にんげんきらい


 きらい。きらいきらいきらい! 
 歯を食い縛って障害物だらけのけもの道を駆け抜ける。手や足が痛い。尖った小石や細かい枝が剥き出しの手足にグサグサ食いこんだり引っ掛かったりする。走る度に傷口へ土が刷り込まれていく痛みがどうにも惨めで堪らなかった。目尻から涙が溢れていくが、それでも足は止めない。だって走るのをやめたら、あいつらに捕まってしまう。だから足の痛みも酸欠も我慢して走り続ける。ああもう、どうして私がこんなことをしなくちゃいけないの? 私がいったいなにをしたっていうの? 荒い呼吸に抑えきれなかった嗚咽が紛れる。嫌い。もういや。私以外の生き物なんて塵も残さず消えてしまえばいいのよ。私が今こんなことをしなくてはいけないのも、全部あいつらのせいなんだから。……そうよ、私は悪くない。だって誰も彼も、私の嫌がることばかりをするんだもの。私がどれだけいやだと喚いても、全身を使って渾身の力をあげて暴れ倒しても、まるで取り合ってくれない。私の意思など彼らはどうでもいいのだ。それに気が付いてしまった時の絶望ったら。身体を粘土のように揉みくちゃにそれながら、目の前が急に真っ暗になった。ああ、きっとコイツらは、私とはまるきりちがう生き物なんだわ。分かり合うなんてはなから無理だったのよ。
 だから、逃げた。もうきらい。みんなきらい。だいきらい。だいきらいよ。何回言ったって足りないわ。だってほんとうに大嫌いなんだもの。
 カアと遠くでカラスの鳴き声がしたので走りながらちらりと空を見る。天は夜の幕をおろしかけていて、高いところではポツポツと星が輝き出していた。ああ、私にも羽があれば。そうしたら、こんな痛ましい苦労をする必要もなかったのに。ヒューヒューというみっともない呼吸音が自分の口から聞こえる。ちっぽけな肺はもうぱんぱんに膨れ上がっていて、手も足も、もうもげてしまいそうだ。いつちぎれてたっておかしくはないと思いながらも、足を止められない。止まったら、追いつかれてしまう。そしたら捕まって、それで、また――。
「――ん?」
「きゃあ!」
 突然木の影から現れた男の姿に驚いて止まり損ねる。無様に地面へと転がった私を、紺碧色の髪をした男は目だけで見下ろした。柳のような眉が少し上がる。
「怪我をしているのか」
 そう呟いたかと思ったら、男は土や泥ばかりの地面に膝をついた。
「やあ、かわいらしいお嬢さん」
 男は目線を合わせるように覗き込む。柘榴のような瞳が穏やかに細まっていた。語りかけてきたくせになにも喋ろうとしない男に疑問を覚えたが、こちらの返事を待っているのだと随分遅れてから気付き、私は小声で「なによ」と返事をした。
「触れても構わないかい? 治療を――その綺麗な足を拭わせてほしいんだ」
「……いいわよ」
 へりくだったような物言いのお陰か、言う通りにしてあげてもいいかなという気にさせられた。品定めするような面持ちをなんとか作って、精一杯の矜恃を保ちながら足を差し出す。尊大な態度をとられたというのに、男は心底嬉しそうに「ありがとう」と感謝まで述べた。
 胸元を飾り立てていたヒラヒラした布を躊躇なくビリビリにちぎりそれを使って手早く処置を終えた男は、満足げに頬を緩めて私を恙無く解放した。
「さて――なあ、レディ。この道はきみの足では些か大変だろうから、歩きやすい場所まで案内させてくれないかい? 抱きかかえさせてくれるとなお嬉しいのだが」
「……かまわないわよ」
 ツンと顔を逸らしながらふてぶてしく言ってやったというのに、男は機嫌を損ねることなくまた嬉しそうに笑みを深めた。
 ◆
 整えられた生垣の隙間を潜り抜け、すっかり見慣れた庭園にでる。「ああ」小洒落たティーカップを片手に本を読んでいた男は、私を見て肩を竦めた。
「また来たのかお前」
「なあに、その言い方は」
 ほんとはとってもうれしいくせに。
 賢い私はそのことをちゃんと理解しているので、無愛想な言葉にも腹を立てず、本を気にせず膝に飛び乗った。「こら」と形ばかりの軽い叱責を食らったが、身体に触れる手はどこまでもやさしい。私のことを慮っていることが如実に分かる手の動きは、とても心地が良く、たちまち身体から力が抜けていった。
「足もすっかりよくなったというのにこうも通い詰めるなんて……まったく、妙なやつだな」
 困ったような声音をしつつも、満更でもない色を隠しきれていなかった。弾む声に自然と私の喉も鳴る。
「なぁお」
 手が冷たいところはちょっと気に食わないけれど、ま、それは仕方ないわよね。我慢してあげる。ああ、なんなら私の熱を分けてあげるわ。大盤振る舞いよ。あなただから特別なの。“私”を“私”として扱い尊重した、あなただからこそ。
 そんな意味を込めて皺が刻まれた手のひらに額をぐりぐり擦りつけると、男は開きっぱなしだった本を閉じてとうとうテーブルに置いた。そう、それでよろしい。私だけに傾注しなさい。


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