言葉にしろ


 あれ、私達って恋人なのかな。
 そんな今更すぎる疑問が浮かんだのは、友人の結婚式から帰宅する道すがらのことだった。ご飯美味しかった、幸せそうだったな、あの子。ドレス綺麗だった。私もいつか着てみたいな。星のような輝きを放つ、月の海の色をした白いドレス。天の川のような長い裾を引き摺って、薔薇のブーケを持って赤い道をしずしず歩いて、それで歩いた先には、きっと――きっと?……という具合で。
 デートだって何度もしたことあるし、今だって半同棲みたいな状態だし、吸血はもちろん、昼間には話せないあれやこれやなことも一応していて、はや数年が経とうとしている。しかしそんないかにも『恋人っぽい』実績がいくつもあるにもかかわらず、私はどうしてか、『彼と恋人である』ということを、胸を張って言うことはできないような気がしていた。
「おかえり」
「ただいま、です」
 家に帰ると、ちょうど疑惑の彼が出迎えてくれた。ああ、今日来てたんだ。……こう、知らぬ間にしれっと家に来てるとか、やっぱり恋人ぽい気はするんだけど。おかえりの抱擁とキスを受け入れながら、そんなことをぼんやり思う。
 洗面所に寄ってからリビングへ向かい、二人がけの、少し狭いソファに腰を落ち着ける。ユダさんはテレビを消すと、私を引き寄せて、流れるように私の頭を自身の膝へと寝かせた。無駄な肉のない細身の太ももに受け止められ、数秒呆けるが、すぐにハッと慌てる。
「待って、お化粧ついちゃう。今日濃いんです」
「いいよ、別に」
「いやでも……」
「今夜はもう外出しないから。それより、そんなおめかしして、どこに行ってきたんだい?」
 声音はいやに甘ったるかったけれど、有無を言わせぬ圧があった。頭に手を添えられているから起き上がることもできない。返事を急かすように、ユダさんの指が側頭部を小刻みにタップする。仕方ないので、私はいい生地のスーツに頬を寄せたまま口を開いた。
「友人の結婚式だったんです。高校時代の」
「……ああ、なるほど」
 ユダさんは軽く息を吐いた後、「立て続けだね、つい先月もあったろう?」と付け加えた。たったそれだけで嬉しくなってしまう。だって、私の話を聞いて、ちゃんと覚えてくれてたってことだ。……いや、我ながらお手軽すぎるな。関係性に自信が持てないのって、もしかしてこういうところなのでは……。苦い気持ちを隠して「そうなんです」と言った。
「最近ラッシュなのかな……年内にしておきたい、みたいな」
「そうなのかもね。楽しかったかい?」
「はい。立派なステンドグラスがある教会だったんです。大きな鐘の音が素敵でした。シャンパンも美味しかったし。それから今日の子が着てたドレスも、やっぱりとっても綺麗で、きれいで……」
 徐々に言葉が出しづらくなってしまって、やがて私は黙り込んでしまった。「どうしたの?」という不思議そうな声が落ちてきたけれど、私は答えなかった。口にするべき言葉を決めかねていたから、答えられなかった。しばらくは、エアコンが温風を吐き出す音だけが部屋に響いた。
「寝てしまったの」
「……いえ、おきてます」
 こころなしか、少しひそめられた声がする。含み笑い混じりのそれに、今度はちゃんと答えた。
「寝てもいいよ」
 化粧くらいなら落としておいてあげる。着替えもやってあげようね。
 甘い言葉と声と、それから手が、微睡みへ誘おうとするように柔らかく降りかかる。果たしてこれは、恋人扱いなのだろうか。普段の私なら彼のやさしさに舞い上がって、全てを委ねてしまうけれど、一匙の疑いを抱いてしまった今の私ではそうもいかなくて。もしかしたら、彼にとって私なんて、グズる赤子と変わらないのではないだろうか、なんて考えてしまっていた。事実、年齢だけで見てしまえば、私なんて赤ん坊に違いないのだろう。
「きれい、で」
 掠れた声に、平時と何の変哲もない「うん」という相槌が挟まれる。一度唾を飲み込んで乾ききっていた喉を潤した。
「……だから、私も、したいなぁって」
 なにが、と明言しなかったのは、せめてもの予防線だった。もし結婚はちょっと、って顔されたら「やだ、ドレスが着たいだけです」って笑ってみせよう。
「そう」
 そうか、なるほど。
 彼が頭上でぽつぽつ独り言るのを、固唾を飲んで聞く。目を瞑って、続きをじっと待った。
「じゃあ、いつにする?」
 予想外の返答に、身体が弾かれたように動いた。起き上がって絶句する私へ、彼は促すように顔を傾けた。どうしたんだい、とでも言いたげな相貌に、はく、と口が震える。
「い、いいんですか?」
「なにが?」
「なにがって、だから、その……」
 あれ、この人、『なに』を『いつ』しようとしてるんだ? 私の本音を正しく汲んでるのか? それとも私がドレス着たいって言っただけって思ってる? 
 混乱して言葉をなくしていれば、ユダさんは瞳を弓なりにして蕩かした。
「どうしたいのか、言ってごらん」
 言葉がほしい。安心させてほしい。この関係に、あなたの口から名前をつけてほしい。拒絶しないで、受け入れて。柘榴色をした赤い光に、胸の底に押しとどめていた願望が、濁流のように溢れていく。どうしたいのかだなんて、そんな――そんなの!
 愚問ともいえる真意の見えない問い掛けに、かぶりを振って、全てを叫び出したいような衝動に駆られる。私は口内をきつく噛み締めて、激情を無理やり押し殺し、両目を細くしてユダさんを見つめた。
「……ウェディングドレス、着たいです」
「いいね、十着くらい着ちゃおう」
 けれど結局、願望のどれ一つとして口にすることはできなかった。だって傷付きたくないから。
 ニコニコで言う彼に、こっそりため息を吐く。彼の中では撮影会がひらかれることになっているに違いない。自業自得だ。スタジオアリスに行くようなもんなんだろうな、きっと。
「指輪はこれでも使おうか」
 あ、そうだ、なんて思い出したように、どこからともなく取り出した四角い箱をポンと投げられる。紺色の立方体をこわごわ開くと、中には紋章のようなものが掘られた立派な指輪が収まっていた。見慣れぬ紋章に首を傾げて彼を窺ったが、ユダさんは不自然なまでににこやかな笑みを崩さない。
「これ、なんですか?」
「一応私のシグネットリング。あげるよ」
「シグ……? よく分からないですけど、なんか、え、いいんですか? すごい大事なものですみたいな見た目してるんですけど……」
「いいからいいから」
 ノリが軽い。でもやるのはただの撮影会なのに、こんな高級そうな物を貰っちゃっていいのだろうか。たかが”ごっこ遊び“には適さないような……。
 なんて思っていたら左手を取られ、薬指に輪っかを通される。次いで指の先に口を寄せられ、自然と体に力が加わった。
「でも一度受け取ったからには、肌身離さずつけていてくれたまえよ」
 ……あれ、撮影会の話だよね、これ?
 醸し出される雰囲気と、意味深に紡がれた台詞に目を瞬かせる。改めてユダさんをまじまじ見て、私はそこでやっと、目の前の男の目が少しも笑ってないということに気が付いたのだった。

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