凍ったココア


 死にたい。
 仕事でミスをした。小さなミスだったけど、私は最近特にそういうのが多くて。気を付けなきゃと思ってたくさんメモをしているのに、なんにも上手くいかなくて。「すみません、気を付けます」って謝るたびに『できてないじゃん』って自分で思って辛くなって。職場の人たちはみんな優しい。自分で言うのもなんだけど、私のミスは(幸い、今のところ)本当に些細なものばかりで、仕事に大きな影響を与えるようなものではない。だから、「そんな謝らなくていいよ」「みんなやったことあるし」とあからさまに落ち込む私をフォローをしてくれる。でもその気遣いが申し訳ないしもう逆にしんどくて。とにかく終わりになりたい。死にたいっていうかもうなんもしたくなかった。いやうそ、やっぱ死にたいわ。生きるのしんどすぎ。人間の体は一日八時間週五で働けるように造られてないんだよ、バカ。くそ。あほ。しにたい。
 そんなやさぐれた気持ちで最寄り駅から自宅までの薄暗い道をとぼとぼ歩き、帰宅した。ら、恋人が遊びに来ていた。扉を開けるなり疲弊した体を包み込んだ心地よい冷気と明るい部屋に、まさかと思って早足でキッチンへ迎えば、そこには黄色い花がたくさんあしらわれた私のお気に入りのエプロン――なぜか彼にはあまり評判がよくない――を身につける恋人の姿が。
「おかえり」
 ノースディンは味見用の小皿へちょうど口を寄せるところだった。妙な体勢で動きを止め、律儀に皿を置いてからこちらへ向き直った彼に呆然とする。
「な、なんでいるの」
「愛しい恋人に会うのになにか特別な理由が必要か?」
 ノースは冗談っぽく眉を上げて、いつも通りの軽口を叩いた。
「明日は休みと言っていたしな。それに、そろそろ溜め込んだストレスが爆発する頃なんじゃないかと」
 こともなげにそう言って、ノースは肩を竦めた。ふと思い出したように「休みなら酒でも飲むかね?」と冷蔵庫を開けようとする。
「きみでも美味しく飲めそうなワインを見つけてな。いやなに、本当に偶然、たまたまなんだが――」
「しにたい」
 ノースが私のためを思ってたくさん気遣ってくれたのが嬉しくて苦しくて、突然なにもかもが嫌になってしまった。ノースディンの声を遮って零せば、当たり前のように続きは途切れた。澄ました顔が凍りつき、ノースの瞳が僅かに見開かれる。一分ほどそうして見つめ合った末、不意にノースが動いて空気を揺らした。両肩に手を置かれる。
「……えっ」
 かと思ったら、そのままくるりと反転させられた。押されるがままに動けば、ソファに座らさられた。
「なに――なになになになに?!」
「動くな」
 意図を尋ねようとした瞬間、目の前が真っ暗になり、冷気からも遮断される。じたばたと混乱していれば、嗅ぎなれた彼の匂いが鼻腔を満たした。……彼のマント? だかコートだかに包まれているらしい。説明もなしにこんなことをした持ち主は、キッチン――足音的に――へと戻ってしまった。動くなって、いや、暑いんですけど……。顔だけでもだしちゃお、とマントにくるまった状態でぼんやり彼を待つ。重厚なマントに包まれた体がじわじわと汗をかき始めていたが、頭部は涼しいせいかそこまで不快でもない。彼の匂いによる安心感も相まって、むしろ眠たくなってくる。キッチンからのカチャカチャという音を聞きながら、目を瞑る。
「……寝たのか?」
「……え? あ、起きてる」
 半分くらい寝ていたせいで、反応が遅れてしまった。なんだか甘い匂いがする。その香りは、目の前に立つ気難しい面持ちの恋人の手元から発せられていた。
「飲め」
「……ココア?」
 いやなんで? 私が眉をひそめれば、「こういうときは、これがいいだろう」とノースもまた眉をひそめた。どういうとき?? ノースの弁は意味不明だったけれど、差し出されたのでとりあえずマグを受け取る。作り立てだから当然だけれど、湯気がすごい。湯気が……。
「飲まないのか」
「いや、あの……あっついんですが……」
 ココアも体も……。「そ、そうか」ノースはハッとして、慌てた素振りでココアに手を翳す。持っていたものが急に固くなったような気がして視線を落とせば、中のココアが凍っていた。は?
「これでいいか?」
 なにが? さっきから挙動不審すぎない、この人。呆れというか、単純に困惑で困ってしまう。瞬きをして彼を見遣れば、ノースは口を固く引き結んだ。隣に腰を下ろし、そっとこちらへ腕を伸ばしてくる。彼の肩口へと、柔く頭を引き寄せられた。いつにないぎこちなさで、彼の手が髪を梳かすように動いていく。そこでようやっと、私は一連の行動が私を慰めるためのものだったのかということに気が付いた。こういうときはココアって、いや、そうかもしれないけど。でも今夏だよ。マントも暑いし。どれもこれも、外しすぎでしょ。ああいや、抱き締めて頭を撫でるってのは当たってるかも。ちょっと拙いけど。まったく、普段は無駄に饒舌なくせにこういうときは不器用なんだ、ノースって。へえ。知らなかった。知れてよかった。
 それが知れただけで、今この瞬間を生きててよかったな、なんて思ってしまって。私は彼のお高そうな首元の布を濡らしてしまったのだった。もうちょっとがんばろ。知らないあなたをもっとたくさん知るために。

 >>back
 >>HOME