いつかの影も愛したい


「ナギリさん、誕生日はいつですか?」
「は?」
 それは食事も風呂も済ませ、ソファで本を読んでいた時だった。夜寝でもしようかなどと半分微睡みに意識を委ねかけていたところでもあったので、出し抜けで脈絡のない女の質問に、ナギリは不可解さと邪魔をされた不愉快さとで眉をひそめた。
「……あ、誕生日って概念、分かりますか?」
「舐めるな殺すぞ分かるわ知るかそんなもの」
「まあどうせそう返ってくると思ってました」
「ア?!」
 尋ねてきたくせに何事だ貴様とナギリはほとんど条件反射で凄んだが女は取り合わず、「じゃあ今決めましょう」と何事も無かったように話を進めた。ナギリが広げていた本を栞を挟んでポンと閉じて取り上げると、空いた膝に卓上カレンダーを置く。
「はあ? なんのために」
「お祝いするために」
「祝うだと? なにをだ」
「あなたがこの世に生まれたことを」
 思いもよらぬ女の言葉に、ナギリは無言で四角い目を大きく剥いた。頭を鈍器で殴られたような気分になり、呼吸さえ止まる。ナギリの瞳孔がじわりと咲いていくのを見て、女はたおやかに微笑んだ。
「生まれてきてくれてありがとう。あなたに出逢えて私は幸せです。来年もその次の年も、この先ずっとこうして直接お祝いできますように」
 そういうことをたくさん伝えたいからです。だからナギリさん、誕生日を決めましょう。
 静まり返った室内に、しばらくは秒針が時を刻む音だけが響く。黙りこくるナギリの袖を、女は小首を傾げながら軽く引いた。それでもナギリはなにも答えない。唇が糊付けされたように固まっていて、声を発することができなかった。きつく引き結んだままの口内からカチカチと牙がかち合わさる音がして、ナギリは自身の顎が震えていることに気が付き咄嗟に歯を噛み締める。震えを止めたかったからというのもあるし、なにより喉の奥から込み上げてきた妙な熱を押し留めておきたかったからだった。
 ナギリはハ、と短い息をなんとか吐き出した。それから固まっていた頬の筋肉を無理やり動かして、ゆっくりと歪な笑みを作る。なるべく凶悪に、いつも通りに、前のように見えるようにと心掛けて笑った。
「とんだエゴだな、くだらない」
「気持ちとはそういうものです」
「そんなことのためにわざわざ誕生日なんてものを作るのか?」
「生まれた日というのは大事ですよ」
 ナギリがわざと馬鹿にするように鼻を鳴らしても、女は真剣な表情を崩さなかった。カレンダーを構え、さあ選べとばかりにナギリをじっと見つめる。女の頑なさにナギリはガシガシと乱暴に頭をかき、大儀そうに目を細めてカレンダーを眺めた。
「……お前の誕生日はいつだ」
「えーと……この日です」
「なら俺もその日でいい」
 キョトンとした女の眼差しがどうにも居心地悪かったので、ナギリは「面倒だからな」と聞かれてもいないのに付け足し、顔を背けた。
 お前に逢って、俺はやっと生まれたようなものだから。それはつまり、お前が生まれたから俺が生まれたようなものだろう。だったら俺はその日がいい。お前が生まれた日を、俺の生まれた日にしたい。それなら祝われてやってもいいと――祝ってやってもいいと思えるから。
 しかしこんなのはガラでもないし、小っ恥ずかしい考えだという自覚はあったので、ナギリはそれを音にすることは出来なかった。
「……え、いやですよ。この日は私の日ですから」
「ア?!」
「この日は私の誕生日なので、だめです」
「はっきり丁寧に繰り返すな!!」
 ナギリが牙を剥き出しにして怒鳴っても女は「だって被るのやだもん」と真顔で宣った。ふてぶてしい態度に目の前が赤く染まり、額に慣れた痛みが走る。ふざけるなこのアマ。この世に何億の生物がいると思ってるんだ。被るの嫌だとかガキみたいな、いやガキ以下のわがまま抜かすんじゃねえ。ナギリは先程の浮ついた自分を思い出し、歯が折れそうになるほど強い歯軋りをした。ふざけるなクソが。よく分からないが損をした心地だ。
「まあたしかに? 私はナギリさんにココアの作り方だとか髪の毛の乾かし方だとか? そういったことを色々とお教えしてさしあげましたし? 私が生まれた日にナギリさんが生まれたといっても過言ではないかもしれませんが」
「過言だ殺すぞ」
 不意に女の指が額へ伸びてくる。ナギリは飛び出していた刃を素早く引っ込め、背中を仰け反らせて「なんだ!」と威嚇するようにまた怒鳴ったが、刃を消すのがあと少し遅ければこいつの指を斬っていたかもという事実に心臓がバクバクと轟音を鳴らしていた。そんなナギリの動揺も知らず、女はクスクスと笑いながら平坦になったナギリの額に触れる。
「そうですね、過言です」
「あ?」
「私が生まれた日は私の生まれた日なので、ナギリさんが生まれた日ではないですよね」
 数度額を往復した指が、今度は横髪を梳かすように撫でていく。擽ったくなるほど淡い触れ方だ。ナギリが一度緩慢に瞬きすると、先程ほんの少しだけ顔を覗かせていた眠気が、ふわりと巻い戻ってきた。
「ナギリさんは私がいなくても生まれてたし、ナギリさんはずっとナギリさんです」
 女の手は暖かかった。女もまた眠いのだろう。人間は、夜、寝るものだから。そう推察しながら、ナギリはもう一度長い瞬きをした。
「私は過去のあなたも含めてちゃんとお祝いしたいんです。私と会う前の、ずっとがむしゃらに足掻いていたあなたのことも」
 熱い手がこめかみを伝ってするりと降り、ナギリの骨ばった頬を包んだ。
「だからだめ。私の誕生日はあなたの誕生日にはしてあげれません」
 相貌には柔和な微笑みを湛えられていたが、女の瞳は爛々と光っている。ナギリは無言で女の手に自分の手を重ね、少しだけ頬を押し付けてから目を瞑った。数秒で瞼を持ち上げ、女を見据える。
「薄情で傲慢な女だな」
「やだ、これは全部愛情ですよ。……本当ですからね」
 今更不安そうに眉を下げだした女から、ナギリは敢えて何も言わず視線を逸らす。視界の端で、女の顔色がサッと青く変化したのを捉えた。「え、伝わってない?! あのつまりとにかくあなたが大好きですよってことなんですけど!」知ってる。伝わっている。ただなんとなく悔しかったのでナギリは騒ぐ女を無視して丸の多そうな日付はどれだろうと、半分寝ぼけた眼で数字の表をさらった。

 >>back
 >>HOME