包まれ、頬骨を緩やかに撫ぜられた。見慣れぬ瑞々しい朱色と間近で視線が交錯する。
「私があなたを看取ってあげますよ」
 そう言った彼女がコツンと額を合わせると、前髪同士が擦れて乱れる。彼女はヒヒ、と悪ガキのような笑い声を零し、屈託のない笑顔を浮かべた。私より一回りくらい小さい鋭利な牙が覗く。
「私は、あなたたちの灰を抱えて朝陽に飛び込む覚悟は出来てるので」
 本当、自惚れるな、などとよく言えたものだ。
 今度こそ絶対に言ってやりたかった。でも今はまともに声を出せる気がまったくしないので、これはあとで言うことにしよう。

【オマケ】
 やっとまともに呼吸ができるようになって開口一番、先の決意通りの嫌味を零す。しかし私の嫌味はこれっぽっちも響かなかったどころか、彼女を呆れた面持ちにさせただけだった。
「泣くほど嬉しかったくせに……」
「泣いてないが?」
「まだ涙目のくせによく言う。ていうか死ななくてもいいよ、とか言ってくれないんですね」
 痛いところを突かれ言葉に詰まる。分かりやすく狼狽した私をクスクス笑いながら、彼女が「まあそんなこと言うようなら二世紀くらい姿くらましてやろうかな、と思ってましたけど!」と言うので、悔しいし情けないけれど、今度こそ隠しようも誤魔化しようもないくらい泣いてしまった。

 だってそれ、二世紀経っても私を愛してくれるってことだろう。

 私があんまり赤裸々に泣き始めたものだから、今度は彼女が動揺してしまって。「あの冗談、長命種ジョークというか。ちょっとやってみたかっただけで、あの」花のような唇がわたわたと忙しなく動く中、顔を傾けてほんの少しだった距離を完全になくし、彼女の言い訳を呑み込む。その唇はいつになく冷たかったけれど、それでもいつもと同じ、なにより愛おしい感触をしていた。

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