記憶喪失


 勢いよく病室に飛び込めば、ベッドから身を起こして窓の外を眺めていた彼女が、ゆっくりとこちらを見た。起き上がっても平気なことに、ひとまずはホッとする。けれど頭に巻かれた白い包帯は、否が応でも目を引いて。その痛ましい姿に自然と眉根が寄ってしまった。
「その……大丈夫か?」
 なんと声をかけるのが正解なのか分からなかったが、とりあえず、と話しかける。気まずげに部屋へと入ってきた俺へ、彼女は困ったように数度瞬きをした。そうだよな、大丈夫だったら入院なんてしてないよな。言葉選びを間違えた。それに、怪我をして今一番心細い思いをしているのは彼女自身なんだ。恋人の俺が情けない顔をしてどうする。
 俺は気を引き締めて、少しでも頼り甲斐のある顔に見えるよう努力しながら、ニッと口角を上げた。
「なにか困ったこととかあったらさ、もうなんでも、全然言ってくれよな。力になるぜ」
「あ、はい……」
 俯きがちでそう言ってから、彼女は言葉を探すような間を作った。やがてそろりと俺を見上げたことで、今日初めてまともに視線が交錯する。その瞬間、どうしてか胸がいやなざわつき方をした。
「あの」
 意を決したような声が発せられる。その声がどこかよそよそしく聞こえるのは気のせいだろうか。いや、気のせいに違いない――そうで、あってほしい。
「どちらさまですか?」
 気のせいであってほしかったのに。
 ◆
 彼女とは新米時代からの付き合いで、俺はもう長いこと片思いしていた。恋人になれたのは本当につい先日のことで、付き合ってからまだ一ヶ月も経っていなかった。
 そんな恋人が俺のことだけ忘れてしまった。俺のことだけ。事故前後の記憶はもちろん、家族や友人のこともばっちり覚えている。覚えていないのは俺という存在のみ。俺の記憶だけが、彼女の中から綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。旅行先で買ったご当地限定自販機ドリンクのことは覚えているくせに、その旅行へ誰と一緒に向かったかは、とんと覚えていなくて。
 つまり、つまりだ。アイツは、俺が好きじゃなかったんじゃないか。告白されて仕方なく付き合ってくれていただけで、本当の本当は、俺のことなんか大嫌いだったのでは。こうしてピンポイントで忘れてしまいたくなるほど。彼女は優しいから、実は無理していたんじゃないだろうか――とか。
 一度そう思ってしまうと、もうだめだった。不安そうな彼女へ、「俺はあなたの恋人です」なんて言い出すことは、とてもできなかった。だから俺はその日、名乗りもせず、ただ「あっ部屋間違えちまったかな?! いやぁほんとすみません気持ち悪いッスねまじで! ゴミは消えますんでどうぞお大事に!」とかなんとか捲し立てて、病室をあとにすることしかできなかった。家に真っ直ぐ帰ってメシも食わずに寝た。メビヤツを抱き締めながら寝た。
「助けていただいた上に、こうして気にかけてもらっちゃって……」
「いや全然、俺もやりたくてやってるので……ハハ……」
 それでも長年の片想いを捨てることは、なかなかどうして、そう簡単にはできなくて。結局俺は、もうまったくの他人のフリをして彼女と関わり続けることを選んだ。なんてバカで、そして気持ちが悪いんだろう。忘れたくなるほど嫌われているというのに、それでも身を引けないなんて。恋や愛だなんて美しい言い方は、もうできなくなってしまった。俺は時折――特に彼女に笑いかけられるたび、そう正気に戻っては、自己嫌悪と罪悪感でどうしようもなく死にたくなった。
「――ロナルドさんって、恋人はいらっしゃらないんですか?」
「いっ……ないです」
「ええ、ほんとです? なんか怪しい間がありましたけど?」
 俺を覗き込む彼女の顔は、にやにやと楽しげだった。俺は『事故にあった彼女を助けた者』という名目――実際その通りなので、この説明自体に間違いはないのだが――で、彼女と交流を続けていた。そのおかげで、彼女ともだいぶ仲良くなった。『前』のような気安さが見え隠れする表情に、懐かしさで胸が締め付けられる。「いや」苦い気持ちを押し殺して、俺は口元を歪めた。
「まじ、あの、ほんとにいなくて、その……いい歳してできたことないんです。それがちょっと恥ずかしくて」
 なんとなく落ち着かなくて、なにかを誤魔化すようにうなじへ手を当てる。一応うそじゃない、はずだ。だって彼女に『ロナルド』って恋人がいた黒歴史なんてないのだから。うっ黒歴史……!
「あっそうなんですね……」
 どこか驚いたように呟いた彼女に、たちまちやってしまったという後悔が募った。あー、言わなくていいことまで言った。困るだろこんなことカミングアウトされたって。てか普通にブーメラン刺さったしな。ハハ、殺してくれ誰か。そんな気持ちで「すみません」と口にする。
「えっなんで謝るんですか?! ていうかむしろこっこそ変なこと聞いちゃって……すみません……」
 彼女は慌てふためいてわたわたと手を振った。
「ただ私、もし恋人さんがいたら悪いなって思ったんです。こんなに通ってもらっちゃって……」
「……やっぱ俺、軽そうに見えますかね」
 以前、依頼者の方に『これだから最近の若者は。チャラチャラしやがって』と言われたことがあった。自分ではそんなつもりはないが、そう見える人もいるのだろう。だからこそ出来うる限り真摯に真面目にと、振る舞いに注意を払っているつもりではあった。
「そうじゃないですよ」
 彼女が眉を下げて笑う。仕方ないなとでも言いたげな笑い方は、やっぱり『前』とそっくりで。
「ただ、ロナルドさんはやさしくていい人で……その、とてもすてきな人だから」
「え……」
「だからきっと、恋人さんがいるんだろうなって」
 彼女が照れ臭そうにはにかむ。すぐに俯いたが、流れた髪の合間から少しだけ見える頬は、桃色に染っていた。彼女がこちらを見ていないのをいいことに、俺はぐしゃりと顔を歪めた。
 いる、いた、いたんだ。大好きな子が。好き好きで堪らなかった人がいた。奇跡的にOKをもらえて、同じ気持ちだったんだって分かった、いや思った時はさ、ほんと、空でも飛べそうなくらいに嬉しかったんだぜ、俺。でもその子は、その人は――アンタは、本当は。
「……そうだと、よかったんですけどね」
 から笑いしながら難しいッスね、と付け加える。そう絞り出すので、精一杯だった。
 ◆
「――好きです」
 長かった入院生活も終わりが見え始めた。彼女の退院も間近となった頃合で、とうとう俺は、隠していた想いを音にした。
 大丈夫。フッたとしても、退院という区切りがある。俺は今お見舞いという体で彼女の元へ通いつめているため、彼女も、『今後の関係が気まずくなるから渋々受け入れる』という思考には、きっともうならないはずだ。だから伝えても大丈夫……なはずだ。多分。
 俺の言葉に、彼女はしばらく、驚いたように目を見開いていた。この病室で初めて話した時と同じように、戸惑いがちに細かく瞬きを繰り返す。
「……お返事は今すぐ、ですよね」
「え、あ、まあ……あっいや、どちらでも……?」
 今すぐフラれるだろうとばかり考えていたから、返答に詰まってしまう。第二の、俺にとっては希望がありそうな選択肢の存在がチラついた気がして、一瞬心が浮き足立つ。が、すぐに緩んだ気を締め直した。調子に乗るなロナルド。お前はもう一度、間接的にだけどフラれてるんだぞ。
「……胸に穴が空いてるんです」
「え?」
 自身の手元じっと見つめていた彼女が、ぽつりと話し出した。
「起きてから――ここで目を覚ましてから、もうずっと。私の中の、なにかが足りないんです」
 寂しくて哀しくて、苦しいんです。
 彼女は、静かに淡々と言葉を紡いでいく。俺は、ただ固唾を呑んでそれを聞いていた。もう一人の自分がやめろ聞くなと、言わせるなと、戒めようとしてくる。それを無視して、耳を傾ける。抑えきれない期待で、唇が音もなく戦慄いた。
「考えても考えても、その正体が掴めなくて。けどロナルドさんとお話してる時は、すごくそれが……なんていうのかな、満たされる、というか。足りないパーツなんてなかった、って感じで、その、すごく安心するんですけどね」
 彼女は場を和ませるようにへらりと笑ったが、その笑顔も、すぐに力なく萎れていった。切なげに眦が垂れる。今にも泣きそうな面持ちに、俺は思わず膝の上に置いた拳を固く握り締めた。いま少しでも気を抜けば、俺は彼女の薄い肩を引き寄せて、自分の胸の中に閉じ込めてしまうと思った。
「……でも、一人になったら、そのことばかり考えてしまう」
 そう言って彼女は瞼を落とす。数秒後に再度開かれた瞳は、強い意志で光っていた。
「私の中の何かが欠けてるんです。それは多分とても大切で、それがなかったら、きっと私は私じゃないんです」
 眼差しに、言葉に、胸を真っ直ぐ射貫かれた。自然と呼吸が止まって、喉の奥をきつく締め付けられる。
「だから今の状態でお返事は……いえ、お付き合いは――」
「すきだ」
「え……」
 拒絶の言葉を遮ったのは、意識してのことではなかった。ただ単純に、想いが溢れてしょうがなかった。彼女が唖然と零したが、俺は俯いて、自分の足先を睨みつけるようにして見つめた。爪先の汚れたブーツが、ゆらりと波打って揺らぐ。
「すき、だ、好きなんだよ、アンタが。ずっと、好きで、だから――ごめん、おれ――」
 本当は俺のことが好きじゃなかったんだろう。
 だから忘れたんだろう。
 そんなものは、自分も相手も傷付ける、拙すぎる予防線だった。なんて無様な逃げだろう。この人はおれの、俺なんかの記憶を、自分の一部と言い切ってくれた。そのくらいに俺のことを、想っていてくれたのに。臍曲げて拗ねて、ずっと苦しんでいたことにも気付かず、支えようともしないで、なにが好きだ、なにが恋人だ。ほんとうに、俺というやつは。
「ごめん、好きなんだ、ほんとうに――」
 そう思うのに、彼女の言葉が苦しさを覚えるほどに嬉しくて、俺は情けない謝罪と告白をボロボロと繰り返してしまった。

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