不可幸力


 銀さんが私の事だけ忘れてしまった。
「きおくそうしつ」
 まるで初めて聞く単語のように舌足らずに繰り返せば、新八くんは「すみません」と眉を下げ、神楽ちゃんも心配そうに私を見つめる。未成年の子二人に気を遣わせてしまったことがいたたまれず、慌てて「謝らないで!」と声を張った。
「別れようと思ってたし、好都合っていうか――」
「えっ……えええええ?! わ、別れるってそんな急に! どうしてですか?! いやあのバカに愛想が尽きる気持ちはめちゃくちゃよく分かるんですけど!」
「でも姉御に捨てられたらあんなちゃらんぽらん素寒貧白髪天パもう誰にも相手にしてもらえないアル! 待ち受けるは孤独死ネ! 銀ちゃんを捨てないでヨ!」
 しまった、口が滑った。看護婦さんの「うるせえぞガキども!」という声に内心で後悔する。
 元々私の告白から始まった関係だった。いや、厳密に言えば私の告白に「あー、じゃ、付き合う?」と気だるそうに提案されたことからなのだけれど。しかしその後の銀さんの素っ気なさったら、もう笑ってしまうほどだった。告白する前のほうが親しかった気さえする。嫉妬はもちろん、愛を囁かれたこともなければ手を繋いでもらったことさえない。デートは誘えば乗ってくれるけど、私が誘わなければ一ヶ月会わない、連絡もとれないなんてのはザラだった。告白を断って拗れるのも面倒だって相手をしてくれてたんだろう。多分、私から終わりにするのを待ってたんだ。
 そんな汚れた大人の事情を子どもたちに伝えたくはなかったので「潮時かなって」と肩を竦めた。
「今は大丈夫かもしれないですけど……でも記憶が戻った銀さんがなんていうか……」
「平気だよ、きっと納得してくれる」
 むしろやっと自由になれたと喜ぶだろう。私の前でいつも絶妙に気を張っていた彼がホッと息を吐く姿が目に浮かぶようだった。

 銀さんと別れて二ヶ月が経った。私の生活に変わりはない。単調に、何事もなく平穏に流れてゆく日々に、まあ私の日常に銀さんなんて元からいなかったようなものだもんな、と再認識した。それでも半年以上だらだら続いていたのは、私は私で一人で過ごすことが嫌いじゃなかったからだろう。上手く噛み合ってしまったんだな。それがいいことなのか悪いことなのかは分からないけど。
「よォ、別嬪さん」
 銀さんがうちに来たのは、自分のためにオシャレをして自分のために美味しいランチを食べ、自分のためにあれこれ欲しいものを買って満喫した、そんな休日の夕方のことだった。余談だけどここ二ヶ月、ずっとそんな生活なので出費もやばいし家の散らかり具合もやばいことになっている。
 引き伸ばされた口角に、垂れた紅い目。いつもと変わらぬへらりとした笑顔。怪我の後遺症での記憶喪失と聞いていたけど、体調はもうすっかり良さそうだ。私のことも思い出しているらしい。しかし手摺りに凭れていたということは私が帰ってきているのも見えていたのだろうか。携帯を見ていたから気付かなかった。声をかけてくれればよかったのに。
「元気そうだね」
「そっちこそな」
 銀さんは私のことをいやに冷えた瞳で上から下までじろじろと眺めた。居心地が悪い。そういえば、結局銀さんとのデートは五回くらいしかしなかったなとふと思い出す。どれだけ目一杯可愛くしても何も言ってくれないから、段々着飾るのも馬鹿らしくなって、 最後の二回はラフな格好をしての万事屋おうちデートだったけど。……デート? ただジャンプを読んで飽きたら寝る銀さんの隣に座ってただけだしデートとすらいえないかも。
 しかしなぜ今になってこうも品定めするような目で見てくるのか。理由が不明で不気味にすら感じる。たまらず「何の用?」と場を進展させようと問いかけた。
「何の用、ね」
 が、なんだか悪いほうに流れが動いている気がする。私の発言のなにかしらが気に障ったらしい彼は、低い声で私の言葉を繰り返した。聞いたことも無いような声にビビって心臓が鳴る。あんまりそんな、色々気にするような人じゃないと思ってたんだけど。そりゃ短気なところはあるが、日常の細かいことでこうやって静かに――なんていうかガチっぽく――怒ることはそうそうない人だと、思ってたんですが。意外なギャップに悪い意味でドキドキする。銀さんはガタイがいいので、普通に怖い。恋人でもない今、私にとっての彼は脅威でしかなかった。大きくため息を吐いたその音にすら肩が跳ね、咄嗟に身を守るように肩にかけた鞄の持ち手を両手で掴んだ。
「……ま、いいや。とりあえず中で話そうぜ」
「え、中で?」
「おー」
 ゆるーい返事をされるけど、私はそんなふうに簡単には返せない。正直、嫌。なぜか怒ってるっぽい男の人を家にあげたくない。どうしたものかと口内を噛んで渋っていると「なに、だめなの?」と真顔で聞かれ、反射的に首を横に振ってしまった。視線で催促され、鞄からもたもたと鍵をだす。瞬間、パッと手元から鍵が消えた。銀さんは私から奪った鍵で扉を開けると、「ん」と中に入るよう促してくる。まるで自分の家に招待するような態度だ。色々言いたいことはあったけど、黙って家に入れば背後で扉が閉まる音、それからカチャンと鍵が閉まる音がした。
「で、どういった御用でしょうか」
「いやなんで玄関? 茶くらいだしてくんねえの? てか腹減ったんだけど」
「家の中散らかってるんで……」
「へーそーなんだ〜」
 腹減ったとか知らんよという気持ちを飲み込んで正直に白状した。のに、銀さんはブーツを雑に脱ぎ散らかしてズカズカと廊下を進んでいってしまった。ふざけんな、まじでやめて。慌ててヒールを脱ぎ、彼を追いかける。たしかリビングのソファに朝着てたパジャマが置きっぱだ。お皿も夜から洗ってない、ていうか朝食に使った食器とか浸けてすらない気がする。洗濯物は畳んでたっけ。ぐるぐると考えながら、半ば怖い気持ちでリビングに踏み入る。しかし部屋の中に銀さんの姿はなかった。あれ、と思っているとベランダの戸口から銀髪がひょっこり覗く。「これなに?」銀さんが持っているのは、はるか昔付き合いたての頃に『いつか使ってくれたらいいな』なんて浮かれきった私が銀さん用にと購入した薄青色のスウェットだった。そんな若気の至りの産物を、元から私に興味なんて微塵もなかった、別れた恋人が持っている。その事実を認識して、あまりの羞恥に脳みそが沸騰したかと思った。私は脱兎の勢いでベランダまで走り、防犯用としてか使用されたことのないパンツと、今や私のパジャマになっている可哀想なシャツを奪う。ぎゅうと胸元で隠すように抱き締めると、やる気のない眉が僅かにぴくりと動いた。
「誰の、それ」
「……私のですけど」
 一瞬言うのもどうなんだ、と言い淀んだが、まあ隠す意味もないかと結局素直に告げる。変に隠し立てしたら銀さんのために買ったものだと逆にバレそう。よく分からないがそんな予感がした。そしてそっちの方がきっと断然恥ずかしい。銀さんは納得したのか「ふーん」と間延びした返事をした。
「男物の服が、自分用」
 全くしてなかった。腕に力が入り、スウェットに皺が寄る。私は布切れに縋りながら「そうだよ」と開き直ってみた。やけくそだった。興味なさそうなくせにどうしてそんなに突っ込んでくるんだ。
「パジャマにしてるの。あとは防犯とか……女の一人暮らしにはそういう細工も必要なんだよ」
「俺の服使えばいいじゃん」
「は?」
 呆ける私を無視して、銀さんは「今度持ってくるわ」と宣いながらベランダから部屋の中へと戻ってきた。いや、なんで銀さんの服。ていうか裸足で外いたの。汚れるじゃん。ちょうど同じことに気が付いたのか、銀さんは自身の足裏を見てあー、と呟いた。
「わり、足汚れた。風呂貸してくんね」
「ふ……だ、だめ」
「なんで」
「なんでもなにも……そのくらいタオルで充分でしょ」
 持っててくるから待っててと彼をソファに(朝のパジャマはちゃんと回収した)座らせて、洗面所に向かう。タオルを濡らしながら溜息を吐いた。なんか、一気に疲れた。こうして濡らしてるタオルも、銀さんのために用意したものだった。よかったね、初めて本人に使ってもらえるね。いや、なんにもよくない。恋人用に用意した物が別れた後に使われるってなに? ていうかなんであの人家にいるの、えっ銀さんがうちにいる? この世のバグ?
 ふと、虚無な視界に二つ並んだ歯ブラシとコップが映った。歯ブラシとコップはいつも二つずつ用意している。歯を磨く用と、水周りの清掃用。そろそろ捨てるか、と毛先が広がった方の歯ブラシを持った。
「誰の」
「ヒッ……」
 左耳のすぐ側から聴こえた声に驚いて歯ブラシを落としかける。が、背後から回った大きな手が私の手ごと歯ブラシを握り締めた。背中に体温を感じる。後ろは(怖くて)見れないので、恐る恐る前を確認すれば、私にすっぽり覆い被さった銀さんと鏡越しで目が合った。少し俯きがちで、ほとんど前髪で隠れているが、その片目は紅くギラついてる。片手は私の腰の横から洗面台の縁を掴んでいた。
「また『自分』のか?」
「そ、う」
「ふーん」
 嘲笑う響きを持った声に唾を飲む。信じていないのは明らかだった。たしかに直接使うわけじゃないけど、ちゃんと自分用なのに。逐一説明したほうがいいのかと思ったが、なんとなくそれを求められているようには感じず、私は口を噤んでしまった。手の力が強くなっているのは、きっと気のせいじゃないだろう。
「じゃあ今日どこ行ってた?」
「……買い物に」
「誰と?」
「だれ……一人だよ」
「こんな格好で」
 突然太ももを撫でられあらぬ悲鳴をあげかけた。唇を噛み締めてなんとか堪えたが、同時に頬をするりと撫でられる。カサついた指先が紅を拭うように唇をなぞった。歯ブラシは……洗面台に落ちている。手から逃れようと頭を振れば、口の端から紅が伸びて頬に赤い線が走った。とうとう恐怖も忘れ、首元に埋まる銀髪を睨む。ずっと好き勝手振り回され、いい加減腹が立ってきた。
「やめてよ!」
「俺には触られたくないってか。冷たいもんだねえ、恋人相手に」
「なに、違うでしょ、私達、もう――」
「知らねえ」
 決して大きな声ではなかったのに、その低さと威圧感に気圧されて黙り込む。「知らねえよ」脚の間を銀さんの膝が割り入ってくる。着物が少しはだけて外気が触れた。これはまずい、よくない雰囲気なのでは、と鏡を見て、ぽかんと口が開いた。
「俺は認めてねえ」
「銀さん――」
「お前がなんて言おうが――」
「なんでそんな顔してるの」
 どうして銀さんが泣きそうなの。銀さんは私の言葉にぴたりと動きを止めた。再び鏡越しで見つめ合う。さっきより深く俯いているせいで、銀さんの顔はよく見えないけど。
「今日は本当に一人で買い物してきたんだよ。特に理由もなく街をブラついて、ちょっと高いランチとか食べて、そのあとはまた服とか雑貨を見て、それで疲れたら茶屋に寄って本を読んで」
 返事はない。まさか寝てはいないだろうなと不安になる。
「知らないかもだけど、私、一人で行動するの嫌いじゃないの。だから今まで上手くいってたんじゃん」
 銀の頭が少し震えた。一応起きてるらしい。
「銀さん、今日会ってからずっと変だよ」
 少しの間を置き、銀さんはハァーっと深い溜息を吐くと、両腕を私の肩に回し、脱力するようにその頭を私の首に置いた。
「お前が『別れる』とか言うからだろ」
「え?」
「『え?』じゃねえよ。変って、そんなん全部お前のせいだろうが」
 ぐりぐりと責めるように額を擦り付けられ、ふわふわの髪がくすぐったい。身をよじれば「逃げんな」と言われ、抱き締める力が強くなった。
「上手くいってたって、お前アレ本気で上手くいってたと思ってんの?」
「え、いってなかったの?」
「いってるわけねーだろアホか!」
 顔を上げて怒鳴られ困惑する。唾飛んだしうるさいし顔近い。乱れた前髪のまま、銀さんは「いいか?」と私に指を突きつけた。
「月一会うか会わないかの関係は恋人とは言わねーんだよ。言っとくけどこんなん友達以下だからね。お前なんならあれだよ、スーパーのパートのおばちゃんと会う頻度のが高かったからね。ていうか半年以上手も繋がない恋人いる? いねえよ。今日び友達同士でさえちゅーとかしちゃう時代だってのに。あ、もしかしてお前知らない? 友達いる?」
 流れるように罵倒された。少し眉を顰めると銀さんはなぜか嬉しげに頬を緩めた。
「おー、それそれ。普段からそんくれー表情筋動かしてくれれば俺だってもっとやりようがあったっつーのによ」
「さっきからなに言ってるの?」
「いや別に氷の眼差ししろとは言ってねえから。やめてその視線」
 やべっちょっと泣きそ、とか言いながらも銀さんは機嫌が良さそうだった。
「お前、基本的に俺が何言っても怒らねえし、どこまで手だしていいか分かんなかったんだよ」
「……なにそれ」
 うそだ、その言い方だとまるで『本当は手を出したかった』と言ってるみたいに聞こえる。口にはしなかったけどそんな気持ちが伝わったのか、「うそじゃねえよ」と続けられた。
「お前銀さんがどんな気持ちで『付き合う?』って言ったと思ってんの」
「ノリで……?」
「んな軽い気持ちで付き合うわけねえだろこちとらステージオブ清水ジャンプオフしてんだぞバカヤロー」
 いつもの調子が戻ってきたのか口ぶりはふざけ倒してたけれど、銀さんの顔は真剣だった。「そんな今時の爛れた学生みたいな動機なわけねえだろうが」と文句を垂れてるが、いや、なにを今更真っ当な人間ぶっているのか。腐りきってドロカスになった大人(マダオ)のくせに。
「え、すごい言うじゃん。お前もう俺のこと好きじゃない感じ? シャイで内気な銀さんにここまで言わせておいて?」
「別に貶してるつもりじゃ……そもそも真っ当な人間がよかったら銀さんなんて最初から好きにならないし……」
「ありがとね素直に喜べなぁい!」
 銀さんは涙目になって甲高い声を上げると、再び私の首に顔を押し付けてきた。熱い、いつまでこの体勢なんだろう。
「……んで、結局のとこどうなの。俺のこと、もう好きじゃないの」
 自分ははっきりその言葉を口にしないくせに、こちらには求めてくるのか。いや、でも、今までの彼に比べたら十分すぎるほど貰っている。スキンシップも、恋人らしい会話すらもゼロだったあの頃からすれば及第点以上だ。しかしそれを理解して尚、少しの意地が素直になることを邪魔をした。
「……本当は言いたくないけど」
「なんでだよ」
「まだ引き摺ってたよ」
 聞くやいなや、銀さんは今までにないくらい目を大きく見開き、瞳を輝かせた。しかしすぐハッとした顔になって「いやいやいや」と滝汗を流しながら私を睨む。
「とか言ってお前ずっと携帯見てたじゃねえか。あれ、男と連絡取ってたんじゃねえの?」
「いや、グラブルやってた」
「歩きスマホすんなバカヤロー! じゃ、じゃあその格好は?」
「別に普通だけど」
「普通じゃねえよ、そんな服見たことねえし化粧だって気合入ってるじゃねえか」
「……自分がテンション上がるから自分のためのお洒落だけど」
 それより私は、銀さんが私の服装を覚えてることのほうが気になった。化粧の気合いとかも分かる人だったんだ、この人。
「じゃあやたら家に入れたがらなかったのは」
「散らかってるから」
「……ベランダの服は」
「さっき説明したとおり」
「…………この歯ブラシは」
「掃除用」
「サディスファクション!」
 満足したらしい。断末魔のような叫びとともに背中が少し涼しくなった。と思ったら、くるりと体を反転させられ、今度は正面から抱き竦められた。
「ごめん」
 私が何か言う前に、そんな静かな声音が落とされる。
「忘れたことも、不安にさせてたことも。気付けなくて悪かった」
 違う、銀さんが悪いんじゃない。私だって不安に思ってたなら言えばよかったんだ。確認して、それで改めて傷付くのが怖くて記憶喪失をいい理由にして逃げてしまった。伝えようと口を開いたけど、震えた吐息が声を奪っていく。銀さんの無骨な手がそうっと頭を撫でるから、いよいよ泣きそうになった。
「だから……別れるとか、やめてくれ」
 広い背中に手を回すと、頭を撫でていた手が止まり、かわりにギュッと抱き締められる。少し苦しいくらいの力だったが、今は心地よかった。銀さんの胸の中がこんなに安心するなんて、半年以上付き合ってきて初めて知る事実だった。
 けれど不意にうなじあたりに口付けられた感覚がして、体に力が入った。同時に安心させるようにぽんと肩甲骨を叩かれる。ぽん、ぽん。背中が鳴るのに合わせてうなじの熱が徐々に上へと移動していく。うなじ、鎖骨、首筋、顎、頬、耳、瞼、おでこ。そうして間近に迫った紅い目は熱い欲に揺れていた。鼻が擦り合い、呼吸どころか瞬きすら躊躇われる。私はゆっくり目を閉じ、少しだけ背伸びをした。

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