月に亡霊


 ちょうどこんな月の夜だった。
 社割価格で安く買った弁当を片手に黒炭のような夜空を見上げ、私が辻斬りナギリと邂逅を果たした日――そして退治人業の引退を余儀なくされた日を、ぼんやりと思い出す。あれはそう、まさしくこんな、夜を食わんとばかりに大きな煌々とした満月の夜。



 首筋を捉えかけた刃を身を翻してギリギリで躱す。しかし刃は髪をまとめていた紐を掠めたらしく、ふわりと頭が軽くなった。流れた髪を横目に地面へ手を付き、吸血鬼の顎を手加減なしで蹴り上げる。思い切りやったから、これを受けたのが『普通の相手』ならば確実に死んでいただろう。骨が折れるような気持ち悪い音と感触が足から伝わってきていた。
 蹴られて顎の上がった体勢のまま数歩フラフラと後退った吸血鬼は、緩慢な動作で後頭部へ手をやった。ゴキリという鈍い音が再び辺りへ響き、頭の位置が戻る。吸血鬼は俯かせていた顔をゆらりと上げ、口角を吊り上げて四角い目を弓なりにした。吸血鬼がまだ笑っていることに、ピンピンしていることに、絶望で心臓を締め付けられた。
「ヒヒ、存外やるな、退治人……」
「……お前は、そうでもないんだね、吸血鬼。見掛け倒しなんだ、その刃って」
 服は裂け、皮膚は切れ、至る所から血が流れていて、意識はすでに朦朧としている。手も足も顔も傷だらけで、血が出しすぎたせいで手先も冷たくなりだしていた。それでもこの吸血鬼に弱っていることを悟られてはいけない。せめて、さっき呼んだ援軍がここに来るまでは一人でこいつを引き留めておかなければ。
 なんとか虚勢を張って刃こぼれを指摘し挑発を口にした。途端に愉しげだった吸血鬼の相貌が恐ろしく歪む。掌から突き出ていた赤い刃をギロリと睨みつけたかと思えば、どろりと溶け落ちた。瞬く間に形成された紅い刃は先程よりもさらに鋭さを増してる。月光を反射して不気味に赤黒くギラつく刃に泣き言を零しそうになった口を固く引き結び、サーベルを構え直した。
 どのくらい時間が経っただろう。分からないけれど、とにかく吸血鬼が「……分が悪いな」と舌打ち交じりに呟く。私の背後を忌々しげに見ていた。何事かと思ったが鼓膜へ届いた大量の足音に、援護が来たのだと遅れて気付く。長く続いていた地獄の時間が終わるのだという安堵で、ついよかったと張り詰めていた気を緩めてしまった。
「――バカめ」
 吸血鬼がその油断を見逃すはずもなく。嘲笑うような冷え切った声が耳朶を打った。一瞬にして距離を詰められ、すぐ目と鼻の先に吸血鬼の顔が現れる。目を見開くのと同時にドンと胸へ衝撃が走り息が詰まった。視線を下に落とす。胸元に吸血鬼の掌底がつけられていた。僅かに開いた隙間に、赤い刃が見える。吸血されているのか、刃にはドクドクと脈打つような線がいくつも走っていた。あ、やばい、さされた。けれど不思議と痛みはなく、どこか他人事だった。すごい勢いでせり上がってきた血が苦しくてゴホッと咳き込むと、吸血鬼ののっぺりとした白い頬に吐血の飛沫がぽつぽつとかかる。吸血鬼は口端についた血を長い舌でぺろりと舐め取り、下卑た笑みを浮かべながら離れた。沈み込んでいた刃が引かれ、圧迫感から開放される。噴き出した鮮血で目の前が真っ赤になる中、膝からがっくりと崩れ落ちて地面にうつ伏せになった。鉄の濃い匂いが鼻をつき、目の前がチカチカと白んで霞む。「おい」髪を掴まれたのか、頭皮が強く引っ張れ、強制的に顔を上げさせられる。朧になった視界に、吸血鬼の顔が何重にもブレて映る。しかし妙な光を宿した緋色の瞳だけは、やけにはっきりとしていた。
「覚えておけ。俺の名前は――」



  壮絶な痛みとともに意識がぱったりと途絶えてしまったせいで、その名を聞き取ることもできなかった。退治人を引退して数ヶ月経った今、その顔さえ今は曖昧になっている。いい思い出ではないし、別にいいけれど。
 未だくっきり残る胸の傷が疼いた気がしてコートの上から胸元をそっと撫でた。身体を貫いた刃の残痕を完全に消すことは、現代医療の力をもってしても叶わないらしい。この傷を見る度、『あの日』を想起してしまう。吸血鬼の顔を思い出すことはできずとも、きっと完全に忘れることは一生できないのだろう。
 鬱屈とした気持ちで溜息を吐いた時、通りがかった路地から物音が聞こえてきた。なんとなく立ち止まって道の先を見つめ、少し悩んでから影の中へと踏み入る。数歩進み、闇に慣れた目が、壁に凭れるようにして座り込んでいる人影を捉えた。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ?……お前は」
 茶色の薄汚れたボロを羽織った男性は、目が合うと驚いたような声を上げ、なにかを言おうとして薄く口を開いた――が、くう、という音に言葉を邪魔された。なんの音かと目を瞬かせたが、男性がパッと腹を抑えたのですぐに悟る。
「もしかしてお腹が空いてるんですか?」
「うるさい黙れ!」
 大きな体躯に見合わず、なかなか可愛いらしい音だった。思わずクスクス笑うと、男性の広い額にぴきりと青筋が走った。しかしお腹を鳴らした人がそんなことを今更してたって、ちっとも怖くない。全く堪えていない私の様子に、男性は悔しげにギリギリと歯を食い縛った。
「これ、よければ」
「は? なんだ、これは」
「野菜炒め弁当です。当店の看板弁当」
「……当店だと?」
「はい。ほらここ」
 訝しげに目を眇めた男性に、弁当のパッケージを指差す。店名を見ても、男性はまだ不可解そうにしていた。聞いたことがなかったのかもしれない。夜ご飯は消えたが、いい宣伝になった。高卒で退治人をしていたからろくな社会経験のない私を雇ってくれたお店への貢献にもなるだろう。そんな満足感から、男性へとにっこり微笑みを向けた。
「……お前は、ここで働いているのか?」
「はい。それでは、ご来店お待ちしております」
 それじゃあ、と踵を返し、男性を置いて路地裏からでていく。なんとなく振り返ると、頭上には変わらず大きな月がぽっかりと浮かんでいた。

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