不屈の英雄


 『推し』ができた。
 しかし彼はあまりに高潔で、この世でいっとう尊いお方だと、私は心の底からそう思っていたので、『推し』という言葉で片付けてしまうのは、些か軽く、失礼にあたるような気がした。けれど私の稚拙な語彙と矮小な脳みそでは、彼の存在を表す適切な言葉を見つけることができない。苦渋の決断ではあったが、とりあえずそう呼ばせてもらうことにした。
 推しができてから、私の生活は一変した。『推し』を“推す”のに見合う人間になろうと、微力ながらも努力を始めたからだ。惰性で生きるのをやめ、一つ一つの事象の影に彼を思い浮かべることにした。なにをするにも『これは推しの糧になる』の精神で向き合い、なんの意味もないような些細な動作でさえ、『これが推しの存在しているこの世界に記録される』と意識して行動した。すると自然と所謂『ていねいな生活』を送ることになり、驚くほどQOLが上昇した。バンギャの友人が「推しは世界を救う」と言っていたけれど、あれはその通りなんだなあとこの身をもって痛感する日々だ。私ごときの世界を簡単に救いあげた推しは、いずれ地球を丸ごと救うに違いない。だって今でさえ推しのおかげで地球上の草木は芽吹き森羅万象の生命は存在しているのだから。海も空も、推しの瞳のために創られた。推しの髪色があまりに美しいから、真珠はそれを真似て白くなったのだ。近い将来、恐らくガンにも効くようになる。
「いやぁ、あんたがそこまでアニキの良さを理解してくれるなんて」
 私へそんな斯様に尊き推しの存在を訓導してくれた新横浜のイエス・キリスト様――またの名をロナルドさんという――は、照れ臭そうにしながらも嬉しそうに鼻の下を擦った。
 ◆
「最近随分と頑張ってるようじゃな」
 隊長のデスクにお茶を運んだ折り、そんな言葉をかけられて瞬きをする。そんな私に、彼はふんわり微笑んだ。
「調子が良さそうでなにより。しかしな、くれぐれも無理はせんように」
「はい。ありがとうございます」
 説明するにあたり女たらしスケコマシ等のワードと切り離すことができない上司だとしても、褒められるのは嬉しい。素直にお礼を言うと、隊長もうんうんと満足そうに笑った。頼られ慣れている態度だ。そういえばご弟妹がいらっしゃるとか風の噂で聞いたことがある。
「仕事を頑張りたくなるようないいことでもあったんか?」
「はい」
 吸血対策課という公的なお役所仕事についているせいか、返答は短く簡潔に事実だけを述べるくせがついていた。しかしコミュニケーションを取ろうとしてくれている上司に、これではあまりにも無愛想かと思い直して再び口を開く。
「好きな人ができました」
「ブァッバッドゥアバババババ」
「な、なにしてるんですか?」
 落ち着いた動作で口に運びかけていた湯呑みを、彼は顔付近で突然ぶちまけた。あ、湯立つ新茶のいい匂い、いや、そうではなくて。隊長はお茶をぽたぽたと滴らせながら「いや別に?」と綺麗なキメ顔を作った。
「あの、火傷してませんか?」
「あ全然、ぜんっぜん平気、だいじょぶ」
「よかったです」
「今書類見ながら言ったなお前」
「そんなことは」
 じっとりとした視線に首を振る。机には今日提出の書類が数枚並んでいた。顔を拭き、換えのジャケットを羽織った隊長は「で」と、じろっと私を鋭く見遣った。
「どんな奴なんじゃ」
「はい?」
「その『好きな人』とやらじゃよほらどんなもんか教えてみなさいお兄さんに」
 お兄さんではないだろうと思いながら先の発言に思考を巡らせる。『推し』という言葉は、基本伝わらないものだとバンギャの子に聞いていた。だから誰かに紹介するときには『好きな人』と言うのが推しを推す文化のある界隈の常識なのだと。それに則っての『好きな人』だった。私なんかが彼を好きだなんて宣うのは、半田くんが常識人を騙るのと同じくらい烏滸がましいとは分かってはいた。
「あのですね、その人は――」
 けれど、初めて訪れた推しの話ができる機会に私は秘かに舞い上がっていた。口が止まらない。こんなことは初めてだった。
「――という、素晴らしい御人というわけです。私の知る中で誰よりも気高くて、真っ直ぐな魂を持った神様みたいな英雄なんです」
「……は、ハハ。これまた随分、盲目な……余程心酔しとるようじゃな?」
「はい」
 言い出したのは隊長なのに、彼はなぜか目を見張った。
「好きなんて言葉じゃ、足りないほどお慕いしております」
「……そうか」
 隊長はやけに重々しくそう紡ぐと、それきり黙り込んでしまった。険しい顔にそんな表情をされるような話はしてないはずなんだけど、と不思議になる。
「まあ会ったことはないんですけどね」
「は?」
「とある方のお兄様で……あっあとビームも出せたそうなんですが我が身を省みず右手に邪神を封じ込めたせいで撃てなくなってしまったらしいです」
「ンバッベッギャボベベベ?!?!」
 尊い御方でしょう、と微笑めば、引き攣った笑みの隊長が「ソウジャナ」と言ってくれる。いただけた肯定に、ますます笑顔が深まった。
「隊長にもご理解頂けたようでとても嬉しいです」
「ア、いや、あの……、……ウン……」
「ええ、本当に……。あの、もしよければ、これからも彼のお話を聞いていただけないでしょうか」
「は?!」
「あっすみません、やっぱり迷惑ですよね」
 声を荒げた隊長にすぐ謝罪する。まだまだ話し足りない気持ちでつい調子に乗ってしまった。浮かれ切っていた。嫌がってる人に無理やりお話するわけにはいかない。ご迷惑をお掛けするのは本意ではないし、なにより推しに対する冒涜だ。そう反省して床に視線を落とす。
「う、いや、あ……、……い、イイヨ」
「えっ」
 ヒヨシ隊長の固い声に顔を上げる。でもその顔は聞きたいと思ってるような顔にはとても見えず、眉を下げた。
「えっなんで曇る」
「いえ……お気を遣わせてしまったな、と」
「気を、ン、いや、お気をというか、ぐ、ぅ……んあぁあぁ!!」
 隊長はもどかしそうに頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。セットされた銀髪が乱れ、照明。反射してきらりと光る。すごい、ロナルドさんみたいな綺麗な銀髪だ。そういえば、目の色も、まるでお話に聞いた彼のように蒼――。
「迷惑じゃない! 聞きたい、聞かせてほしい!」
「……え?」
 やけくそのように威勢よくそう言う隊長の頬には、若干の赤みが差している。前髪ひと房、さらりと流れた。
「おみゃーの話を聞かせてくれ。そりゃ、俺はその……好きな人の良さはまだ理解しきれとらんが……でもおみゃーが話すところは、見てて楽しい……好きだ」
「隊長……」
「もっと聞かせてくれんか?」
 つまりそれは、私のお話で推しについてもっと知りたいと思ってくれたということだろうか。推しの素晴らしさを一端でもお伝えできたのか、私は。感無量で泣きそうになる私に、隊長はフッとお茶を被ったときのように微笑んだ。
「な。だからどうじゃ、今度飯でも食いながら落ち着いたところで――」
「分かりましたそれでしたら早速なんですが今夜お時間いただけますか? ちょうどゆっくりお話できるようないいお店を知ってるんですもし隊長の予定さえ大丈夫なようでしたら個室を予約させていただきたいんですが」
「うおおおお行動力〜!!」
「あ、もちろん今夜がだめならご無理はなさらないで下さい。隊長のご都合がよろしい日にお声かけくださればすぐにでも馳せ参じます。私はいつでも大丈夫なので」
「空けるいや空いとるけども。いつでもって。おみゃーも予定とかあるじゃろ」
「いえ」
 きっぱり言い切ると、訝しげにひそめられる。予定、そんなもの、推しについて話せるということ以上に優先されることなんてない。
「これからの夜は、全部隊長のために空けますから」
「ブボエッッッ」
「……あ、もちろん日中だってですけれども」
 付け足すと、机に突っ伏した隊長から、蚊の鳴くような声で「毎日ひまです」と返された。やったあ。

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